ジャルジャルの福徳秀介のデビュー小説を『勝手にふるえてろ』の大九明子が監督した。
映画を観た後、いろいろ確かめたくて原作も読んだ。
映画版で魅力的なのは、主役の2人以上に、伊東蒼と黒崎煌代だと思う。原作を読んでみると、2人の演じたそれぞれさっちゃんと山根の魅力は原作の段階で完成している。さっちゃんの長セリフと、山根の不思議なエセ関西弁。特にさっちゃん(伊東蒼)の長台詞は、あれはほぼ原作のままなのに驚かされる。
あのセリフがこの映画のハイライトであることを考えると、この小説を原作にして、さっちゃんに伊東蒼をキャスティングした時点で、映画として成立していたといえる。
長台詞は、主役の2人にもある。河合優実と萩原利久の長ゼリフも、あくまで小説の文章であるあれだけの長いセリフを映画のセリフにして見せるこの3人の演技力はそれだけでこの映画を見る価値がある。
映画を観た後に小説を読んでいるので、「原作のままじゃん」と思うが、逆にいえば、こうした長台詞が小説に出てくるのはけっこう珍しい。
映画で3人の圧倒的な演技力を先に見てるからこそ、この長い長い喋り言葉の連続が、小説に入り込むことに耐えられるのかもしれないとも思う。
つまり、これはどうしても誰かの肉体を通して表現されなければ終わらないと感じさせる、このセリフの部分だけは戯曲であり、ジャルジャルのネタ帳を垣間見る思いをさせる。
小説にすでに圧倒的に映画感がある。長セリフの部分はもはやそのまま映画のセリフだが、それ以外でも映画にしやすい部分も多い。映画として成功しているのは黒崎煌代が演じた山根と、安斎肇が演じた喫茶店のマスター。この2人の芝居は見事だと思った。
逆に、原作があまりにも映画的なために、小説的な部分は、シナリオがギクシャクしていると思う部分もあった。うまく処理できていないなと思うのは主人公の小西徹(萩原利久)の祖母の描き方。その祖母だけは原作で最も小説的。そのためか、映画ではいちばん苦労している。前半、祖母の死を思い出して主人公が泣くシーンは、ありえなさすぎて映画館を出ようかと思ったくらい。
主人公は、大学生活に馴染めずにキャンパス内ではいつも日傘をさして歩いている。それだけでかなり異様ではあるが、その違和感はストーリー上、必要な違和感だと思う。が、というか、なので、というか、その上に、原作にない、半年休学のエピソードを加えると、主人公のキャラクターがブレる。
映画では祖母の死を直近にずらしてあるので、休学も泣くもありえなくはないが、それを初デートの彼女の前でとなると、その違和感は日傘の違和感を超えちゃう。現実にありえないとまでは言わないが、映画としては間違いだと思う。主人公の違和感が人間的に低いレベルに落ちる。
その結果、主人公の唯一の男友達の山根(黒崎煌代)とのすれ違いの表現も、映画では、子供のケンカみたいになってしまっている。
原作で、小説的に、文章が醸し出している、主人公の山根や祖母に対する敬愛の思いが、映画ではうまく映画的に処理できていない。それが主人公のキャラクターに対する観客の信頼を傷つけている。
逆に、桜田花(河合優実)の亡父(浅香航大)は、うまく映画化されていると感じた。さっちゃん(伊東蒼)と亡父(浅香航大)と喫茶店のマスター(安斎肇)は正しい。
その言い方を許してもらえるなら、主人公と祖母の関係の描き方は間違ってる。ので、主人公が祖母と重ね合わせている桜田花のキャラクターも微妙にぶれて見える。
ちなみに、映画には出てくる「セレンディピティ」は原作には一切ない。この言葉はこの原作の解釈としては正しい。なので、その言葉で原作の小説的な部分を描こうとしたのはうまいと思う。なので余計に、主人公と祖母と桜田花の3人の関係性を描く描き方の失敗が目立つ。
ある意味では、桜田花のバイト先の飼い犬サクラは祖母と同じ意味なので、サクラと祖母はまとめてしまってもよかったのかもしれなかった。そうすると、葬儀でのサクラのエピソードがもっとしっくりきたかも。
この映画のストーリーは、映画『めぐり逢い』(1957)の変奏曲のひとつだと気づく人も多いだろう。王道中の王道の恋愛映画の骨格を少しずらしている、そのずらし方もうまい。それだけに、小西徹と桜田花のボーイ・ミーツ・ガールのパートがギクシャクしたのが惜しい。
冒頭15分くらいを乗り切れば後はすごくいい。ので、短気な人はそこで諦めないように。
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