奥山由之って人は兄弟ふたりの中でも、お父さんのプロデュース感覚を強く受けついでいるのかもしれない。
『アット・ザ・ベンチ』も、わたくし勘違いしていたけど、脚本家は各パートごとに違うものの、演出は奥山由之ひとりだったのね。蓮見翔のパートがまるでダウ9000だったので、てっきり演出も各パートで別れてるのかと思っていた。
はじめて映画を監督しますってときに、知り合いの脚本家3人に声かけてばらばらに書いてもらったりする?。感覚がプロデューサーだと思う。
それが、監督2作目に新海誠の若いころのアニメの実写化みたいな選択になるんだろう。下のYouTubeのどれかで、新海誠がしきりに「大した原作じゃない」と発言して、他の二人を戸惑わせている。新海誠にとってみればまだ若書きだとの思いはあるのだろう。
この作品については、今までも何度も実写化の話が合ったそうだが、その都度ことわってきていたという。それを今回のオファーについては受け入れたのは、やはり、いちばんは脚本がよかったからだろうが、YouTubeでも言っているが、自分が若いころに抱えていた気持ちを、当時の自分と同じような年齢のクリエーターが、この作品を通じて表現しようという、そのとっかかりになるならそれはそれでいいかもとおもったそうだ。正確な表現は下の動画のどこかを参照されたい。
そういう映画の成立事情は『遠い山なみの光』と似ている。『遠い山なみの光』はエグゼクティブ・プロデューサーがカズオ・イシグロ自身だが、脚本は石川慶なんだし、なにより似てるなと思ったのは、作品のコアとなるシーンはほとんど原作のまま、かたや小説を、かたやアニメを、忠実に実写に移すことを心掛けている。
しかし、もちろん、大幅に改変して解像度を上げている部分もある。このコントラストが観ていてここちよい。原作をちゃんと咀嚼している。YouTubeでは、ジュースをもう一度くだものに戻してまたジュースにするようなと言っているが、観客としてはそうあってほしい。ジュースを水で薄めただけって実写化はいくらでもある。
実写では30歳を迎える遠野貴樹(松村北斗)に軸足が置かれている。この解像度の上げ方というか、解釈の深さが新海誠に実写化を許可させたところだろうと思った。
プロットもほんとにジュースを果物に戻してからまたジュースにしているくらい、いちから組みなおしている。にもかかわらず、原作の重要なシーンはリスペクトをもって再現されているのがこころにくい。わたしは、実写を観た後にアニメを観たので、まず、うまいなぁと思った。
だけど、であるがゆえに、これは難じていいのかどうか迷うのだが、解釈が目につきすぎるところもあった。それが「ジュース→果物→ジュース」の限界ではあるとおもう。
それがポジティブに働いているところは、アニメ版ではほとんど触れられていない、30代の貴樹の彼女・水野理紗(木竜麻生)のキャラクターが深堀りされていた。あの大人の恋愛がちゃんとリアルに描かれているってことが、この実写化の最大の意味であるともいえる。
というか、逆に言うと、おとなの貴樹の今の彼女がリアルに描かれていないことがアニメ版の一番弱いところだと気づかされる。この部分が新海誠がこの作品を奥山由之に託した理由のひとつだと思わせる。
もう1点は森七菜が演じた高校生の澄田花苗のみずみずしさ。下のYouTubeで奥山が語っている、アニメを実写化するなら絵には描けない表情やしぐさのわずかな揺れや癖を写しこまなければ意味がないという言葉は、まさにこの森七菜のためにある。高校時代の貴樹を敢えて松村北斗ではなく、『まなみ100%』の青木柚だったのもよかった。小学生、高校生、社会人でそれぞれ別パートって意識が強いのかとも思う。
アニメ版との違いは上げていくときりがないが、それぞれに解像度が上がっている。後出しじゃんけんなわけだから、当たり前のようだけれども、ご存じのとおり、実際にはそうじゃない場合が多いわけだから、これはやっぱりえらい。たとえば、高校生の貴樹がガラケーに書いているのは、アニメ版ではそれは、出せなかったメールだけれども、実写版では、もうすこし創作に近いものになっている。出せずに終わるメールだとちょっと恋愛ドラマにまぎれやすい。その種明かしがアニメではモノローグだったのを、実写では輿水美鳥(宮崎あおい)とのダイアローグで語らせるのもうまい。あれをモノローグでやったら押井守になっちゃう。
アニメ版と実写版のいちばんの違いは、遠野貴樹と篠原明里がかりそめにも再開の約束を交わしているところだ。誓いと言った重いものではなく、あくまで戯れの言葉にはすぎないが、守らなかったとしても決して責められないそういう約束だからこそ胸に残る、そういう約束を守って再会を果たすか果たさないかというサスペンスが縦軸として観客を引っ張る、こういう構造は原作アニメにはなかった。
それがすごくうまいのだけれど、それがひとつの落とし穴というか、最後にそこがすこし説明的になりすぎた。と、私は感じたけどどうだろうか。
いくら、小川龍一(吉岡秀隆)の人柄がよいとはいえ、初対面の見知らぬ人との間にあんな会話がありうるだろうか。篠原明里(高畑充希)のその選択は正しいと思う。が、それをあんな風には話さないと思った。あそこは沈黙で観客に投げかけてもよかったと思う。あるいは、あそここそ、言葉ではなく映像で語るべきところだったかなぁと。
原作アニメは確かに若書きで舌足らずなところがあり、抒情に走っている感はある。その解像度を上げた実写版のシナリオの出来もいいと思う。が、この作品の核となっているのは、やはり、中学生の貴樹(上田悠斗)と明里(白山乃愛)の雪のシーンと、種子島のロケット打ち上げのシーンだろう。
ゼロイチの創造主としての新海誠の力強さがあってこそのこの映画であることは間違いない。なので、何が言いたのかというと、奥山由之ってひとの映画作りのユニークさ。1作目が脚本だけオムニバス、2作目が名作アニメの実写化。映画を作るに際して何とも不思議なアプローチ。見方によっては、ちょっと斜にかまえてる。
弟の奥山大史の『僕はイエス様が嫌い』、『ぼくのお日さま』の完全オリジナルに比べると何とも不思議。どちらもアンティミズムな感じは似ているが、兄の方が批評的な資質が強いってことなのかなぁ。
蛇足に余談をつけくわえると、貴樹と明里の、転勤族のこどもの人間性がすごくよく出ていた。根無し草であることの孤独がアラサーのころに蝕んでくることは体験として知っている。意外にそういう孤独を描いた作品にあまり出会ってこなかったなぁと思った。



