『遠い山なみの光』ネタバレ 再考 "a pale view of hills" on the second thought

 映画『遠い山なみの光』については、原作者のカズオ・イシグロがエグゼクティブ・プロデューサーってこともあり、終盤のねたばらしにはちょっとショックを受けた。ということは、鑑賞直後のネタバレに書いた。ので、詳細についてはその記事にあたってほしい。
 が、概要をさらっておく。カズオ・イシグロの長編デビュー作『遠い山なみの光』はすばらしい小説で、多くの読者に愛されている。主人公で語り手の悦子は、長女の景子を自殺で失ったばかり。次女のニキが心配して、ロンドンから悦子の住む田舎に来てくれている、そのわずかなあいだに、悦子はニキに、景子の父とかつて暮らした長崎で、景子がまだおなかの中にいるころに知り合った、佐知子と万里子という母娘の話をして聞かせる。
 小説のあらすじといえば、実はこれだけ。だが、この佐知子と万里子の母娘のイメージが鮮烈。で、映画もさすがにここは小説に忠実に、あるいは、二階堂ふみの存在感で、忠実以上に映像化している。
 このあまりにも鮮烈な佐知子の印象にまどわされて、読者(観客)は、悦子が景子について一言も何も語っていないことを忘れてしまう。語られているのは、景子が生まれる前の長崎と、この世を去った後のイギリス。
 読者(観客)は、悦子が景子について何も語らないのを不思議にさえ思わない。自殺したばかりの長女について、妹とはいえ父親の違うニキに語らないのはむしろ自然に思える。
 しかし、小説の方はとても巧妙に読者にわなを仕掛けている。ロンドンに帰るニキに手渡した長崎の写真について、長崎の港の風景で、一度そこを訪ねたことがあると言いながら、悦子は
「・・・あの時は景子も幸せだったのよ。みんなでケーブルカーに乗ったの」
とニキに語る。
(?)もし、そこに行ったのが一度だけだったのなら、景子はまだ悦子のおなかの中にいたはず。どういうこと?。
 と、まぁ、この部分が少し有名になりすぎているのかもしれない。今回、小説を読み返してみて、この少し前に、ロンドンに帰ろうとするニキが、閉まりにくいトランクの蓋に四苦八苦する場面と、アメリカに渡ろうとする佐知子が荷造りするシーンが対比されているのに気が付いた。
 有名になりすぎた「あの時は景子も」のセリフのために、読者は、佐知子が悦子なのではないか、という謎にしがみついて、作者がちりばめたほかの謎に全く気が付いていないのに、原作者カズオ・イシグロはちょっとイラついてるのかもしれない。
 読者としての私は、その謎には食いつかなかった。どこまでも「a pale view」ではないか。そんなあざとい仄めかしで、しめしめと思うタイプの作家だとは思わない。
 前のレビューにも書いたが、「悦子=佐知子」とすると様々な点でつじつまが合わない。だけでなく、それよりも重要なのは、緒方誠二、二郎父子と悦子の関係があいまいになる。緒方誠二には、『日の名残り』の主人公の原型が感じられる。緒方誠二は社会に取り残された人、佐知子は社会を出ていく人の違いはあるが、時代の価値観に異分子とされる人として共通している。
 1950年代の長崎では、緒方誠二は悦子の過去であり、佐知子は悦子の未来であるともいえる。この三角形の囲む空間に流れている空気が、この小説の空気だと言える。「悦子=佐知子」としてしまうと、この空気が消えてしまう。
 「あの時は景子も」の悦子のセリフは、彼女が景子を万里子になぞらえてしまっている、その証拠にはなるだろうと思う。しかし、それだけにしかならない。景子が自殺した直後のこの時期、悦子はまだ景子について何も語れない。だからこそ、ほんの数週間すれちがっただけの佐知子と万里子の母娘のことが思い出されてきたと考える方が、はるかにまっとうだと思う。
 で、読者としてのこの感想をもって映画に臨んだがために、悦子を演じた広瀬すずが佐知子に入れ替わる終盤のカットには心底驚いた。それはやっちゃいけなかったはずなのだ。しかも、エグゼクティブ・プロデューサーがカズオ・イシグロであるかぎり、これを受け入れざるえない。このパニックにはかなり動揺した。
 で、ここからが再考になる。その後、思いを巡らせるうちに見落としていたことに気が付いた。小説は悦子の一人称で書かれているが、映画はニキの視点で描かれている。カズオ・イシグロ自身も、悦子よりはニキに近い世代のはずなのだ。
 映画には「あの時は景子も」のセリフはない。映画の悦子は、景子が万里子だと仄めかす発言は一切していない。ニキの脳裏にそのイメージがよぎっただけなのだ。1950年代の景子について、また、悦子について、ましてや、佐知子や万里子について、ニキが何かを知りえるはずはない。ニキには悦子が佐知子だと断定できるどんな根拠もない。
 映画だけの設定として、ニキは不倫の子を宿している。小説の方も読み返すとデヴィッドという「友だち」についての言及があった。長崎時代の悦子が佐知子を訪ねてくる米兵を「友だち」と呼んでいたのだから、もし、注意深く読んでいれば、小説のニキもただならぬ状況であると気づけたのかもしれない。
 悦子と景子、佐知子と万里子という母娘だけでなく、映画にはニキとまだ見ぬ子の母子がもう一層加えられている。映画のラストは歩いていくニキではなかったろうか。ニキはあの子を堕ろすのかもしれない、堕ろさないのかもしれない。いずれにせよ、ニキが悦子を佐知子だとするイメージにとらわれてしまうその背景には、自分自身もまた罪深い母になりうる罪悪感が自分自身の母(悦子)のイメージに仮託されてしまうからだといえるだろう。
 映画では悦子の前夫の二郎が戦争で傷を負ったことになっている。これも小説には描かれていないが、考え直してみると、日本人なら誰でも、二郎がいるのに一郎がいないことに違和感を抱くはずなのだ。小説の緒方誠二も戦争で息子を失っていると考える方が正しいのかもしれない。
 小説の美しい余白に満ちた構造を壊してまでも、『遠い山なみの光』を、悦子の世代ではなく、ニキの、ということはつまり、カズオ・イシグロ自身の世代を巻き込んだ物語に広げようとしたことが、映画『遠い山なみの光』でカズオ・イシグロがやりたかったことなのかもしれない。

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