『アメリカの影』

 『フィロソフィア・ヤポニカ』について書いているときに、江藤淳のことを思い出して、余計なことを書いてしまったのはなぜだったろうかと思い返すと、この加藤典洋の『アメリカの影』だった。
 田邊元の『種の論理』の、中沢新一は「バロック的知性」と評したが、わたしにはルネッサンス的とさえ見えてしまう、広範で明晰な分析、数学的であり、民俗学的であり、生物学的であり、精神分析的でもある論理にふれた後、もう一度、加藤典洋江藤淳批評を読むと、加藤典洋の鋭さが哀切にさえ感じられる。
 江藤淳の陥っていた誤ち、というか、地獄がよくわかる。
 江藤淳が『もう一つの戦後史』で対談した、占領期の外務官僚、西村熊雄氏の発言を「戦後史の袋小路」という文章で引用するにあたって一部を省略している。
 「なかでも私が衝撃を受けたのは 、西村氏 (熊雄 。占領期に外務省条約局長──引用者 )の次のような言葉を聴いたときである 。 《あの (占領中の )六年間の苦しさは 、いまの四十代 、三十代の人たちにはおわかりにならないと思います 。言論の自由も思想の自由も結社の自由も 、なんにもない 。自由をすべて奪われているうえに 、あれはああしろ 、これはこうと指図を受ける 。処罰はいつどこからくるかわからん 、いいことでもやれといわれてやるのはうれしくない 。政府も国民ひとりひとりも悩んだあの六年間の苦しみは 、忘れられません 。 … … 》」
 しかし、西村のオリジナルの発言は
「…あの六年間の苦しさは 、いまの四十代 、三十代の人にはまったくおわかりにならないと思います 。いわゆる言論の自由 、思想の自由 、結社の自由といった自由をすべて奪われている以外に 、敗戦のもたらした社会的混乱 、そのなかでの日々の苦しさは大変で 、餓死者が出なかったのが不幸中の幸いでした 。
 この下線部分が脱落すれば、その後に続く「政府も国民ひとりひとりも悩んだあの六年間の苦しみ 」の意味が変わってしまう。
「ここには 、容易に気づかれるように 、 「政府 」の苦しみと 「国民ひとりひとり 」の苦しみの奇妙な混同が見られる 。」

ぼく達がここから知るのは 、彼の──空中ブランコの跳び移りのような──『成熟と喪失 』の問題設定から 「占領研究 」のそれへの移行が 、いかに 、彼の明敏な意識の統轄を逃れる形で行なわれていたかと 、いうことである 。ここで問題になっているのは 、占領期の六年間の 「苦しみ 」の発見 、ということだろうが 、この発見に 「眼からうろこが落ちた 」ように感じた時 、彼の中で 、江藤はよるべない 「個人 」の足場を一蹴りして 、一気に 、眼をつむって 、 「政府 」の方へ 、つまり 「国家 」の方へと移行しているのではないか 。

という加藤典洋の批評は、正しすぎて痛い。
 田邊元の「種の論理」の指摘にあまりにもきれいに当てはまっている。江藤淳は「個」と「類(国家)」の基体となる「種」を見落としている。その結果として、国家と個人を混同してしまっている。
 「江藤は 、 『成熟と喪失 』の 「真空 」にたえることができずに 、自分のアイデンティティを 「日本 」に求めようとしたが 、その時 、 「日本 」なしにはやっていけないというそのことをつうじて 、 「アメリカ 」なしにはやっていけないというジレンマをかかえることになった 。江藤の弱さとは 、戦後日本の保守党によって領導されてきた──「アメリカ 」なしにやっていけないという──「国家 」の弱さである 。しかし 、そのむこうにはもう一つ低位の弱さがあって 、それは 、無力な 「個人 」という価値に耐えることができずに 「国家 」というもう一つの価値の軍門にくだった──「国家 」なしにはやっていけないという──「弱さ 」と翻訳することができる 。」
・・・
「江藤の論理は 、この自己同一性の考え方に関して何より個人のアイデンティティと共同性のアイデンティティの間にひそむ緊張の契機を見落している 。」
・・・
「江藤は 、日本国家と日本国民 (日本人 )の間の差異を無視するかたちで 、単に 「日本 」が敗戦と占領によって深く傷つき 、その自己同一性の根拠を喪失したと語ってきた 。
(略)
それは
(略)
国家と個人の対立の契機を彼が十分にはとらえていないことを語っている 。」

