『哀れなるものたち』のヒットを受けて、ヨルゴス・ランティモス監督がふたたびエマ・ストーン、ウィレム・デフォー、マーガレット・クアリーと組んだオムニバス。
3章ともキャストは共通しているけど、演じているキャラクターは違う。同じ座組で違うストーリーを演じるわけで、たとえば『ごっつええ感じ』の週替わりのコントに似ている。
3章からなるオムニバスっていうと濱口竜介監督の『偶然と想像』を連想してしまうわけだが、あれは、それぞれのエピソードを違うキャストで演じてますわな。それと違って3つのエピソードを同じキャストで演じる時点で、観客にはすでにメタ的な視点を与えられている。3つのエピソードはリアリティよりも寓話性がずっと強く感じられるようになる。
役者たちがうまければうまいほど、そのリアリティは悪夢に近くなる。
三谷幸喜の『スオミの話をしよう』は、酷評、もしくは賛否両論がかまびすしいようだが、あれも長澤まさみと宮澤エマが複数のキャラクターを演じるのがミソなわけだから、いっそのことこんな風にすればよかったのかなとも思った。
メタ的な非現実感と局所的な現実感の共鳴(まあそれこそ寓意的ってことなのかもしれないが)が、夢で見た一場面のような奇妙さを醸し出している。
キャストの中であえて言うなら、ジェシー・プレモンスが主役っぽく見える。具体的に言えば、1話目と2話目の主役は彼。『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』で、もともとはディカプリオがやるはずだったFBIの捜査官をやった人。もうすぐ公開される『シビル・ウォー アメリカ最後の日』でも重要な役みたい。トランプ時代のアメリカ男性を想像してみるとまさにこの人の顔が思い浮かぶ、そういう怖さがある。予告編で見た人もいると思うけど
「私たちはアメリカ人だ、そうだろ?」
という人に
「What kind of American are you ?」
っていう人。
1〜3章まで出ずっぱりだけど、特に怖いのは2章目。海難事故で妻(エマ・ストーン)が行方不明なっている警察官。エマ・ストーンとは似ても似つかない浮浪者(というか適切な言葉が出てこないので)にまで妻の面影を追い求めている。
というか行方不明だった妻が奇跡の生還を果たした時に「いや、エマ・ストーンだったんかい?!」ってなる。「似ても似つかんがな」。
しかし、再開した妻に対して「こいつ偽者じゃないのか?」って疑念が育ち始める。
そして、偽者の正体を暴こうとさまざまな無理難題を要求し始めるのだが、観客の予想を裏切って、結末では、この男の妄想の方が勝利する。
それで気がつくんだけど、妄想が妄想であり続けるかぎり、妄想が敗れることはないんだという当たり前のことに、妄想が敗れて正気に帰るなんてことは、その辺のサラリーマンが仏の悟りを開くくらい絶望的だと思い知らされる。
3章目は、ある意味では(kinds of)「救い」の話。変なカルトが探している救い主が、どうやら見つかるって話。聖書のラザロみたいに死者を甦らせる力があるらしい。のに、今は普通に獣医をしてる。
これも、観客のの予想を裏切り、ホントに死者を甦らせるのだが、それが1話目に死んだ奴。
書いたとおり、3章はそれぞれ独立してるんだけど、1話目で死んだ奴が3話目で生きかえるって話だともとれる。そう言われると、3章ともにRMFというこの男の名前が章のタイトルになっていた。だから、ほんとの主人公はこいつかも。洒落たオチですわ。
ちなみにRMFを演じているヨルゴス・ステファナコスはヨルゴス・ランティモス監督の旧友だそうです。
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