バチくるオードリー

 バカリズムが、オードリーのオールナイトニッポンを「『北の国から』じゃん」と評してた。
 「あちこちオードリー」もそういう「北の国から」的な、映画で言うと『6才の僕が大人になるまで』みたいな、登場人物のキャラクターが、それを演じる役者さん本人のキャラクターと、虚実両方から重なるような、そういう笑いの作り方をしてきた流れの上にある。
 『足りない二人』の漫才もそうだった。圧倒的なスキルの即興漫才でありながら、山里亮太若林正恭の実人生のぶつかり合いでもあるというような。
 そういう笑いのカタチが、既存のものといかに違うかは、グッと遡ってみて、たとえばやすきよの漫才まで遡ってみれば、全然新しいってことはわかりやすい。やすきよの漫才はよくパロディにされた。「君とこの嫁さんは・・・」とかいう、お互いの家族を茶化すような(実際のやすしきよしの漫才がそうだったかどうかはひとまず置いて)そういう漫才だと評されていたにしても、その「嫁さん」は、実際の彼らの嫁さんではなく、それはあくまで漫才上の架空のキャラクターだった。もっと遡れば、林家三平の「よしこさん」は実在しなかった。
 でも、それはまあ当然のことで、ダウンタウンの漫才がシュールだと言うのは、「君とこの嫁さん」「ウチの妻」という日常から絶妙に飛んでみせたからだった。
 しかし、ダウンタウンの漫才は、日常性を飛び越えたオリジナリティのために、松本人志のキャラクターを偽りなく晒したとも言える。
 オードリーの場合、作家である若林正恭がツッコミなので、彼自身の作品である「ズレ漫才」の演者、春日俊彰のタレント性が先に注目されたけれど、オールナイトニッポンのエピソードトークで、彼ら自身の日常を笑いに変える「北の国から」的な笑いを、一方で営々と続けてきた、そちらが今は実を結んで「あちこちオードリー」などの番組につながっていると思う。
 「あちこちオードリー」は、プロデューサーの佐久間宣行が自身の番組であるゴッドタンの一企画としてやっていた「お笑いを語れるバー」のスピンオフでもある。また、彼自身語っていたと思うが、関西ローカルの「やすよ・ともこのいたって真剣です」のオマージュでもある。
 つまり、当初は、この手の番組は全国ネットではほとんどなかった。「だから作ったのに、今は増えすぎた」と佐久間宣行は、YouTubeで語っていた。
 「足りない二人」「オールナイトニッポン」「あちこちオードリー」と、楽屋話的な笑いが増えていく中で、若林正恭の作家性はどうなるのかなと、つまり、しんどくならないのかなと、余計な心配をしないでもなかったが、「バチくるオードリー」という新番組を観て驚いた。
 若林正恭は号泣していた。TAIGAさんの作詞に関取花がつけた曲を聴いて泣いている。これは、若林正恭自身の持ち込み企画だから、このくだりまで予想の範囲内で企画したに違いない。若林正恭の号泣でスタジオは大爆笑している。あの号泣が最高のボケになることはきっちり計算した上でのこの企画だと思う。
 その証拠(っていうのも変だが)に、TAIGAさんに続いて登場したゲストのザ・マミィの酒井貴士は登場から泣いていた。これははっきりと番組の意図を理解してやってるボケだと思う。この酒井の飲み込みの速さもすごい。
 若林正恭が泣くわけだから、普段は番組を進行しない春日俊彰が進行にまわるわけだが、これは「オードリーのオールナイトニッポン」でも最近よく話題になる、お子さんが生まれてから春日俊彰さんがツッコミを頑張るようになったのを見越しての、この企画でもあったのだと思う。
 自分が泣く、春日が進行に回る、酒井貴士が泣く、というところまで含めての、バクチまで言わなくても、けっこうな冒険だと思うが、自分が泣く、自分の感情を晒すことが、同時にボケになるまで計算した上で一歩踏み出してみる、前を向いてる感じがさすがだと思った。
 実は、時系列的には、「バチくるオードリー」の後になる「オールナイトニッポン」のオープニングを聴いて「?」と、何か前フリがないとこれはおかしいと思って「バチくるオードリー」を見返してみたわけ。さすがです。

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