吉田健一展

吉田健一展 神奈川近代文学館にて

 横浜には吉田直展ではなく、どちらかというと神奈川近代文学館で開催されている吉田健一展が目当てだった。
 吉田健一については文庫で手に入るくらいのものはほぼ読んだが、悪い癖としか言いようがない癖で、6編の長編小説の5編まで読んで、最後の一冊はもったいなくて読まずにとっておいた。
 ところが、栗鼠が隠した木の実を忘れるのと同じで、その一冊がどれだったか思い出さない。『東京の昔』、『金沢』では絶対ないけれども。

いづも橋 はせ川

 小田嶋十黄の描いた「出雲橋はせ川」の絵があった。はせ川については以前みじかいエッセーを全文紹介したことがあった。

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 また横光利一の『欧洲紀行』の

 私は出発前に青年時代を長く外国で暮らした吉田健一氏とよ会った。この人は銀座の資生堂がどこより好きな青年である。どうして君はそこが好きかと訊ねると、非常に良い東洋的なものがあるとの答えであった。われわれが銀座で一番ヨーロッパ的だと信じていた物が、東洋的に見えるのだ。
 奈良、京都など、東洋的には見えぬといふ。この不思議さも、ヨーロッパへ来て見て初めて私にもよく分かった。

という印象的な文章も掲示されていた。
 そういうよく知ったことだけでなく、若い頃のF.L.ルカスにあてた手紙の一節が翻訳されていて
「もし今死ぬとしても、それは人生の後です」
とあった。
 話がそれるけれども、今週、伊集院光NHKでやっている「100分で名著」でハイデガーの『存在と時間』が取り上げられているのを見ていて、直接そう言っていた訳ではないけれども、自殺について、それがなぜ問題なのかといえば、自殺はその呼称にもかかわらず、死を自己のものにできず、死さえも社会に明け渡している行為だからだと気がついた。
 すべての自殺がそうかどうかわからないが多くの場合の自殺は、自己としてでなく、社会に押し着せられた役割のまま人生を終える行為だろう。自殺そのものというより、そこがポイントだと気がついた。
 「もし今死ぬとしても、それは人生の後です。」いい言葉だと思う。

 吉田健一吉田茂の息子でもあるので、吉田茂の展示もあった。
 吉田茂が退官にあたってチャーチルに日本の絵を贈ろうとなったとき、敢えて安田靫彦に描いてもらった。横山大観は「きらい」と明言している。
 吉田茂を見てもわかることだが、日本の政治には左右の対立軸は存在しない。ありもしない対立軸によって立とうとするので野党が育たない。
 日本にある政治的対立は、攘夷派か開国派かである。歴史を見ればそれが最大の政治対立なのは明らかなのに、ありもしない輸入ものの左右対立で政治を語ろうとするから、インテリはバカにされ、反知性がはびこるのだろう。
 霧笛橋の下の閲覧室では吉田健一作品が閲覧できるミニコーナーが設えられていた。翻訳では『ファニー・ヒル』を読んでみたいなと思った。