アーティゾン美術館 常設展

 ブランクーシ展を見た後、上野のデ・キリコ展にまわるつもりだったんだけど、常設展で思いのほか長居してしまい、また後日ってことになった。
 ここの常設展は、青木繁の《海の幸》、クロード・モネの《黄昏、ヴェネツィア》、ルノワールの《すわる水浴の女》などは必見だけれども、頻繁に訪ねられる立場のものとしては、毎回写真には撮らない。

アルフレッド・シスレー《サン=マメス六月の朝》
アルフレッド・シスレー《サン=マメス六月の朝》

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 晴れた日の朝だけならシスレーが最強じゃなかろうか。印象派唯一のイギリス人で、徹頭徹尾印象派で、生涯貧乏だった。

シャイム・スーティン (1893-1943 )《大きな樹のある南仏風景 》1924年 油彩•紙
シャイム・スーティン (1893-1943 )《大きな樹のある南仏風景 》1924年 油彩•紙

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 スーティンとシスレーの絵をこうして並べてみると、この間に大きな戦争があったことが如実にわかる。戦争が美を傷つけている。
 世界が画家に見せようとする姿そのものをもはや画家は信じることができない。画家だけでなく鑑賞者も見せかけの世界の裏側にある何かに気づいてしまった。印象派が鑑賞者と共有できた印象がスーティンの世代には変容してしまった。
 死の床の愛妻の変わりゆく顔の色を必死で描きとめようとしたモネは、世界が彼に真実を見せようとしていると信じることができた。スーティンはそれを信じられない。正しく言えば、むしろ彼らの世代が世界に戦争という、あまりにも強い意味を塗りつけてしまったためにそれを拭い去ることができない。
 と、まあこれは画家と鑑賞者が無意識の共犯関係にある時代感覚の話にすぎないが、スーティンの絵は私にはそんなふうに心に刺さってくる。

アンドレ・ドラン《女の頭部》
アンドレ・ドラン《女の頭部》

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 これは新収蔵品だそうだ。アンドレ・ドランは、本来はアンリ・マティスヴラマンクと同等にフォーヴの旗手と扱われてもよさそうなものなのに、ヴィシー政権時代にナチに利用された結果、戦後は対独協力者とみなされて追放されたとwikiにある。アンドレ・ドランの絵をまとめて観ることができないのはそのせいなのかもしれない。

パウル・クレー《双子》
パウル・クレー《双子》

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 こちらも新収蔵品。

黒田清輝《針仕事》
黒田清輝《針仕事》

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 ラファエル・コランが「黒田清輝は日本に帰ってから下手になった」と評したときいて、それはモチーフが日本のものになったからと思っていたが、こういうの観ると、確かに滞欧時期の方が無心で描けていたのかもとも思う。帰国してからは結局、家業を継ぐことになるから。

岡田三郎助  《婦人像》
岡田三郎助 《婦人像》

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 浮世絵以来の「美人画」がついに油彩で描かれるようになった。そんなふうに油彩というフォーマットの普及に黒田清輝の果たした役割は大きかったと思う。コロンブスが発見しなくてもアメリカ大陸はそこにあったし、黒田清輝が持ち込まなくてもそのうち誰かがもちこんだろうけれども。

松本竣介 1912-1948 運河風景 1943年 油彩・カンヴァス
松本竣介 1912-1948 運河風景 1943年 油彩・カンヴァス

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