『偶然と想像』、『寝ても覚めても』

 濱口竜介監督の演出が世界中を魅了しつつある感じ。
 『ドライブ・マイ・カー』の主人公が披露した独特な演出方法は、宇多丸さんは濱口竜介監督自身の演出方法だと言ったが、濱口竜介監督自身はあれは私の演出方法ではないと答えている。 
 あれが彼の演出方法であるにせよないにせよ、観客はあの演出家に濱口竜介自身を重ねてみずにおられないのだし、現に最新作の『偶然と想像』の会話劇3遍を観客の多くは濱口竜介監督の演出を感じながら楽しんだはずだ。つまり、余計なものの削ぎ落とされたテキストの芝居として。

それは僕のメソッドというわけではまったくありません。

ジャン・ルノワールの演技指導』という短編ドキュメンタリー映画があります。

 それは、「脚本を読んですぐ演じるのと、感情を入れない形での本の読み上げを何度もやって、その後演じるとまったく違うものになる」という、魔法みたいなルノワール監督の演技指導を追ったドキュメンタリーなのですが、それを見て、この「本読み」というのは何なんだろうと思いました。

 2015年公開の僕の映画『ハッピーアワー』は演技未経験者による出演作だったので、必要に迫られてこの本読みを繰り返しやるようになったんですけど、そのときにようやく効果が自分でもわかってきた。それで今回も実践しています。

crea.bunshun.jp

 濱口竜介オリジナルのメソッドではないけれど実践しているということらしい。
 『ハッピーアワー』のwikiでも、『偶然と想像』のインタビューでも、エリック・ロメールとの親和性に言及されてる。私は、でも、この演出方法はどこかで見たんじゃなかったかなと考えていた。
 演出についての本なんて読んだ憶えもないので、記憶違いかとも思ったが、非常にベタな結論ながら、どうやら小津安二郎だと気がついた。
 あの棒読みに近い感じ。役者の顔を正面から捉えたり、アングルを固定したり。メソッドは違うけれど、テキストから役者のパーソナリティを削ぎ落とす意思が似ていると思う。

 もう少し踏み込んで言えば、日本語の台詞という問題に意識的なのだと思う。
 私たちが今話している日本語という言語がいつ成立したかといえば、遡って、江戸時代にはまだ私たちが普段目にしているテキストは成立していない。それが年号が明治と変わるや否や突然成立するはずもない。日本語は、まず高浜虚子らの写生文にとして、また、森鴎外などのバイリンガルな教養人の翻訳文として、テキストとして存在した。
 日本語は(日本語だけではないのかもしれないが)テキスト、書き言葉としての方が、しゃべり言葉としてよりはるかに存在感が強い。それはつまり、セリフにリアリズムを求めるとウソになるというパラドクスを生じる。そのため、役者はいったんセリフから日常的なリアリズムを排除する必要がある。
 考えてみると、全編これ日本語の会話劇である『偶然と想像』が海外で高い評価を受けている、どころか、ちょっとした濱口竜介ブームを巻き起こしているらしいのは、不思議だといえば不思議だが、演劇の言葉が日常の言葉と違うのは全世界で同じなので、その魅力は『ドライブ・マイ・カー』で多言語混在で演じられる「ワーニャ叔父さん」のように、軽々と言葉の壁を超えていくのかもしれない。
 私は、あつぎのえいがかんkikiで『寝ても覚めても』と連続して観た。『寝ても覚めても』でもチェーホフの一幕が登場する。日常と非日常がひとりの女性のこころでせめぎ合う感じが濱口竜介の色が濃く出ているなと思った。
 北野武ブーム以来の濱口竜介ブームが起きそうな気配がある。『ドライブ・マイ・カー』は村上春樹原作にことよせて、自分の演劇論を語っているわけで、このふてぶてしさはショックでもあり、また世界を魅了する自信なのではないかと思う。
screenonline.jp

knockeye.hatenablog.com