『ミッシング』

 吉田恵輔監督作品ではわたしは何と言っても『ヒメアノ〜ル』。ムロツヨシ佐津川愛美濱田岳、の特にムロツヨシが絶品だった。
 だけど、『愛しのアイリーン』、『空白』は、世評の高さに懐疑的。
 『愛しのアイリーン』の木野花安田顕のリミッターがぶっ壊れたようなお芝居は、確かに痛快だとも言えるのだけれど、それをよしとすべきかどうか迷うところもある。
 『空白』の古田新太も全く同じ意味で、あそこまで独善的な父親が果たして現実に存在するか?。もし現実にあんな父親がいたとしても、『寺内貫太郎一家』じゃあるまいし、現代的なキャラクターとも言えないし、新しい存在とも思わない。かと言って、普遍的でもない。
 もちろん、古田新太にしても、木野花にしても、役者さんとしての実力はいうまでもないが、なぜあんなリミッターのぶっ飛んだキャラクターを演じさせる意味があったのか。『寺内貫太郎一家』の主人公のあの性格は、主演の小林亜星が演技の素人だったから、演じやすいようにあの陰影のないキャラクターになった一面もあったと思っていた。
 古田新太木野花のような芸達者になぜあんな単細胞なキャラクターだったのか。あの2人の登場人物がシナリオ上でも、成立した映画の中でも、果たして魅力的だったろうか?。
 こう書いているのは自問自答のようなものだ。安田顕木野花古田新太が熱演している、それを指していい映画と言うべきなのかどうか迷う。『ヒメアノ〜ル』のムロツヨシ佐津川愛美のキャラクターには新しさとリアリティがあり、オリジナリティがあった。
 『愛しのアイリーン』や『空白』の登場人物たち、特に主役級の人たちは、ストーリーは違えど、感情曲線は全く同じに感じられる。ひとりで勝手に盛り上がって、独りよがりで萎んでゆく。
 考えてみると、『ヒメアノ〜ル』の主役は森田剛だったのかもしれず、主人公がサイコパスで、観客はそれに翻弄される脇役たちに寄り添うと言う構造が、『愛しのアイリーン』、『空白』と違っていて、これらの作品では、観客の視点は主人公のそばにあり続けるが、その主人公たちが、あからさまに言えばつまんない。つまんなすぎて役者が熱演するしかないのかもしれない。
 今回の『ミッシング』も、女優、石原さとみにとっては挑戦かもしれないけど、そういう挑戦を、確かに映画ファンとして応援したいけれど、石原さとみを知らない海外の観客が見たとしたら、はたしてこの熱演は空回りしてないのかどうか、そんな「たられば」に意味はないとは言え、『愛しのアイリーン』、『空白』、『ミッシング』は、おんなじものを観せられてる気分になる。熱演してる役者、それだけ。
 もちろん、役者さんの熱演が観られるのは悪いことではない。しかし、『マリウポリ20日間』のようなドキュメンタリーを観てこれを観るとモヤモヤしてしまう。
 ロシアの砲撃を受けた産婦人科から臨月の妊婦さんが担架で運び出される映像はネットでも見られる。大きいお腹をさすりながら運ばれていくあの女性が運ばれた先の病院で、「あの人なら骨盤が砕けていて助からなかったわ。赤ちゃんもお腹の中で死んでたの」とあっけらかんと教えてくれた看護婦が何となく笑っているようにさえ見えて、あまりにも悲惨な状況に置かれるとこんなふうなのかなと思ったものだったが、その同じ看護婦が、もう1人の助け出された妊婦の赤ん坊が取り上げられたあと、医者にケツを叩かれて何とか産声を上げると号泣するのだ。
 これは一例だけれど、リアルな感情の多面性が、吉田恵輔監督作品ではちょっと傍にやられている気がする。ないとは言わない。『ミッシング』では、主人公の弟さん(森優作)の存在が興味深かった。しかし、それが主人公の価値と対立しているほどの存在感があったかというと、やはり映画全体は主人公の一人芝居の脇役にすぎないと見えてしまう。
 熱演はいいのだけれど、人間ってこんなに単純かなあと思ってしまう。複雑かと思えば単純、単純かと思えば複雑といったものだと思うから、人間は単純ではありえないとは思わないけれど、これは個人的な感覚にすぎないのかもしれないが、『ヒメアノ〜ル』以外の吉田恵輔作品には人間より役者が前面に出すぎている気がする。
 それが悪いかと言われれば、別に悪くはない。でも、繰り返しになるけど、何か全部同じものを見せられてる気がしてしまう。


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