『渇きと偽り』

 オーストラリアの映画で、知ってる役者さんは一人もいないんだけど、そのせいで、フラットな視点で見られて、推理ドラマとしてはそのメリットがある。
 それに、オーストラリアの片田舎っていう、実際はどうか知らないんだけど、確かに、西部劇的な、開拓時代の精神風土が残ってても不思議がないよなぁっていう不穏さと、タイトルにもある通り、320日以上雨が降っていない旱魃の大地がすごくて、回想シーンで、今は干上がってる川にまだ水があった頃も出てくるのは、あれはどうやって撮影したんだろうか。干上がってる川に水を入れる方が、流れてる川を干上がらせるより簡単だと思うけど、そもそもそういうことじゃなくて、水のある川とそれに似た水のない場所の二か所で撮影してるのかもしれない。
 主人公はメルボルンで、アメリカで言えばFBIになるんだろう、全国を統括する警察に籍を置く警察官が、急死した幼なじみの葬式に参列しに帰郷するところから始まる。 
 その旧友の死んだ経緯が凄惨で、奥さんとまだ幼い子供を銃で撃ち殺して自分も同じ銃で死んだ、無理心中だとされていた。しかし、不審な点があり、また、地元の警察官が赴任したばかりで慣れないせいもあり(この人がいい味を出してる)、捜査を手伝うことになる。
 主人公がこの事件にかかわることになる動機にはもうひとつ、無理心中をしたとされる旧友と男2人、女2人でつるんでいた昔に、主人公自身が容疑者と疑われた未解決の溺死事件(ここに川が出てくる)にまつわるわだかまりがあった。その少女が溺死した日、主人公は彼女と川で会う約束をしていた。彼女は現れなかった。のちに彼女の溺死体が発見された時、アリバイの口裏を合わせてくれたのが、死んだ旧友だったのである。
 主人公は無罪になったが、町にはいられなくなり、父親とふたり出て行くことになった。今回の事件とかつての事件は繋がっているのではないかという疑念が主人公を捉えるのはすごく自然。
 殺人を疑われて追われた故郷で、かつて偽証してくれた友人が妻子を殺して自分も死んだ。となると、観客にも一種の引力が働いて、話に引き込まれていく。害獣から作物を守るために、女子供も当たり前のように銃をぶっ放す環境と、旱魃が続き、誰も彼もが苛立っている状況、そして、今もまだ少女の溺死事件の影を帯びている主人公の過去が、ストーリーに緊張感を持たせ続ける。『ブレット・トレイン』の真逆の映画。
 推理ドラマってこうでなきゃいけないんだなと改めて確認させられた。主人公は推理も語らなければ謎解きもしない。他の人と話す時にふと単語をつぶやくぐらい、「ウサギ?」とか。またはある人物と挨拶を交わしながらふと目を落とすと、そこに青い薬莢があるとか。そんなんで観客は「こいつか!」と勝手に思いこんで、右往左往させられる。度重なるミスリードからのクライマックスも心地よかった。
 


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