「太田光が小山田圭吾に関する発言で反省の弁「大勢の人を傷つけた」」って見出しのネットニュースがあり、中身を読んだら火曜の爆笑問題カーボーイのことを書いてるんだけど、私はあの放送を聞いてるんですけど、どう聴いたらそんな見出しになるの?。放送の中でも田中さんが「ネットニュースの人、大変だわ」と言ってた。それくらい丁寧に長い時間をかけて話していたのに、この見出しには呆れた。
あの放送を聴いてた人ならわかると思うけど、このまとめは低能すぎる。これはダメ。歪曲とか断章とかそういうレベルでもなく、要するに、「謝罪したか、謝罪しなかったか」の二項対立にしかセンサーが働かない、恐ろしく解像度の低いカメラで見た世界みたいな。
それは、デジカメの画素数の違いといった定量的な差ではなくて、カエルの視力と人間の視力といった、激しい認識の差を感じさせる。ちなみに、カエルには動体視力しかなく、動いているもの以外認識できないとテレビで見た。ハエを食べるには優れた視力だが、言論には向いてないだろう。
太田さんが言ってたことで、そりゃそうだって思った点は、人を裁くのは人じゃないだろってところ。民衆裁判がなしくずしに許容されていく怖ろしさ。いじめを裁くのにいじめでしていては、いじめが増幅していくだけだろってことなんだろう。
逆に、それはどうかなって思ったのは、ああいう発言が平気で出版されて流通していたかぎり、太田さん自身もふくめ、同時代人として無関係だったとは言えないんじゃないかってことなんだが、同時代の犯罪全部に責任を感じてられない。
それに、もう一点、いじめそれ自体と、いじめを自慢げに吹聴した記事との混同がみられて、いじめそのものは小山田圭吾自身の証言だけで事実と認定できないではないかという意見はよくわかるけど、いじめそのものとは別に、過去のいじめを面白おかしく語ること自体、いわばセカンドレイプなのであって、過去のいじめとはそれはまた別の話。
町山智浩が
twitter.com悪趣味カルチャーは80年代のオシャレやモテや電通文化に対する怒りだった。カーディガンを肩にかけ、ポロシャツの襟を立ててテニスやスキーしてホイチョイの「ヤレる店」読んでナンパして人を「ちゃん付けで呼ぶ」奴らにゲロや死体で嫌がらせしたかった。当時を知らない人にはわからないだろうけど。
— 町山智浩 (@TomoMachi) 2021年7月20日
こういうことを書いてたんだが、いじめを「悪趣味」で片付けることは、レイプを「悪戯」で片付けるような、なにかしらの欺瞞の匂いがする。
サブカルチャーはいつの時代も悪趣味で当然だから、それで時代は語れない。百歩譲って、小山田圭吾の作品が悪趣味というならサブカルチャーを言い訳にできるが、彼の作品はそれどころか栄えあるオリンピックにお上のご指名を受けるお趣味のおよろしいものらしい。
となると、もし彼がサブカルの空気を言い訳にするなら、それは見苦しいとしか言いようがないが、彼はそれをしてないんだし、町山智浩にしても、太田光にしても、第三者が時代の空気を持ち出すのはかえってややこしいだけ。本人はそんな言い訳してないから。
昨日も書いたように、小林賢太郎の場合は、コントの登場人物が「ホロコースト」を口にしただけだから。ホロコーストを笑ったのではなく、ホロコーストをそんな風に口にするその人物を笑ったのであって、それは、実は悪趣味ですらないのかもしれない。
こんな風にこの二つのケースはまるでちがう。もし時代の空気を言うなら、「炎上」と言われる「理念なき自己検閲の横行」を平気で許容する今の空気の方がはるかに懸念される。
そういうとき、ジャーナリズムが検閲の側に立って「謝罪したか、謝罪しないか」にしか興味がないのは心底おぞましい。なので、謝るべきかどうか疑問なことを安易に謝ってくれるなとせつにねがう。
twitter.comいま話題の件だが、ことの是非以前に、深夜に速攻でサイモンヴィーゼンタールセンターに通報し、非難声明を出させたのが日本の防衛副大臣であることに大きな衝撃を受けている。政府の人間なら、国外の団体に通報するまえに、まず五輪組織委員会に調査と対応を指示するべきではないのか。
— 東浩紀 Hiroki Azuma (@hazuma) 2021年7月21日
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