『明日のたりないふたり 特別版』

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明日のたりないふたり 特別版

 『明日のたりないふたり』はオリジナルの公開のときFANNYの配信で観ようとしたのだが、うまく視聴できなかった。
 動画配信のプラットホームとしては、YouTube、DMM、AmazonプライムNetflixは問題ないが、TVerあたりから問題が出始め、他のもろもろは視聴に耐えないレベルになる。こちらのネット環境は同一なのだから、配信側に問題があるというしかない。
 そんなわけで、劇場公開される『明日のたりないふたり 特別版』は、すぐに予約していた。もちろん、満席。とっくに配信が終わった興行にしてこれだから、支持の高さが推し測られる。
 ほとんどシン・エヴァンゲリオンだと思った。シン・エヴァンゲリオンがアニメとして破綻している、のと同じ意味で、漫才として破綻しているが、アニメと違って、漫才はそもそも破綻とも言えるわけで、その意味で、やっぱり、この人たちは生粋の漫才師だった。
 オークラさんが出版した『自意識とコメディの日々』っていう本を読んだが、オークラさんの場合、コント師の話が中心になり、オードリーは登場しなかった。
 先週のオードリーのオールナイト日本で、萩本欽一さんと対談した話をしていた。  
 コント55号のコントには本がないそうで、萩本欽一さんは、「本がなきゃできないのは素人」だと思っていたそうだ。そういえば、アンタッチャブルの漫才にもほぼ本がないそうだ。
 その意味で、このたりないふたりのユニットの漫才にも本はなかったと思う。少なくとも『さよならたりないふたり』の漫才には間違いなく本がなかった。
 ただ、この『明日のたりないふたり』の漫才には本まで言わなくても大まかな打ち合わせはあったようだ。そうでないと終わらせられない。萩本欽一コント55号の「尺」を尋ねられると「無限」と答えていたそうだ。本来テレビサイズに収まらない人だったから、テレビの笑いも変えることができた。
 若林正恭がそういう通り、『さよならたりないふたり』で終わっていた方がよかったのかもしれない。しかし、そこで始めた無限にできる漫才に終止符を打つ儀式としてこの『明日のたりないふたり』が必要だった。
 若林正恭という人がときどきラジオで、春日俊彰に比べて自分は心が弱いという発言をする。メディアでの活躍を見ているとどこがだよ?と思う。しかし、心の弱さば他人には見えないんだとつくづく思う。
 コントではなく、漫才というどちらかというと大阪由来の芸に、ちゃきちゃきの江戸っ子がここまでのめり込んでしまう背景には、若林正恭の「心の弱さ」があるんだなと気付かされた。自分が「足りない」と思う「心の弱さ」。それに、クリーピーナッツのような才能が反応する、そのバイブスが心のあり方を示している。
 『さよならたりないふたり』が到達点は高いと思う。しかし、『明日のたりないふたり』は泣ける。それはなぜかはわからない。終わるべきものを終わらせにかかっているそのバイブスに反応するためだろうとしか思えない。
 『草の響き』を観たあとだけに、あの映画の東出昌大とこの若林正恭を比べてみずにおれなかった。狂気が、どちらに転ぶか危うい分岐点で上がるか落ちるか、なぜ自殺の衝動に駆られるのか、と、なぜ即興で漫才をしようとするのかは、狂気の質としては同質だと思う。
 オノ・ヨーコは「アートは生きるのに必要な遊び」だと言ったのだが、その遊びは心を飼い慣らすためにこそ必要なのだと思う。心のためにその遊びを生きる必要があるが、その遊びは側で見るよりはるかにむずかしい。だからこそ、心のために遊んでくれるこの人たちのもとに人が集まるのだろうと思う。