『ロストケア』、『すべてうまくいきますように』ネタバレ

 安楽死を扱った映画も昔から少なくなかった。文芸作品にまで範囲を広げると、森鴎外の「高瀬舟」くらいまで遡ることができる。古くて普遍的なテーマだと言えるが、最近の先進国全般の高齢化のために、映画でもこの問題が取り上げられる頻度も高くなったみたい。
 思いつくままに例を挙げると、まず、去年の『PLAN75』が、奇しくも日仏合作映画だった。この新しさは、政府が老後の福祉政策を放棄して、75歳をすぎた高齢者に自死を勧めるという、現在の自公政権なら案外すんなりとやりかねないような、妙なリアリティのあるディストピア作品だった。安楽死が国家レベルの問題になった時こんなにグロテスクになりうるっていう、この視点は今だからすごく訴えるものがあったと思う。
 『アリスのままで』は、若年性アルツハイマーの主人公が自死を図ろうとするが、それすらできなかった。『愛、アムール』は、ミヒャエル・ハネケ監督が真正面からこの問題を描いた作品で、『ロストケア』の松山ケンイチが父の柄本明を手にかけるシーンは、『愛、アムール』を思い出させた。
 また、長澤まさみ松山ケンイチの面会シーンは、是枝裕和監督の『三度目の殺人』の福山雅治役所広司の面会シーンを意識していたと思う。あのシーンは多くオマージュされているみたい。たとえば『ある男』の妻夫木聡柄本明はさほどでもないかもしれないが、『死刑にいたる病』の岡田健史(現・水上恒司)と阿部サダヲの面会シーンにはかなりしつこく使われていた。
 『ロストケア』の松山ケンイチは絶賛されているみたい。しかし裏返すと、松山ケンイチほどの演技達者でないと、実の父を殺すという、複雑なシーンは描ききれないということでもある。シナリオで必然性を作れないということではないかと思う。殺そうとしたが殺さなかったと書いたとしても、殺す気はなかったけど頼まれて殺したと書いたとしても、あるいは他のどんなシチュエーションでも、そのシーンに説得力を持たせるのは役者の演技力でしかない。
 そりゃあたりまえだと言われそうだが、殺すにしても殺さないにしても、どちらも必然性がある時、シナリオにできることはほとんどないんじゃないか。
 そんなわけで、松山ケンイチの演技が素晴らしいということと、この映画が素晴らしいということはピッタリとは重ならない気がする。
 『ロストケア』は、ケアワーカーによる大量殺人をテーマに扱っている。それはやまゆり園事件を思い出させるのだけれど、原作はあの事件より先に書かれていたそうなのだ。
 現実の事件がフィクションを上書きしちゃった場合、フィクションにまた別の視点が加わってしまう。つまり、現実の大量殺人者の顔を私たちはすでに目にした訳で、現実の殺人者は、松山ケンイチほどの説得力も必然性も持たないってことを知ってしまっている。
 つまり、やまゆり園事件の後に作られたこの映画が、現実の事件に対してどの程度向き合えたかっていう点では、それはできなかったと思えるし、できなかったとして非難もされないはずなのだ。映画の価値に違いはないはずなのだが、ジャーナリスティックな課題を扱っているかぎり、現実との相互作用は避けられない。
 その意味では、坂井真紀と戸田菜穂という二人の被害者遺族が、映画に厚みを加えている。この2人の女優の演技が実はすごく効いている。また、松山ケンイチの同僚を演じた加藤菜津も加えて、彼の事件のまわりで翻弄される人々がどの程度リアルに描けるかが、現実に対する映画の解答として重要になると思う。
 そんなひとりに長澤まさみの演じる検事もいるとしたら、長澤まさみ松山ケンイチの最後の面会シーンはちょっと違和感があった。ちょっと強引に結びすぎたという印象を受けた。その前の、取り調べの対決シーンの緊張感とリアリティと比べると、あそこは少し首を傾げた。長らく音信不通だったとは言え、実父を孤独死させたという検事の個人的な体験はこの映画の松山ケンイチと共有できないはずと思うのだ。あるいは、共有することで彼女自身の重荷が減ることもない。その意味で、あの最後のふたりの会見は安易に答えに結びつけたように見えた。あれで、彼女自身の解決にもならないだろうし、映画のオチにもならないだろう。
 
