藤田嗣治×国吉康雄 at 兵庫県立美術館

 「二人のパラレル・キャリア-百年目の再会」2025年8月17日まで。
 藤田嗣治国吉康雄の交流はどう考えても不幸なものだ。
 藤田嗣治は日本でも絵を学んだあとパリに渡ったが、国吉康雄は肉体労働者としてアメリカに移住した。21歳のとき通っていたアメリカの公立学校の教師に勧められて絵の道に進んだ。国吉康雄が日本人と言えるのは、結局亡くなるまでアメリカの国籍が取れなかったというだけで、日系アメリカ人一世というのがいちばん正しい。実際、日本語より英語の方が読み書きが自由だったそうだ。
 藤田嗣治の物語がわたしたちに分かりにくい部分は、明治生まれの日本人が、一方でパリの大スターだった点。そんな人は他にいないので、当然、わかりにくい。高田賢三がパリでスターだった、は、まだ想像できる。藤田嗣治芥川龍之介より年上なわけで、そういう人がパリでスターだったと言われてもなかなかイメージがわかない。
 というか、今のわたしたちよりむしろ同時代の日本人にはさらに想像のおよばない世界だったろうと思われる。当時の日本画壇や日本人の的外れな批判は「やっかみ」と言うさえかわいそうなのかもしれない。
 また一方では藤田嗣治の方からはそういう大衆のやっかみが理解できない。気宇壮大、意気軒高な明治人としてパリに渡ったのに、帰ってきたら小役人の牛耳る昭和になっていた。この時代の落差については考えさせられる。リアルな『猿の惑星』の世界。
 ずっと後年、国吉康雄が亡くなった後、藤田は国吉のことを「とても心の狭い人・・・哀れな人」と回想した。国吉康雄藤田嗣治に勝るとも劣らない画家であることに何の異論ももないが、この藤田の回想は、たぶん藤田だからこそ言える、藤田にしか言えない批判だと思う。ほぼ完全なコスモポリタンである藤田にくらべると、国吉康雄には日系米人としてのアイデンティティを超えられなかった印象がある。
 ちなみに、この展覧会でも紹介されているが、国吉も藤田もお互いにお互いを語るときに、個人的には何らのわだかまりもないと公言している。そこに嘘はないと思う。藤田嗣治の渡米に協力したフランク・シャーマンが、藤田夫妻がフランスに渡った1950年の10月に国吉康雄を訪ねた。
 日本では二人はけんかしていると言われているが本当なのかと尋ねると、国吉は「事実ではない」と答えたが、つづけて
「でも自分がパリにいたとき、藤田は自分を受け入れなかった。彼は自分のスケッチを見ようともしなかった。それでとても腹が立った。しかし、彼の敵だとは言われたくない。」
と言ったそうだ。
 近藤史人著『藤田嗣治「異邦人」の生涯』を読むと、パリの藤田嗣治を訪ねる日本人画家はかなりの数に上っていた。パリは当時世界の頂点で、藤田はパリの大スターだったわけで。そのことは国吉自身も重々承知していたろうし、個人的に害意はないという言に嘘はないと思う。しかし、もちろん恩義も感じないだろう。藤田も国吉も後輩の面倒見の良い人物像が伝わっている。なので、不幸としかいいようがない。
 ただ、藤田嗣治が天然だったのは間違いなさそうに思える。第一次大戦がはじまっても帰国しなかったのも性格かも。フランス国籍ではないので従軍こそしなかったものの、銃後でボランティア活動をしていた。第二次世界大戦戦争画を描いたのも、それと同じ感覚だったと推測する。仲間内からは名前をもじって「foufou(お調子者)」と呼ばれていた。柔道を橋の上で披露して橋の欄干から落ちかけた(落ちた?)とか。彼は「藤田」を「FOUJITA」と表記するが、そう表記するから「foufou」と呼ばれたのか、「foufou」と呼ばれていたからそう表記するようになったのかどっちなんだろう。
 私の記憶では、メキシコの日本画北川民次も何かで激怒させていた。だが、それもこれも、パリの大スターというバイアスがなければ起こらなかった行き違いな気がする。今回の展覧会で資料として貴重だったのは、展覧会の準備期間中に発見された、昭和五年のニューヨーク日本人美術協会主催の「藤田嗣治画伯歓迎会席上寄せ書き」。色紙に近藤赤彦、国吉康雄藤田嗣治の三人が寄せ書きをしている。
 右下に近藤赤彦の牛が寝ている。中央に国吉康雄の牛が糞をしている。左上に藤田嗣治牛めしの暖簾を描いている。宴の余興にすぎないとはいえちょっとした緊張感が伝わる。けれども、一方ではたしかにしゃれている。ちなみに、牛は、ゴーギャンにとっての犬のように、国吉康雄が自己を投影するモチーフだったそうだ。
 しかし、そんなことより、わたしが一番驚いたのは、国吉康雄はこのパリ時代にはじめて実際のモデルを使って絵を描くことを覚えた。確かに、初期のころの国吉康雄の絵はフォークロア的なプリミティヴな絵なので、モデルは必要なかっただろう。画家の中にあるイメージを表出した絵だったと思う。とはいえ、モデルを立てて絵を描いたことが一度もなかったのか?。
 それを国吉康雄に勧めたのはジュール・パスキンだそうだ。あの「真珠母色」のパスキン。パスキンの真珠母色だけは、今の技術では印刷で再現はできないと思う。それはともかく、パスキンと国吉康雄はニューヨークですでに知り合っていたので、渡欧の段階でのこの助言は国吉康雄の現在地をよく示していたと思う。パスキンの真珠母色は藤田嗣治の乳白色に引けを取らない人気だったともいわれる。
 狂乱の時代のパリに国吉康雄が刺激をうけたことは間違いないと思われる。独特の色調はそのままに画風はガラリと変わる。国吉康雄特有のグランジ感のある女たちはこのときに生まれたように見える。

