『浅草キッド』

 Netflixで配信している『浅草キッド』は、ラジオ案件なのかというくらい、ラジオで出くわすことが多かった。ラジオパーソナリティを務める芸人さんたちのビートたけしリスペクトの思いの丈がわかる。ビートたけしオールナイトニッポンは彼らの原点でもあるだろうし。
 TBSとニッポン放送両方で帯番組を持っているナイツのツッコミ土屋さんがビートきよしさんを演じているので、彼らの番組には当のビートきよしさんを始め、たけしさんの師匠の深見千三郎を演じた大泉洋、たけしさんを演じた柳楽優弥、監督を務めた劇団ひとりも出演していた。
 ナイツの土屋さんの役は重要だった。土屋さんはスケジュールの都合で割とおくれて撮影に合流したそうだ。あと1ヶ月という頃になってどうしても漫才をものにできない柳楽優弥さんに、劇団ひとり監督はかなりハラハラさせられていたそうだ。ところがナイツの土屋さんがツッコミに入ると途端に形になった。この映画でツービートの漫才が成立してなかったら悲惨なことになったに違いない。
 漫才にくわえて、もうひとつのポイントはタップダンスだ。タップを縦軸に使ったストーリーテリングのセンスは抜群にいいと思う。だから最後もタップで締めるとエンターテイメントとしてもっと一貫性があったのではないか。
 大絶賛の嵐のなかひとりだけ文句を言っていたのは太田光だった。劇団ひとり監督をゲストに迎えた上なので、プロレスって一面もあった。太田光も作品全体は今年いちばんの傑作と評していたが、柳楽優弥の演じる北野武のキャラクターにだけは文句を言っていた。
 トークの展開でうやむやになったが、太田光の指摘はわからないではない。柳楽優弥北野武はナイーブな若者に描かれすぎて見える。当時の北野武は、明治大学ドロップアウトしてストリップ小屋でエレベーターボーイをしていた、その時代背景がバッサリ切り捨てられている。70年安保直後の若者たちを覆っていたやさぐれた蹉跌感が描かれていないように感じるのは、浅草芸人どうようテレビに追い詰められて、ほぼポルノ一色になっていた70年代の映画にその時代の空気を刷り込まれているせいかも知れない。しかし、ナイツのラジオにゲスト出演していたビートきよしの証言から浮かび上がるビートたけし像は、この映画とは微妙に違って、もっと無頼なのである。
 一方で、そうした時代の空気感をバッサリ切り捨てて、自分のビートたけし像を造形できるのは、劇団ひとり監督の力量だと思う。それはキス我慢選手権なんていうくだらない企画を映画にしてしまう構築力だし、90年代後半のライブシーンで鎬を削ってきた笑芸人の力技なのだ。劇団ひとりの作家性としてはこう描かざるえないわけである。
 時代の空気というエクスキューズを排除してしまえば結局こういうことでしょ?と言っているようにさえ見えるが、そもそも劇団ひとりには70年代の空気など経験ないのだし、当然、彼の描きたいものはそこにあるはずがない。
 70年代の浅草という、大袈裟にいえば「史観」は彼にとっては価値がなく、そうではなくて、ストリップ劇場のビートたけしという「神話」こそ彼の心に住んでいる物語なんだろう。
 その意味では、深見千三郎の存在が、そういう時代性をすべて担うことになった。太田光が指摘したくなったのは、その時代性が充分であったかという一抹の不安のようなものだったのではないか。劇中漫才の金属バットのネタの細かな時代考証まで踏み込んでいたのもそういうディテールに取りこぼされる時代を探すからだろう。
 いずれにせよ、日本人の北野武愛がこの作品の評価を底上げもするのだし、と同時にハードルを上げもするなかでこの作品をものにする力技はやはり評価されていいと思う。
 前作『青天の霹靂』には劇団ひとり自身が出演もしていた。今回は監督に徹している。映画監督として確実に進化している。この作品に何かしら不満を感じるとしたら、もっとできるんじゃないかという、期待の高さからくる焦らされ感なんだと思う。
 太田光に、お笑いと映画監督とどちらかひとつ選ぶとしたら?と聞かれて、映画監督と即答していた。次回作がもしあればやはり観てしまうだろう。今泉力哉監督がNSC出身なのはよく知られているが、笑芸人の人口密度が高すぎて、異形の才能を輩出しつつあるみたいだ。

www.youtube.com


www.youtube.com

www.youtube.com


www.youtube.com