『生きる LIVING』、『生きる』 ネタバレあります

 カズオ・イシグロ脚本、ビル・ナイ主演『生きる LIVING』を観て、そのオリジナル黒澤明の『生きる』も観た。
 ビル・ナイといえば、もちろん出演作の枚挙に暇がないが、オードリーの若林正恭さんが『バック・トゥ・ザ・フューチャー』以来ハマったという『アバウト・タイム〜愛おしい時間について〜』のお父さん。
 個人的に好きなのは『人生はシネマティック!』。クリストファー・ノーランの『ダンケルク』の桁違いの低予算でダンケルクを描いたエモーショナルなコメディ。こういう攻め方もありでしょって映画が好きかも。
 そういう意味では、黒澤明の『生きる』も、『七人の侍』で侍たちを束ねていた志村喬が、しがない小役人を演じるコメディ。これもアリでしょって映画なのかもしれない。とは言え、黒澤明の作品としてこれを第一に挙げる人も珍しくない名作。
 モチーフとしては黒澤明より小津安二郎が取り上げそうなのを黒澤明がやるってところに興味がそそらられる。
 しかし、映画の発端でいきなり納得させられた。まるでトルストイの「イワン・イリイッチの死」なのである。小編といえどチェーホフでなくトルストイなのが黒澤らしい。ただ、それは発端だけでその後の展開は全然「イワン・イリイッチ」とは違う。
 ちなみに『回想の明治維新』という本を書いたレフ・イリイッチ・メチニコフの長兄がイワン・イリイッチのモデルである。この兄弟のコントラストは驚くべき。弟の方は世界の革命を転戦した挙句に明治維新の日本に「逃亡」してきたのだから。
 それを思いつつ、ビル・ナイ志村喬の芝居を見ているとそれはそれで味わい深い。
 カズオ・イシグロノーベル賞を受賞した時の福岡伸一のエッセイが有名になった。カズオ・イシグロは果たして日本人なのかイギリス人なのかについて、まあ別に議論にもならないことだが、福岡伸一カズオ・イシグロが一緒に寿司を食ったときのエピソードで、どんな食い方をしようと自由には違いないが、カズオ・イシグロは、シャリとネタを分離させて、しかも、シャリをほぐして食っていたそうだ。それを見た福岡伸一は、ああこの人イギリス人なんだと思ったそう。このエピソードは、実は、福岡伸一の方が自分の日本人アイデンティティを発見しているにすぎないのだが、しかし確かに面白い。
 ブッカー賞を受賞した『日の名残り』を評した中に、主人公の執事のあり方に、日本人とイギリス人の共通点を見出しているものもあった。確かに、縦の関係の強さに似ている点はあると言っていいと思うが、エマニュエル・トッドの分類によると、日本人とイギリス人は似ていない。私たちはむしろアイルランド人に似ているそうだ。
 ただ、もし、江戸時代の武士階級が存続していたら、その家族のありかたはイギリスに近かったかもしれないとも思う。
 ちなみに『日の名残り』は、アンソニー・ホプキンスエマ・ワトソンで映画化されている。
 あの慎み深い恋愛映画を思い出しつつカズオ・イシグロ版の『生きる』を観ると、抑えたトーンの前半部分はオリジナルに引けを取らない。ビル・ナイ主演(カズオ・イシグロは彼にあてがきしたはずだ)ならこうありたいと思える渋い展開で、この前半部分に沿って後半か書かれたと思われる。
 黒澤明のオリジナルでは前半の登場人物が後半に出てこない。逆に、前半に「出てたっけ?」くらいの人物が後半の展開にキーになる。この点がまず大きな違い。黒澤明のオリジナルは、後半部分の加速感が素晴らしい。前半部分はさすがに1952年の映画とあっては、今の感覚では過不足ある感じがする。たとえば、主人公が自身の病状を知るくだりは現代の感覚ではちょっとありえない。
 カズオ・イシグロ版は、その辺をうまく現代的にアレンジしている。
 「現代的に」と言っても、映画の舞台はオリジナルとほぼ同時代であろうイギリスで、場所を変えただけで時代は変えていない。つまり、オリジナルで描かれている日本の役人のあり方が、同時代のイギリスの役人のあり方にも置き換えられると踏んだ上での脚色だったと思うのだ。
 「英国病」「ヨーロッパの病人」と揶揄された頃のイギリスを舞台にするからこそできた企画だと思う。
 ただ、黒澤明のオリジナルが前半と後半に割れているというわけではない。あれがだらだらと時系列順に語られていたらむしろ退屈だったと思われる。前半のキーパーソンが後半出てこない必然性が、ちゃんとある。この辺は共同脚本の橋本忍小国英雄の力量だろう。
 カズオ・イシグロ版でも、その構成は引き継がれているが、後半を変えざるえなかったのは、ひとつは日本とイギリスの葬式の違いと、それは何とかなるとしても、オリジナルの後半が見事すぎて、変えないとすればそのままやるしかなくなるからだろう。
 それだとさすがにリメークの意味がなくならねえかって思っただろう。オリジナルを4Kリマスターして再上映しろってことになる。
 そんなわけで後半は少し気になる点も出てきた。いちばんは手紙。あれはない方が良かったと思うがどうだろうか。手紙を書くような関係性はなかった気がするのだ。オリジナルにはない手紙を捻出しなければならなかったわけは後半の葬式の構成をそのまま引き継がなかったからである。
 さっきから葬式と書いているが、大半は通夜での議論のことで、そこでの会話劇とフラッシュバックの見事な積み重ねでストーリーが完結するのだが、それをそのままパクらなかったために(通夜の代わりにパブでの議論にすれば良かったのかも)手紙で補足しなければならなくなった。
 ただ、こう書くと、カズオ・イシグロ版が劣るように聞こえるかもしれないが、実はそうではない。『日の名残り』のあの渋さ、秘めたトーンで全編が貫かれている。オリジナル版と違って、副主人公というべき人物が冒頭から登場しているし、前半のキーパーソンが後半まで退場しないことで、ドラマティックではなくなっているが、しみじみとした味わいになっている。
 泣けるという意味ではオリジナルの方だろうけれど(そりゃ何てったって世界の黒澤の代表作ですよ)、ビル・ナイ×カズオ・イシグロで『生きる』を観られる喜びは大きい。『攻殻機動隊』のハリウッドリメークとはひと味違う。


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