『ジャズ・ロフト』

 ユージン・スミスは従軍カメラマンとして参加した沖縄戦で、間近で炸裂した砲弾のために危うく顔を吹き飛ばされかけた。口が目の下あたりまで裂けていた。
 指が動かせるようになった時、真っ先に撮った写真が《楽園への歩み》だった。日常のスナップに見えるが、実際には納得いくまで何度も撮り直した。モデルになった息子さんの証言だと、二眼レフのファインダーを覗こうとして俯くと、まだ癒きれない傷口から膿がカメラに落ちた。

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ユージン・スミス《楽園への歩み》

 その後、ピッツバーグ市史のための仕事に取り掛かった。3年をかけて膨大な量の撮影をしたが、完成させることができなかった。家族とも別れ、《楽園への歩み》を撮影した郊外の邸宅も手放し、独り身の気楽さか、画家のデビッド・X・ヤングが借りていたニューヨークのロフトに移り住んだ。
 residential areaではなく、花卉市場の問屋街で夜中に気兼ねがいらない。そのため、ジャズミュージシャンも多く住んでいた。そこで交流が始まった。カーラ・ブレイによると、ユージン・スミスのロフトには鍵もかかっていなかったそうだ。
 この映画が成立したのは、ユージン・スミスが彼らのセッションを録音し撮影したテープとフィルムが残っているからだ。床や天井に穴を開けマイクを仕込み、ケーブルを這わせて、演奏だけでなく会話やラジオの放送まで、ありとあらゆるものを録音し撮影した。ピッツバーグ市史の時と同じだが、今度は編纂の必要がない。
 当時はオープンリールだ。撮り溜めたテープはうずたかく積まれていた。もし今みたいに大容量のメモリーがあれば、24時間、365日、撮り続けたかったのだろう。朝帰りするミュージシャンたちの鼻を、花卉問屋に集められたばかりのみずみずしい花の香りが見送った。

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ユージン・スミス

 セロニアス・モンクとホール・オーヴァートンの2人が「セロニアス・モンク・オーケストラ・アット・タウンホール」に向けての編曲とリハーサルをやったのもこのロフトだった。「リトル・ルーティ・トゥーティ」のリズムに苦戦するホーンセクションのために、セロニアス・モンクはそのパートを踊ってみせたそうだ。

 映画『MINAMATA』の冒頭でアイリーンがユージン・スミスを訪ねたのもこのロフトだったろう。けっこう再現性が高かった。この建物はまだ現存しているそうだから、実際そこで撮ったのかもしれない。
 沖縄と水俣のあいだに、この花の香りのするジャズの日々があった、このジャズロフトを発って水俣に向かったことを思うと、水俣に向かう姿勢が、単なる正義感や、ましてやジャーナリストとしての功名心などではなかっただろうことがすんなりと心に落ちる。『MINAMATA』のユージン・スミスに厚みが加わるように思う。

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