『ブルータリスト』ネタバレ

 「ブルータリズム」ってのは建築史の用語。バウハウスの後を継ぐモダニズム建築で、「brutal (粗暴な)」という英語とは関係なく、「béton brut(ベトン・ブリュット)」という「生コンクリート」を意味するフランス語に由来するらしい。コンクリート打ちっぱなしの建築をイメージすればよいのだろう。
 これを映画のタイトルにする意味を考えると、字面からは野蛮で下等に見えるのに実はモダンだってアイロニーが込められていると思われる。
 実際、主人公の建築家ラースロー・トート(エイドリアン・ブロディ)がホロコーストを逃れてNYに辿り着くと、何はともあれまず女を買おうとするのだけれども、女の眉とおでこの間隔が気に入らなくて勃たない(もしくは、そんなこと言いつつやることはやったのかも)。このあたり、この男は、芸術家肌とも言えるし、いわゆるイヤな奴だともいえる。
 その後もこの傍若無人、傲岸不遜ぶりを発揮しまくる。最初に、いとこのアティッラ(アレッサンドロ・ニヴォラ)の営む家具屋に居候するんだけど、その嫁さんの見てる前でバスタブにションベンしてる。酔っ払ってるとはいえ、全然、悪気がなさそうなのがさらにちょっとどうかと思う。
 ちなみに、この時、ラースローといとこの嫁さんとの間に何かあったかどうか、直接的なことじゃなくても、何か不快なことがあったかどうかは、どちらともとれる描き方がされている。これは、後に出てくるハリー(ジョー・アルウィン)とジョーフィア(ラフィー・キャシディ)の間にも何かあったのか疑わせる描写があり、力の関係が性的な関係と対応するように匂わされていて不穏な世界観を醸成している。
 色々あって追い払われる羽目になるけれど、その嫁さんがカソリックだったってことで、「僕たちユダヤ人は、、、」的な繰り言を言うんだけど、あんまり同情する気にならない。
 改めて断っておくと、この話は全部フィクション。バウハウス出身のマルセル・ブロイヤーがモデルとも言われているが、どのような意味でも実話でも史実でもない。となると、この傲岸不遜な建築家と、彼のタニマチになる、叩き上げの実業家ハリソン・ヴァン・ビューレン(ガイ・ピアーズ)の半生記に私たちは何を見るべきなのかは注意しなければならないかも。
 戦後ハンガリー国境に足止めされていた奥さんエルジェーベト・トート(フェリシティ・ジョーンズ)を支援者の助けを得て呼び寄せることができる。車椅子に頼らざるえなくなっているものの、この女性がオクスフォード卒で、祖国では新聞記者を務めていた才媛なのだ。「私のこと何も言ってなかったの?」とか。
 ホロコーストで命を落としたアーティストもいるし、そうでなくても、ホロコーストの被害者の視点で、私たちはユダヤ人社会を見てきたはずだったが、今のユダヤ人たちは誰もが生き残った人たちには違いない。ホロコーストを生き残ったから幸運だとは間違ってもいえないが、バウハウス出身の建築家とオクスフォード出の才媛と言うエリートカップルを「支援」しているハリソンにしてみると、ちょっとははぐらかされた思いになろうというもの。実際、歓迎のテーブルでちょっと粗野(brutal)な態度をとる。
 一代で財を成して今や政界にも顔が効くアメリカ人のハリソンと、ナチスの暴力を逃れて亡命してきたヨーロッパの芸術家のラースロー、この2人のアンビバレンツな関係が映画の主題となっていく。
 15分のインターミッションを含めておよそ4時間の長編は、3時間半の休憩なしの映画(『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』、『アイリッシュマン』とか)よりはずっと観やすい。それでいて分厚い本を読み終えたような満足感が得られる。映画館側としては2本分のコストで1本分の料金なんだから割には合わないとは思うが、インターミッション付きの映画っていう、それ自体が豪勢な和風旅館に泊まるようなある種のエンターテイメントの要素にもなっていると思う。画面の重厚感もそういう映画体験を十分に意識した作り込みだと思う。
 ハリソンに「なぜ建築を?」と問われたラースローは「わたしの作品はナチスが過ぎ去った後も祖国に残り続けている。そんなふうに時の流れに侵食されないものを残したい」みたいなことを言う、正確な文言は忘れたけど。
 大理石を手に入れるためにハリソンとラースローはイタリアの採石場を訪れる。それ自体が神殿の廃墟のようでもあり、一方では神殿の母胎でもあるような巨大な美しい採石場で、開かれたパーティの夜に、ハリソンは酔ったラースローを強姦する。この辺りは、巨大なヨーロッパの伝統を前にしたハリソンのコンプレックスが痛いほど伝わる。レイプってのは性的な欲望とは重ならない。
 エピローグ、これについては『ノー・アザー・ランド』のところで、ちょっと先出ししてしまったが、建築家として功成り名を遂げたラースローの晩年、ベニスで彼の回顧展が開かれている。ハリソンがハンガリーの国境から救ったラースローの姪、ジョーフィア(ラフィー・キャシディ)が、スピーチにラースローの言葉を引用して言う「騙されるな。大切なのは目的地だ、旅路ではない」。
 結局、彼の建築が残り続ける。確かに、アートとはそういうものでもある。ギリシアパルテノン神殿法隆寺五重塔。でも、ブルータリズムはそうだったのかって疑問も残る。モダニズムは、使用する人たちの利便性を最優先する機能を美として捉えていたはずだった。もちろん、その機能美が巨大なプロペラの美しさとして残り続けるってことはあるだろう。確かにパルテノン神殿の柱の美しさは機能美だと言えるだろう。私たちはそこに残った美を見るべきなのか、失われた機能を見るべきなのかは永遠の矛盾としてあり続けるだろうと思われる。
 つまり、『ブルータリスト』の裏側に『ノー・アザー・ランド』があり続ける。パレスチナの人々を駆逐し、イスラエル入植者の家を整える、その建築はブルータリズムではなくはっきりとbrutalそのもの。千年後のあの土地に美しい入植者の街があればそれでいいのか。その旅路は誰も問われないのかって疑問は心に残り続ける。
 最後に、美術ファンとして付け加えるに、ラースローの作ろうとした架空の礼拝堂のモデルは、ル・コルビュジエのロンシャンの礼拝堂かなぁとも思うが、安藤忠雄光の教会の方が似ている。
 ベニスの美術館は、たぶん、ペギー・グッゲンハイム・コレクションだろうと推測している。つうのは、ペギー・グッゲンハイム自身が、ナチスドイツがパリを占領した際に、多くのアーティストたちをNYに渡航させる労を担ったから。ペギー・グッゲンハイム・コレクションは、その縁で収集されたコレクションを展示するために1949年に建設された。そして、彼女は、そんなアーティストの1人だったマックス・エルンストと結婚している。ちょっとだけ、ハリソンとラースローの関係を思い起こさないではない。



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