 もう充分だろう。江藤淳はめった刺しに刺されてしまっている。

靖国神社は最初からあったのではない 。それがそのようなあり方を示すために 、神仏合祀令を出して多くの小さな祠を閉ざさなくてはならなかった事実が逆にその仮構性を照らしている 。国は破れ 、靖国神社は失寵した 。」
 そして賢明にも、天皇家も靖國を切り捨てた。
 感動的なのは、敗戦と同時に、多くの日本人が国家ではなく山河を発見したことである。
「むしろ日本は 、敗戦と米軍占領によっても自己同一性を失わなかったのではないだろうか 。というより 、他のどの場合とも同じく 、日本もまた 、他国の占領支配によって自己同一性を失うということはなかったというべきなのではないか 。」

敗戦の日がきた 。父は挫折し 、沈思した 。父は戦争支持者であり 、地方農村の小学校長として 、三人の軍人の子の親として 、積極的な戦争協力者でさえあった 。 ( … … )父は端坐し 、沈黙を続ける 。ただ一点 、西方の山を凝視したまま沈思と読経に敗戦の秋を耐え続けていた 。故郷の山 =飯綱山は 、すでに幼年時代から父の終生の 〈心の在所 〉であったが 、いまそれは 、それを仰ぎ 、それに対坐し託すことは不可能かも知れない再生の方法 、原初的な生命回帰の運動の起点なのである 。 (白鳥邦夫 「日本保守主義者の肖像 」 )」

「『私がこの本の中で力を入れて説きたいと思ふ一つの点は 、日本人の死後の観念 、即ち霊は永久にこの国土のうちに留まつて 、さう遠方へは行つてしまはないといふ信仰が 、恐らくは世の始めから 、少なくとも今日まで 、可成り根強くまだ持ち続けられて居るといふことである 。』
こう 、柳田国男は 、一九四五年四月に筆を起こし 、同じ年の十月に擱筆した 『先祖の話 』に述べている 。この論考は 、彼が 、日本の敗北を予感するなかで書かれ 、その敗戦と天皇の 「死 」をつうじて書き終えられた 、彼にとっての 〝死 〟を非常に色濃く感じさせる著作だが 、おそらく 、その時の彼をささえていたのは次の四年後の述懐に現われているような 、感慨だったろう 。
『魂になつてもなほ生涯の地に留まるといふ想像は 、自分も日本人である故か 、私には至極楽しく感じられる 。出来るものならば 、いつまでも此国に居たい 。さうして一つの文化のもう少し美しく開展し 、一つの学問のもう少し世の中に寄与するやうになることを 、どこかさゝやかな丘の上からでも 、見守つて居たいものだと思ふ 。』 ( 「魂の行くへ 」 )」

「一九四七年末 、横光利一が死んだ時 、川端康成は 「弔辞 」でこのように亡友に呼びかけている 。
『ここに君とも 、まことに君とも 、生と死とに別れる時に遭つた 。 ( … … )国破れてこのかた一入木枯しにさらされる僕の骨は 、君といふ支へさへ奪はれて 、寒天に砕けるやうである 。君の骨もまた国破れて砕けたものである 。このたびの戦争が 、殊に敗亡が 、いかに君の心身を痛め傷つけたか 。』
そしてこの川端の弔辞は 、
『横光君僕は日本の山河を魂として君の後を生きていく 。』
というようにして 、しめくくられる 。ここには 、川端が 「国破れ 」た後 、何をささえに生きていこうとしたか 、そこで彼に摑まれたものがはっきりと示されている 。」

 しかし、こうして敗戦後もかろうじて残った山河を、無軌道な開発で破壊し尽くしたのも、明治以降の富国強兵策を捨てられない日本の構造上部なのだった。
 小泉改革政権交代選挙で、とにかく現在の政権を変えなければならないとした日本人の態度は正しかったと思う。
 あれこれいう人もいるが、この地殻変動で何も変わらないなら沈んでいくしかないのだろう。
 田邊元の論をまねれば、種的基体から「個」と「類」が生まれるのだから、「種」のカオスの深くに正しく錘を沈められたものだけが、国を再生できるのだろう。