『闇の脳科学』オススメ

 この本は、ロバート・ガルブレイス・ヒースという精神科医神経科学者の忘れ去られた業績と伝記を、ローン・フランクというデンマークの女性が掘り起こしていく、その過程が縦軸になっている。
 この本を読むと、3つのことが同時にわかる。
 ひとつは、ロバート・ヒースという学者の驚くべき先進性。最近ようやく脚光を浴び始めた、脳深部刺激法という治療法を1950年代から実施し成果を上げていた。
 ふたつめは、それほどの業績が、たかだか2、30年の間になぜ忘れ去られたのか?、という、ほとんどサスペンスドラマのような経緯。それは、歴史的な興味と同時に、大衆の凶暴さとしかいいようのないもの、そして、それに迎合するマスコミ、のみならず社会全体の価値観のいい加減さがよくわかる。
 みっつめは、そういうストーリーを追いながら、いつの間にか、最先端の脳科学精神科医療の有り様を知らされる。今や、脳深部を刺激するこの治療法は、医療のあり方を根本的に変えてしまうかもしれない。おそらく、私だけでなく、ほとんどの人が、脳を刺激することでここまでの治療が可能になっているということを知らないと思う。
 この著者に倣って、あえて刺激的な例から始めることになるかもしれないが、脳の中隔野に適切な刺激を与えてやることで、同性愛者を異性愛者に変える事もできるようだ。
 これは、同性愛が精神病のひとつと考えられていた当時に、すでにロバート・ヒースが実験に成功している。今に比べればまだ、機材も脳の研究も、原始時代のような時代でさえそれに成功している。
 LGBTの権利が叫ばれ始めたのはつい最近のことであり、また、同時にそれが今日の常識であることに異論はない。
 それになんといっても私自身は取り立てて変哲もない異性愛者なので、あえて口出しするまでもなく、同性愛者は同性愛者で好きにすればいいと思っている。それを医学的に「治療」するなんて余計なお世話だろう。
 しかし、性同一性障害となるとどうなんだろうか。『GIRL』という映画にもあったが、心と体の性の不一致に悩む患者の多くが、体の方を自分の心に合わせようとして、大変な負担を負う選択をする。
 であれば、体に心を合わせるという選択をしてもいいと思える。体が病んでいるのではない。体と心が不一致なのが問題なら、心の方を「治す」という選択は、実は、その方が自然でさえある。
 これが当人に受け入れがたいのはよくわかる。心が自分自身だと信じているからだ。もし、自分の体に違和感を覚えている、その心が病いなんだとしたら、自分が精神病だということになるからだ。精神が病いだと認めるより、肉体が病いだと認める方がはるかに容易い。それは、精神病に対する根深い偏見のためである。
 もう一点重要なのは、脳深部の適切な箇所を適切な強さで刺激してやれば、性同一性障害を心の方から直せる可能性が現実になりかけているという事実だろう。
 これまでは、心と体が不一致ならば、体を変えるしかなかった。しかし、それは、野蛮な自傷行為と言えなかっただろうか。50年くらい後年の評価がどうなっているか、実際、性転換後に後悔する人も少なくないと聞いている。
 これは、大きな話をすれば、私たちの「自我とは何か」という問いに対する一般常識の変化だと言える。
 三浦雅士が『私という現象』を発表したのは1990年代だったが、しかし、これは仏教的な発想として、キリスト教以前から、その一方で、脈々とあり続けた発想だった。現象学が仏教的であるとはよく言われる事と思う。「我思う、ゆえに、我あり」とは今は誰も確信できない。「我思う」は「我思う」という現象にすぎないんじゃないかと、誰もがうっすらデカルトに反論したくなるだろう。
 また一方で、脳研究の長足の進歩から、自我という現象は、つまり、脳の生み出した現象だと、誰もがうすうす同意している。
 というより、脳研究の発展が、「自我とは現象である」という概念を事実として一般社会に定着させたと言える。
 いちばん一般的な例は鬱病だろう。鬱は病気だと、今では誰もがそう思っている。鬱で休職している人に対して、「ただの怠け者だろう、引きずり出してこい!」とかいえば、その上司はパワハラで職を失いかねない。
 鬱が治せる、という認識から、同性愛は治せるという認識まで、実はそんなに距離はない。
 ただ、性を巡る認識は厄介でもある。同性愛そのものは治す必要はない。彼らを悩ましているのが社会の差別だけなら、それは社会の問題にすぎない。しかし、性同一性障害は、体を心に合わせる(事実はそれは不可能)選択ではなく、心を体に合わせる方がリスクも低く、健全かもしれないという可能性が出てきたと言える。
 つまり、私たちはいま、心とは、脳という体の一部が引き起こしている現象にすぎないと思っているということなのだ。それが真実などうかは知らないが、「我思う、ゆえに、我あり」と言ったデカルトを私たちは先述のパワハラ上司を見るような目で見る、充分な知見を持っているということなのだ。
 長くなったが、実は、ここのところはまだこの本の第一章にすぎない。
 ロバート・ヒースの業績が忘れ去られた原因は、ここまで書いてきたような社会常識の古さに対して、彼があまりにも先進的だったからだと納得できるだろう。だが、それだけではない、ちょっとテレビドラマみたいな出来事が彼のキャリアを傷つけたことが発見される。
 それが彼を第一線から引かせることになったが、それだけでもなく、実は、現在の脳科学がようやく端緒を掴みかけている研究に、ロバート・ヒースが当時、研究のベクトルを向けていたからかもしれないということがかなりの確実さを持って明らかになる。
 今の脳科学を先取りしていただけでも驚きなのに、実は、今の脳科学はまだ彼に追いついていないかもしれないらしいのだ。これには心底驚いた。
 そして、もう一点は、この本全体が伝える自我のあり方が、今、並行して読みかけている、中沢新一の『フィロソフィア・ヤポニカ』に描かれている、田辺元の「種・類・個」という考え方にリンクしていきそうな気配を感じている。