『発酵する民』

 この手のドキュメンタリー映画だと、途中で席を立つ人がいる。しかし、映画の冒頭の献辞に「発酵とは、微生物による分解現象のうち、特に人間に役立つものを言う。そうでないものを腐敗という。」とあった。つまり、映画は十分に自覚的に仕掛けてきている。それでも途中退席などする観客はまさしく「民」に違いなかった。『大怪獣のあとしまつ』を酷評したり、『風立ちぬ』を罵倒したり(もう憶えてないかな)する、謎の観客なのである。
 『発酵する民』は、鎌倉で、「イマジン盆踊り部」って言う活動をしている人たちのドキュメンタリー。盆踊りっていうのは、「チコちゃん」でもやったので有名かとも思うが、仏説盂蘭盆経というお経に根拠があることになっている。「盂蘭盆」という言葉自体は、サンスクリットで「逆さ吊り」ということだそうだ。釈迦の十大弟子のうちに目連尊者という人がいる。この人は千里眼があったと言われている。遠くのことが見える。ある日、この人の千里眼に、地獄で逆さ吊りにされている亡母の姿が映った。そこで人々に供養して亡母を地獄の苦しみから救い出した。それを喜んで踊ったのが盆踊りの始まりとされている。
 しかし、今では「仏説盂蘭盆経」は偽経とされている。内容が全然仏教的じゃない。仏教では、息子が母をどうこうといった血縁的な発想がそもそもない。
 死者を弔うのでもなく、盆の場合は、死者を労うというのか、もてなすというのか、不思議なといえば、不思議な風習だが、こうした死者と交流する風習はたとえばハロウィンなどもそうで、あのジャック・オ・ランタンというカボチャのランタンは、よくわからんながら、死者との交流の風習であることは間違いない。
 メキシコにも「死者の日」というのがある。ハロウィンはアイルランド発祥だが、地球の裏側でほとんど同じ日にちに同じようなことをしているのが面白い。どちらもキリスト教以前の風習であり、盆踊りも同じくどこからきたのかよくわからない。発酵なのか腐敗なのかわからない。
 2016年に『listen』という映画があった。聾者の音楽をテーマにしたまったく無音の映画だった。健聴者にとって、手話はまるでダンスに見える。個人のパフォーマンスはただただダンスに見えていたのだが、聾者たちが集団で踊っているリズムがまるで盆踊りに見えた。比較してみなければわからないが、民族特有のリズムがあるのかもしれない。
 この映画は映像の美しさも目を引いた。映像詩とも言える拘り方をしている。反原発デモを上空から捉えた映像は、発酵する民というタイトルはここから発想したのではないか。まさに酒樽の中で米が発酵しているかに見える。
 原発について言っておくと、「原発は安全だ」と言っていたにもかかわらず、原発事故が起きた。事実として原発は安全ではなかった。事故が生じたメカニズムと同時に、その事故を含めてウソが生じたメカニズムも明らかにしなければならないはずだ。言い方を変えれば、原発事故は単に事故であるだけでなく事件なのである。
 現に事故が起きたにもかかわらず、原発が安全か否かを議論するのは馬鹿げている。目で見たことを忘れさせることができると為政者が信じているなら、馬鹿にされたものだというしかない。
 そういう為政者に対して民はどう対抗するのか。この映画は民は発酵するといいたいのだ。あるいは、為政者にとってみれば腐敗かもしれない。あるいは誰かにとっても腐敗であり発酵であるかもしれない。しかしそれが確実に進む。今はそれが何になるのかわからなくても、そうした発酵が着実に進んでいると信じさせる映像の力だった。


www.youtube.com