イスラエルの入植者の実態が初めて理解できた。たんに文字情報で知っている「入植」と実際に目で見る入植とは大違いだ。あんなにニヤニヤ笑ってるとは思わなかった。
あんなに静まり返っている映画館も初めてだった。泣くも笑うも誰も何もできない。余りの卑劣さと暴力にただただ呆然としていた。
今度のイスラエルとハマスの戦争に「先に仕掛けたのはハマスなので、イスラエルには交戦権がある」みたいな意見もあったが、チャンチャラおかしい。
国連が定めた国境を超えてどうやって入植できるのか不思議に思っていたけど、そりゃ暴力なしにできるわけがない。当たり前だった。しかし、見るまでわからなかった。
ひとりのイスラエルの入植者が、「ほらほら勝手に動画撮ってどんどんアップしろや」と笑いながら銃を向けてくる。運転席のイスラエル人も笑っている。
パレスチナの子供たちは泣いてる。時には撃たれてる。そして、家を失い、村を失い、国を失う。
この暴力を笑いながら振るえるのがイスラエル人だと、おそらくはイスラエル人自身が誇りにさえ思っているに違いない。
というのは、イスラエル人は兵役につくときに誰もがホロコーストの記念館を訪ねる。そして、ナチが彼らに対して行ったことを心に刻んで軍隊に入る。その時彼らが手にしているものが何なのかがこういう映画を見るとよくわかる。笑いながら人を殺せる心。それを手に入れて手放さない決意を固めるものだけがイスラエル人になるのだ。
彼らの神はユダヤ人以外を殺せと命じた神であったことはもう何度も書いた。
「あなたの神、主が嗣業として与えられる諸国の民に属する町々で息のある者は、一人も生かしておいてはならない。ヘト人、アモリ人、カナン人、ベリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼしつくさねばならない」(申命記20章16節〜17節)
そして、シオニズムとはとりも直さずイスラエル人の手を新たな血で汚すことに他ならなかった。
シオニズムはナチズムに対するユダヤ人からの返答だった。ドイツのユダヤ人虐殺について、ドイツは手厚く謝罪していることになっている。これに対して、日本人は韓国人に対して謝罪が足らないことになっている。
しかし、これは本当なんだろうかと常々疑問に思っている。ユダヤ人から奪ったものをドイツ人たちは返したのか?。もしそうなら生き残ったユダヤ人たちはドイツに帰ってくるはずじゃなかったのか。
奪ったものを返す代わりに、パレスチナ人から奪って、ユダヤ人たちにあてがった。これを「イスラエル建国」と呼ぶのは一方の側だけで、パレスチナ人は「ナクバ(災厄)」と呼ぶ。
この映画はベルリン国際映画祭で最優秀ドキュメンタリー賞と観客賞を受賞したが、ベルリン市長とドイツ文化省はこの受賞を批判するコメントを発表した。
イスラエル建国が如何に政治的な決着だったかがよく分かる。ヒットラーの死後、忌み避けるべきは差別政策だったはずだ。が、結局、ドイツの選択は「平和的なナチズム」とでも言うべき、ユダヤ人の隔離にすぎなかったと言えるだろう。これも何度も書いているとおり、ナチスドイツの当初の政策ではユダヤ人を国外に駆逐さえできればそれでよかった。紆余曲折を経たが、イスラエルは実はその実現にすぎなかった。だから、イスラエルがかつてのナチと同じことを行なっていたとしても、ドイツは頑としてイスラエルを支持する。
ナチズムを父に、シオニズムを母に生まれたイスラエルという国は強靭な狂信国家だ。21世紀の四半世紀が過ぎても、実はナチズムは全く終わっていなかった。
この翌日に『ブルータリスト』という、ユダヤ人建築家が主人公のフィクションの映画を観た。功なり名を遂げた主人公の姪が主人公の言葉としてこういう。
「騙されるな。大事なのは目的地で旅路ではない。」
ハリウッドが映画の都であるとともにユダヤ人の王国であることはいうまでもない。彼らの旅路は目的地に近づいているらしい。
