リー・ミラーの残した写真が、彼女の死後、屋根裏から大量に発見された。コロンブスが発見するはるか前からアメリカ大陸はそこにあった。発見とはそういう言葉にすぎないが、しかし、彼女の没年が1977年。その写真を発見した彼女の息子アントニー・ペンローズの『リー・ミラー: 自分を愛したヴィーナス』が邦訳されたのが1989年であることを考えると、映画が彼女を発見したのはようやく今年だと言えるかもしれない。
私が不勉強なだけだということは重々承知で置いておくとして、この映画が発見とファースト・コンタクトに満ちている。事実上の原作はアントニー・ペンローズの著作だと言えるだろうが、それよりも、この映画の事実上の絵コンテがリー・ミラー自身のその写真であることにいちばん感動させられる。
放置された貨車の中に積み重なる死体。その貨車の中から衛生兵の姿をとらえた写真がある。その画角を再現することで、リー・ミラーがその時どこに立っていたかがわかる。
ポスターに使われている、ヒトラーの浴室の写真。これを撮れるカメラマンは彼女しかいなかったと思う。
ホロコーストの現場にいち早く駆けつけたカメラマンのひとりなんだと思う。当時はまだホロコーストという言葉さえなかった。リー・ミラーは、解放後のパリで人々がいなくなっている異変に気づく。
パリ解放の日は、リー・ミラーが務めていたイギリスの視点からすれば、そこがゴールであるはずで、出版界だけでなく、誰もがそういう写真を期待していたとして、正直いって責められもしない。現場にいてその写真を撮っていてさえ何も見えないものもいる。
しかし、リー・ミラーは異変に気づく。パリ解放の日からジープを駆って最前線に向かっていく。それまでの戦場写真ももちろん、女性の視点で撮った戦場写真として意義深い。しかし、パリ解放後の写真はそのレベルではない。この人の写真がピューリッツァー賞を獲ってないならピューリッツァー賞などというものは一文の価値もない。
ホロコーストの映画は世の中に満ち溢れてる。それはでも、ホロコーストという流行語の標識が立った舗装路を進んでゆく旅のロードムービーにすぎない。
この映画はそれをファースト・コンタクトから問い直している。解放のパリからドイツへ800kmの道を走破し、おそらくは移送の途中で放置された積み重なる死体を取材したあと、その匂いを纏ったまま、ヒトラーの自殺した日、彼の豪邸の風呂でセルフポートレートを撮った。
その写真を「何か意味あるか?」とかいうやつはこの映画は見なくていい。そういうキービジュアルだと思う。写真を撮る最初の衝動がそこに写っている。
ケイト・ウィンスレットの演じているそのシーンも、彼女のその写真が絵コンテになっている。この写真に辿り着くまでに何があったか?。この映画は実はそういう映画だといえる。
ケイト・ウィンスレットはアントニー・ペンローズの指名だそうだ。そのほかにも、マリオン・コティヤール、『燃ゆる女の肖像』のノエミ・メルランなど、印象的なキャストが出演している。
改めて、歴史的偉業だと言っていい彼女の写真が、世間的に埋もれていたというだけでなく、彼女自身が特に発表する素ぶりすら見せなかったについては考えさせられた。
人々が情報を消費していく。そして、勝手に英雄にさせられたり、悪役にさせられたりする人たちがいる。現場の現実を見てさえ、そこに演出を加える人もいる。そして、生の現実よりもそんな演出を好む人もいる。演出がなければ現実を直視できない人もいる。
歴史的偉業という札を立てることを発見と呼ぶだろう。しかし、おそらく、リー・ミラーをとらえた衝動はそれではなかった。偉業の方を見て、生の現実を見ない人は、ヒトラーのバスタブに浸かるリー・ミラーのセルフポートレートに意味を見ないだろうと思う。意味なんてないからね。
意味なんてないが、つけようと思えばいくらでもつけられる。そういう意味しか見ない人は一生、現実を見ないのだと思う。意味が守ってくれる。むしろそういう人を守るために意味はある。
改めて、リー・ミラーの写真を忠実に絵コンテにしていることがこの映画作家の気概なのだ。当時、どこにも掲載されなかった彼女の写真を映画にすること。それ以上に心揺さぶることがあるだろうか。



