『クレールの膝』観ました

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クレールの膝

 エリック・ロメール監督作品がデジタルリマスターされて特集上映されている。全国津々浦々を巡回するそうで、近くの映画館で『クレールの膝』を観た。
 1970年の映画で、まだフランスがキラキラしている。といっても、舞台はパリではなく、アヌシーという避暑地で、7月というのに、朝晩はタートルネックのセーターなんて着てる。避暑地の光景自体はありふれてる。たとえば、リゾート地という意味では、ロドリゴ・ソロゴイェン監督の『おもかげ』とも大して変わっていないように見える。
 キラキラしているのは、むしろ、フランス語の会話で、2時間近い映画を会話だけで、BGMすら一切使わずもたせてしまう。会話に夢中で音楽なんていらないとでもいいたげ。
 主人公は外交官で、赴任地が変わるおりもあり、アヌシーの別荘を処分しようと最後の休暇に訪れている。そこで、旧知の女性作家オーロラに出会う。彼女との会話がつまり映画のプロット(?)。何かをして、彼女としゃべり、を繰り返している。
 オーロラが泊っている別荘の女主人のふたりの娘、姉クレールと妹ローラ。このうちのローラが主人公のことを「好きみたいよ」みたいなことをオーロラがいうわけ。「相手にしてあげなさいよ」みたいな。
 とはいっても、ローラはまだ中学生くらい。ここで、ハンバート・ハンバート(ミュージシャンじゃなくてナボコフの主人公の方)みたたいなやばいことになっていったら台無しなんだけど、そういう倒錯とは無関係(ちなみに『プール』の主題歌を歌っている歌手のクレジットに「ハンバート・ハンバート」を見つけたときは、まだ、そういう歌い手さんが存在するとしらなかったので、「これってナボコフ風のダブルミーニングをにおわせてるのかな」と)。
 キスくらいはしてたみたいだけど、結局、同級生の彼氏みたいのを連れてきて「何だよ」みたいな。そのうち、姉のクレールが遅れて合流するんだけど、この子がすごくきれい。ちなみに、こういうことをいちいちオーロラさんと会話してるわけ。
 テニスの試合をしてちょっと休んで、人のプレーを見ながら、そしてまた、プレーする、みたいなリズムで進んでいきます。このリズムがすごく心地よくて、しかも大人な感じがします。
 クレールは高校生くらいかな。オーロラさんが「あのままおとなになったらすごい美人になりそうね」なんて。
 ポスタービジュアルにもなってる、クレールが別荘に実ってる木の実をもいでいる、その脚立をおさえてあげてるときに主人公はクレールの膝に魅了されます。
 で、それもオーロラさんに話します。そして「あの膝を撫でてみせる」と宣言する。はたして主人公はクレールの膝を撫でることができるかどうかっていうのが、地球を救ったり、秘宝を見つけたりに匹敵する映画のテーマになっているのが実にフランス的だと思います。
 ちなみに、主人公は新しい赴任地におもむくとともに10年来の恋人と結婚することになっています。アヌシーには別荘の処分に来てるだけ。でも、パリ祭の夜には、エトランゼの孤独くらいは感じる。そこら辺の自然な描写がすごくうまいなと思いました。
 今泉力哉監督の『街の上で』なんかを観ていると、こういうエリック・ロメール的なところを目指しているのかなという気もします。でも、大人の感じはしないんですよね。
 大人という価値観は奇しくも1970年代に崩れ去ったかもしれなくて。というのは、坂本龍一も言ってましたけど、「30歳以上を信用するな」というのは、坂本龍一だけでなく全世界的なそのころの若者のスローガンでもあったわけですが、単にスローガンというだけでなく、実際の感覚として当時の若者が共有していた感覚だったそうです。
 当然ですよね。その上の世代のやらかしたことを考えれば。しかし、それは健全ではないわけで。大人という感覚が断絶したために、今、政治家や役人にろくなのがいない。菅義偉がこのオリンピックについて、1963年のオリンピックのころ高校生だったと、だからどうしたって話をしてましたが、大人を信用するなと言う言葉を小耳にはさみながら、うっかり大人になった。すると、あんな感じになるのはすごくわかります。会話が成立していない。まともに人と話せないでどうやって政治家に?。麻生太郎にしても、愛読書が『ゴルゴ13』で、著書が『とてつもない国 日本』。ま、子供ですよね。
 地球を救ったり、秘宝を探したりではなく、女子高生の膝をさわるのがどうして大人なのか、といえば、それは禅問答のようなものですね。どうして草履を頭にのせて立ち去ることが悟りになるのか。
 日本のアニメにしてもアメリカの映画にしても、反教養、反知性主義としてのサブカルチャーでした。福田和也が『奇妙な廃墟』に書いてたと思いますが、ハイカルチャーがナチズムやホロコーストの前に無力だっただけでなく、むしろ、ハイカルチャーがそれらを生み出しさえした、その批判としてサブカルチャーがあったわけです。三島由紀夫吉本隆明でさえ、反知性主義に肯定的だったと言えると思います。
 しかし、サブカルチャーが結局、菅義偉麻生太郎しか生み出さなかったとすれば、大人という価値観をアップデートしなければならないのだろうと思います。