 『すべてうまくいきますように』は、ついこないだ『ラ・ブーム』のデジタルリマスター版が公開されたソフィ・マルソーの2021年の映画。今のソフィ・マルソーの方が綺麗なくらい。
 この原作は自伝小説だそうなので、実話と考えていいんだろう。同じく安楽死についての映画なのだけれど、何と印象が違うことだろうかと感嘆せざるえない。
 『愛・アムール』の例があるので、日仏の差とも言いかねる。ソフィ・マルソーの演じる娘の証言にもある通り、この父親は「かなりリッチ」なのである。病に倒れて体の自由が効かなくなったために、スイスの安楽死団体で自死しようとしている。フランスでは非合法とされる中を、どうやって父の望みを叶えるかのちょっとした冒険譚になっているのだ。
 シチュエーションとしては、『ロストケア』の柄本明とよく似ているのだけれども、金のあるなしでこうも印象が変わるかとちょっと笑ってしまう。自死もフランスだのスイスだのというイメージが加わるだけで、なんか高級時計を選んでいるかのような明るい印象になる。
 柄本明松山ケンイチのケースもこんなふうに明るく描くことも可能だった。そうすると『楢山節考』になってしまうが。しかし、それも可能だったはずなのである。するとストーリーのトーンはガラリと変わってしまっただろう。
 私たちは結局、たかだか映画ごときで、死そのものを知ることなどできない、あたりまえだけれど。生の側に残されたものがその死をどんなふうに納得するかにすぎない。
 『ロストケア』の戸田菜穂と坂井真紀のリアクションは違っているように見えて、実はその納得の仕方の違いにすぎない。あんなふうに折り合いをつけたんだというだけ。
 『すべてうまくいきますように』は実際に明るいコメディに仕上がっている。ソフィー・マルソーという美女、フランスのリッチな家庭、スイスの安楽死協会という先進的なイメージ、それだけで、『ロストケア』の場合とほとんど同じ自死なのに、私たちは悲しんだり、微笑んだりするのだ。
 なので、繰り返しになるけれど、戸田菜穂と坂井真紀の2人の被害者家族を丹念に描いたことが『ロストケア』の優れた点だったと思う。その意味で、これも繰り返しになるけれど、長澤まさみの検事の実父を孤独死させた自責の念は、安易に共有できないものであるべきだった。最後の面会は、まるであれではカソリックの告解のようなのだ。そこだけが気にかかった。
 『すべてうまくいきますように』は『PLAN75』と比較しても面白い。スイスの安楽死協会は、外面だけを見れば「plan75」と同じことをしている。ところがスイスを舞台にするとユートピアになり、日本を舞台にするとディストピアになる。わたしたちの生と死、また生活、家族の在り方、地域社会のあり方、ひいては国家について、どう向き合ってきたの歴史の豊かさと貧しさの差が、この信頼の差を生んでいる。
 『ロストケア』の松山ケンイチは、「殺したのではない、救った」と主張する。確かにそうだと思わざるえないのは、互いに救いあうシステムとしての社会を、私たちは作ってこなかったことがその背景にある。
 少なくとも江戸時代までは、自然発生的に存在していた地域のコミュニティ、又は文化人のサークルなど、そういったつながりをすべて破壊して中央集権化した薩長政府が向かった先がひたすらの軍国主義だった、その結果の焼け野原から、私たちはまだコミュニティを再生できていない。
 やまゆり園事件と『ロストケア』の違い、「PLAN75」と『すべてうまくいきますように』の違いは、片方が中央集権的な優生思想なのに対して、片方は地域コミュニティの互助的な発想にあることだと私は言いたい。
 ちなみに『ロストケア』の前田哲監督は『こんな夜更けにバナナかよ』の監督である。あれもよかった。


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愛、アムール(字幕版)

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