北川民次展 世田谷美術館

 北川民次はメキシコで客死したと思っていたのは勘違いだったみたい。しかし、そう思っても仕方ないくらい、これまで作品に触れる機会が少なかった。

トラバラム霊園のお祭り

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 しかも、最初からメキシコでだったわけではなく、むしろ、絵画の教育はアメリカのアート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークが最初だった。アシュカン派に目されるジョン・スローンに師事。教室は違うが同窓に国吉康雄もいた。

国吉康雄《帽子の女》
国吉康雄《帽子の女》

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 ただ、この頃の絵はほとんど残っていない。バハマで働いている時に、全財産の3000ドルとともにすべて盗まれた。
 ニューヨークには馴染めなかったみたいで南下してメキシコに渡った。このあたり、アメリカを代表する画家になった国吉康雄と違っていて面白い。
 その違いは藤田嗣治との交流にも現れていて、藤田嗣治ディエゴ・リベラをメキシコに訪ねたとき北川民次と出会い、彼の活動をパリに紹介した。
 北川民次の絵もそうだが、野外美術学校での児童に対する美術教育が絶賛された。今回の展覧会にも当時の児童が描いた絵が何点かあったが、このような児童美術教育は世界初の試みだったのかもしれない。ピカソがこれを絶賛したのはすごくよくわかる。
 当時のメキシコで勃興していた、オロスコ、シケイロス、リベラによる壁画と児童美術教育は、美術を大衆のものにしていこうとする運動として、当時のパリに対するカウンターカルチャーとしても重要な意味を持っていたと思われる。北川民次にとっては、パリでもニューヨークでもなくメキシコが答えだった。
 藤田嗣治も早速影響を受けて日本で壁画を描いている。今では失われているのが残念。藤田嗣治戦争画は、おそらくこの文脈で描かれたものだったと思う。

knockeye.hatenablog.com

 藤田嗣治が晩年に子供の絵ばかり描いていたのも、またこの時のメキシコの影響があったかもしれない。
 パリにもニューヨークにも批判的だった北川民次だが、娘の教育のために日本に帰国したことを「後悔した」とのちには漏らしていたそうだ。この点に関しては、北川民次国吉康雄藤田嗣治とも意見の一致するところだったろう。

鉛の兵隊(銃後の少女)
鉛の兵隊(銃後の少女)

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 江戸時代の日本に憧れる人は世界にも珍しくないが、軍国時代の日本に憧れるのは右翼だけ。それだけでも彼らは十分に狂ってる。
 北川民次は結局、愛知県の瀬戸に移り住んで暮らした。瀬戸の工場を描いた版画がまた素晴らしかった。

10 瀬戸市街
10 瀬戸市

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 この絵なんかはちょっとベン・シャーンを思い出させる。

二十年目の悲しみの夜
二十年目の悲しみの夜

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南国の花
南国の花

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 ちなみに、世田谷美術館のセタビカフェの

ガレット
ガレット

は美味しいと思う。KALDIでガレット用のそば粉を買ってきて自分で作ってみようとしたけどこんな感じに薄くできなかった。