 一方、国吉康雄のわかりにくさは、日系米人に対する理解のなさに起因している気がする。
 私たちは、日系米人を日本人だと思ってしまう。まあ日本人なんだけど、そのせいで、日系米人という視点を見落としがち。国吉康雄の軍部に牛耳られた祖国に対する憤りはすさまじく、国吉康雄が情報局のために描いたポスターの下書きは、かえってアメリカ人から批判を受けてボツになったものもある。
 ただ、国吉康雄は東部にいて知らなかったのかもしれないが、西部の日系移民たちはひどい目に遭っていた。
 私財を没収され強制収容されたことは知られているが、強制収容された日系人たちのなかで、アメリカの戦争に協力するかしないかでふたつに分かれていがみ合うことになる。川手晴雄の

に詳しい。
 NO-NO BOYとは何かというと、太平洋戦争中、強制収容所の日系アメリカ人たちに対して実施されたアンケートの、第27、28問目の問いのどちらともに「NO」と書いた人たちのことだ。これについては前に書いた記事を貼っておくのでそちらを参照されたいが、日系ではあるがアメリカ市民である彼らを強制収容した上に、「てめえら協力するよな?」って訊いてきたから「ざけんなてめ」と言った人たちのことだ。断固戦争協力を拒否した。市民としての権利を奪っておいて、市民としての義務を果たせ、は、受け入れられない、という権利意識は、実のところ、アメリカ市民にあらまほしい態度である。
 ところが一方でこの理不尽な要求を受け入れた人たちがいた。そして、この人たちが実に輝かしい戦果をあげることになるのだが、それはのちのちまで表彰もされず語られることすらなかった。徹頭徹尾ふみにじられている。こちらの人たちはアメリカ市民らしくない、日本人らしい態度だと言える。
 日本人らしい人たちがアメリカ軍のために戦い、アメリカ人らしい人たちが収容所で天皇陛下万歳を叫ぶという悲惨なパラドクス。収容所内でうまれたこの対立は戦後も長いあいだ日系人社会を分断し続けたそうだ。今では、日系人社会というほどのものがアメリカにあるのかどうかつまびらかにしない。
 日系アメリカ人はこのとき、二つの祖国に裏切られていた。もちろん、国吉康雄もそのひとりだった。藤田嗣治国吉康雄を評した「とても心の狭い人・・・哀れな人」は、ぐっと深いところでは、正鵠を射ていたかもしれない。
 藤田嗣治国吉康雄も一握りどころかひとつまみの成功者と言っていいと思うが、どこか寂しげな影を感じさせる。どちらも帰属していたはずの社会を喪失してしまったからだと思う。

www.artm.pref.hyogo.jp

↓こちらは展覧会期間中、公開しているそうです。

images.dnpartcom.jp

国吉康雄≪ミスターエース≫
国吉康雄≪ミスターエース≫

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 ちなみに、兵庫県立美術館では常設展に中山岩太のミニ回顧展がやっている。中山岩太の撮った藤田嗣治本人の写真とともに、藤田嗣治の元・夫人ユキの写真があった。そして、おそらく国吉康雄自身がとったと思われる、こちらも元・夫人のサラの写真もあった。
 このふたりが「えっ!」っていうくらいキレイ。「じゃあもういいじゃん」って言いたくなる。

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