清純派という性差別

 フェミニストもどんどん嫌いになる一方だけれども、それ以上に暗然とせざるえないのは、フェミニストとすらいえない、この手のただのヒステリー。
 「女性が清純でなければならない」は、それ自体が性差別どころか古典的な女性差別だ。これについては過去に

を参照に書いたが、フェミニストにこの手の妄執的な女性差別主義者が混然となるについては、フェミニズムの発生そのものにやっぱり性差別のDNAが含まれていたからだと思う。
 繰り返しになるが、歴史的な経緯を言うと、「純潔」と言う価値観はどこから来たか、どうして発生したかといえば、財産をわが子に残したい階級が、子孫が確実にわが子であると知りうる方法が、その子の母親が確実に自分以外とやってないことしかなかったという、DNA鑑定時代以前の長い時代背景からであった。
 「女は産む機械」と発言して職を失った大臣がいたが、「清純」とか「純潔」とかを是とする価値観は「女は産む機械」という価値観と同じなのだ。「産む機械」だから「清純」でなければならないってだけ。
 ところが、この「産む機械」の価値観も長く続いていると、それ自体が所与の議論の余地のない美徳のように勘違いするバカが現れる。
 処女好きのキリスト教が権威となり、結婚が教会のもとで制度化され、結果として「清純」が社会規範となり、性的な抑圧になった。
 しかし、その性的な抑圧は女性に重く、男性に軽くなる。女性の「清純」には実効性があるのに対して、男性の方はおつきあいにすぎないから。

によると、その結果、19世紀のヨーロッパでは、男性に比べて女性の方が道徳的に優位にあると信じられていた。
 19世紀のキリスト教婦人団体によって始められた女性の地位向上運動は、このような倒錯のもとに発生した運動だった。
 実のところ、この運動の流れがフェミニストに混じっていることがある。というか、ほぼ全員これである。
 不倫報道程度のことでタレントを叩いてるのは例外なくこれだ。不倫は、大人の男女が双方の合意のもとでセックスしただけのことだ。法的には、信号無視して道を横切ったより罪は軽い。
 清純とか純潔とか気色の悪い性差別を振り回してなぜ批判されないのか、簡単にいうと事実においてバカだからだろう。

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