平塚市美術館で「リアルのゆくえ」。リアルと言ってもこの展覧会の場合は写実の意味である。
今回の展覧会の発端には高橋由一と安本亀八が配されていて、この展覧会のいう「写実」の方向性が示されているといえるだろう。
高橋由一に関しては以前、東京藝術大学大学美術館で網羅的に観た。また同時代の川村清雄の展覧会も観て、洋行して本格的に油彩の使い方を学んだ川村清雄に比べると、高橋由一はいかにも我流で、その意味にかぎれば稚拙に見えるのだが、「写実」、モチーフを写す、モチーフに似せるという視点に立つと、高橋由一の絵は独特の輝きを増すことに気づいた。
山田五郎さんのYouTubeによると、高橋由一にはいまでいう美術の概念はなかっただろうということだった。彼にとっての絵は対象を正確に写す技術だった。少なくとも第一義はそうだったようだ。
さらに同時代に一世を風靡した安本喜八や松本喜三郎の生き人形を目にすると、この展覧会の言う写実の源流はよくわかる。
安本喜八にしても、松本喜三郎にしても、生き人形の多くは保存状態が悪い。そのせいで生き人形が彫刻に見える。本来、重要なのは表面の胡粉で、特に松本喜三郎の胡粉は他の誰も真似できない細やかさだったそうだ。その部分が後の雑な補修で損なわれたのは残念だ。谷汲観音や聖観世音は信仰の対象だったのでいくらか保存状態はよいとしてもやはり劣化は免れなく見える。
安本亀八の弟子にあたる平田郷陽の《粧い》という生き人形は昭和の作品なので芸術作品という意識もあって状態がよい。これらの人たちが賞賛した松本喜三郎の生き人形だから全盛期が忍ばれる。

写実をリアルというのは実のところ変な話で、写実は実物に似せる行為なのだから、リアルというよりむしろフェイクだろう。
もともと江戸時代には、西洋の透視遠近法を取り入れた絵は「浮絵」と呼ばれて、騙し絵の扱いだった。日本においてのリアルはむしろ長谷川等伯の松林図のような水墨画の側にあっただろう。それはむしろターナーやモネの風景画に似ていて、そのあたりから西洋画は写実を離れていく。
リアルのゆくえ展のホームページにあるように、「今また写実ブームが到来しています。」というのが事実なら、その気分はどこから来ているのか?。たぶん、2010年頃から美術館で展示され始めた「明治の超絶技巧」と言われる当時の細密な工芸作品の一群、並河靖之の七宝、正阿弥勝義、川原林秀国の金工、鈴木長吉の鷹、安藤緑山の牙彫りなどなどあげればキリがない、コンセプトアートの真逆にある手の技の衝撃が大きかったのではないか。
マルセル・デュシャンのジョークから始まったコンセプチュアル・アートが、ヨーゼフ・ボイスのようなアンガージュマンの方向へ進まず、ジェフ・クーンズのようなわかりやすい金儲けに落ち着き、バンクシーの茶番に失笑するという事態を迎えた今「また写実ブームが到来しています。」ということなんだろう。
ギリシア哲学、キリスト教、禅といった、絵の存在する意義(あるいは絵を描く言い訳)がなくなった今、アーティストはものを写すというプリミティブな欲求に戻るしかなかった。しかも、19世紀よりはるかに精密にならざるえなかった。

こういう深堀隆介の絵は確かに魅力的だと思う。先日紹介した吉田直の寄木造りなども、この流れにくくれるだろう。この後の展示は明治の超絶技巧と重なる。
前原冬樹の《一刻 ―煙草、燐寸―》などはご想像にのとおり、タバコの吸い殻とマッチの燃え殻を木彫で表現している。
そして、今回いちばん驚いたのは若宮隆志の《見立漆器 ―曜変天目蒔絵椀―》。曜変天目を漆器で再現している。
会期は2022.6.5まで。
同時に開催されている「けずる絵、ひっかく絵」展もすばらしい。特に、岡村 桂三郎の《百眼の魚18-1》。

これは平塚市美術館に寄託されているものの一部で、以前に全貌が展覧されたことがあったが圧巻だった。


