ペドロ・アルモドバル監督の新作『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』。
ティルダ・スウィントン、ジュリアン・ムーアのW主演。
小説家のイングリッド(ジュリアン・ムーア)は、偶然に、旧友だった戦場カメラマンのマーサ(ティルダ・スウィントン)が、癌病棟に入院していることを知る。見舞いに訪れたイングリッドにマーサが頼んだのは、安楽死に寄り添ってほしいという願い。マーサは、決断ができるまで、ドアは閉めない、朝、部屋のドアが閉まっていたら、それが決断した印だとつげる。毎朝、祈る思いでマーサのドアを見守るイングリッドの日々が始まる。
映画を観た後に原作も読んだ。原作の方がしっくり来る気がした。
以下ネタバレ。
原作と映画の設定の違いは、原作では、マーサがもの書きではあるが戦場カメラマンではないこと。
発端にかぎれば、細々とした違い以外は、特に大きくは変わらない。
それだけに、別荘に移ってからの違いが目立つことになる。特に、ラストに近づくにつれての後半の違いは大きい。
映画での別荘はまるでザハ・ハディドが設計したようなデザイナー建築になっていたが、小説ではコロニアル様式となっている。しかも、小説ではAirbnbで借りている。そりゃその方が現実的と思われる。あの豪奢な別荘を買えるって設定のためにイングリッドが売れっ子作家って設定になったのではないかと思われる。
原作小説と映画のいちばんの違いは、小説の方はオープンエンディング。マーサの最終決断ははっきりとは描かれていない。
しかも、映画とは違って、最終的にはあの別荘を出なくてはならなくなってしまう。ちなみに、別荘を取り巻く環境の美しさは映画も小説もよく似ている。
小説では、マーサとイングリッドはまたマーサのアパートに戻ることになるのだが、オープンエンドと言いつつ、読者はマーサの決断を仄かに察知するだろうと思う。これはでも、あくまでオープンエンドなんだから、私の個人的な感想ではある。でも、それを仄かに知らせるのが作家の技量というものだろうし、小説の醍醐味でもある。
映画も小説も共通して、最初の頃、マーサのドアがあやまって閉じていたことがあった。あの伏線がある以上、小説の終わりかたの方が味わいを深めると思うが、映画の方では、けっこう早々とマーサが決断してしまい、観客としてははぐらかされた気分にならないだろうか?。
ひるがえって考えればそれは残酷な観客心理だけれども、マーサのドアが開いているか閉じているかに翻弄されるイングリッドがこの作品の核であるかぎり、そのような残酷な観客心理をメタ的に考慮しながらも、小説のオープンエンディングの方がやはり正しいように思った。
映画の方はマーサの決断に寄り添いすぎ、死を美しく描きすぎているかのように見える。というか、死を美しく描きたがっているようにさえ見える。特に、BGMが過剰に感じられた。小説の方がもう少しビターで、この作品の背景にある現代社会の分断が丁寧に描かれている。
原作と映画と両方知っている場合、必ずしも原作がよいとは限らないが、今回は原作の方がより好きだった。だけど、映画は映画でティルダ・スウイントンとジュリアン・ムーアが素晴らしく、これはこれで捨てがたい。
ただ、まあ、映画観た後で首傾げちゃったのは事実で、それで原作を読んじゃったのだから、首を傾げたものの、原作を読ませるだけの魅力はあったってわけ。へたな映画なら原作を読もうとも思わなかったはずなので。
というようなことで、参考になりましたら。
