
神戸市立博物館で「蒐集家・池長孟の南蛮美術」。

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狩野内膳の《南蛮屏風》。

おそらくは余り見慣れない風俗だったはずなのに、帆船をはじめ人々の服装だけでなく、それを着てさまざまなポーズの人たちを生き生きと描き分けている。
これよりずっと時代が降って江戸の末期ごろの歌川国芳が、明らかにヨーロッパの銅版画からモチーフを借りた絵を描いていたり、今回の展覧会にも出展されている、それより少し前の平賀源内や司馬江漢、あるいは小野田直武の蘭画に描かれているヨーロッパ人はここまで生き生きしていない。
豊臣家に仕えた絵師・狩野内膳(1570~1616)なので、この人は実際に、バテレン、マタロス、黒ん坊たちを目にしていたに違いないのだろう。

スタイルは狩野派で背景は金箔で意匠化されているのに、人物のパースが全くずれていない。あまりに自然なのでかえって気がつかないけど、アンリ・ルソーの作品を思い浮かべると、この技術の確かさに改めて感心してしまう。

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この船首で逆立ちしている水夫のフォルムは、このあと二度と現れなかった表現だと思う。

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この《泰西王侯騎馬図屏風》は、四曲半双という珍しい屏風なのは、もとは八曲一双だったと推測されている、その片われは今サントリー美術館が所蔵している。
会津若松の鶴ヶ城に伝わった屏風で、戊辰戦争の際に、藩主の松平家から前原一誠(1834~76)に贈られた伝承がある。
前原一誠はもとは松下村塾生。戊辰戦争の戦後処理では松平容保の助命に尽力したので、その感謝のしるしとして贈られたと思われる。
当時の長州の会津に対する態度は陰湿としか言いようがない。会津の側から明治維新を見るととても司馬遼太郎のような明治維新感は抱きようがない。明治維新という時代がいつ終わったかについては歴史が判断するだろうが、1945年8月15日について「俺は知らね」って態度を取ってもらっては困る。
負けたのは致し方ないとして、その陰湿さは明治維新の当初からこの政体が持ち続けてきたものだと思われる。
前原一誠は木戸孝允に反発して、最後には萩の乱を起こし、43歳の若さで斬首された。

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こんな地球儀みたいな「須弥山儀」が作られてたのは、今回初めて知った。須弥山とは「仏教の宇宙観において、世界の中央にそびえる想像上の山」。仏教徒であるかぎりこの響きに馴染みはあるものの、例えば「西方浄土」と言っても、それが西の方のどこかにホントにあるとは思ってないのと同じく、須弥山という山がこういう須弥山儀みたいな形で定義されるには違和感しかない。
本居宣長と上田秋成の論争にも地球儀が出てくるくらいで、江戸時代の人たちも地球が丸いなんてことはすんなり受け入れていたようだ。丸でも四角でも生活に支障はないし。
そう思うとキリスト教社会でなぜ地動説がそんなにも迫害されたかは分かりにくい。色々な後付けの説明はできるものの、魔女裁判とか日本でのキリシタン弾圧とかスペインの南米での略奪とか、人間社会は暴走するものだと思うしかない。