愛してるって、どう言うの?

knockeye2004-08-03

先日、「高遠菜穂子さんは、『華の乱』そのものだ」と書いたけれど、その直感に間違いはなかったようだ。今日、著書『愛してるって、どう言うの?』
愛してるって、どう言うの?―生きる意味を探す旅の途中で
を読了した。『華の乱』は歴史だが、こちらは、歴史が生まれる現場の生々しさがある。

最初は、方向が定まらない感じだが、読み進むうちに核心に収斂していく。「俺はいったい何してるんだろう?」と反省させられるくらいだ。最初から最後まで、言葉が曖昧なのもいい。自分でも「感情が激しい」と言っている通り、言葉にウソがないのだ。答えがすぐに言葉になるようなのはウソが多い。無宗教な日本人は、伝統に頼れないのが弱みでもあり、強みでもあるが、この著書では、良い方向に働いていると思う。


また、例の人質事件との絡みで読めば、(おそらく読んでいるうちに忘れてしまうが)一人の女性が草の根で始めたボランティアが、後半の方で、だんだんと、国際政治のひずみと抵触していく気配がある。あの事件を知っている今の時点では、それは、ひたひたとした予感のように感じられる。この本は、2000年から2002年までの彼女の記録だが、テレビや新聞を通してみた2年間と、ボランティアとして現地で働いている、彼女の目を通した2年間とでは、全く違って見える。これは、新鮮な驚きだ。


ちなみに、アマゾンのレビューの中から、単なる罵詈雑言以外の批判を拾っておくと

私もNGO活動を行っていますが、こんな綺麗事ばかりではありません。もっと、どろどろしています。まずはお金の問題。これで、仲間内でケンカし、出て行った人もおられます。さらに、老人やアルコール中毒の中年男性の介護。高遠さんの本には老人や中年男性への支援の話、写真がまったくでてきませんが、体力や経済力のないそのような人にこそ支援の手をさしのべるべきではないでしょうか。とにかく、この手記はまるで、乙女の夢のファンタジーのようで現場の汚さ、グチャグチャした部分、仲間どうしの軋轢などがまったく書かれていないのが不満です。この本を読んで、「ああ、NGO活動って、カッコよくてオシャレ。私もやろうっと!」なんていう、軽い若者が我々の活動の妨害になるのが怖いのです。この本だけを読んでNGOのすべてだと思わないでください。もっと、実のある本もたくさん読んでから、NGOに参加してください。おねがいします。


このレビューの主旨は「この本は奇麗事だ。なんでもっとどろどろした部分を書かないんだ!」ということだろう。まるで、大正時代の自然主義文学者が、他派に向けた攻撃みたいだ。そういうことを書きたければ、自分で書けばいい。

この本の著者はボランティアの本質を知らない人だと思う。 本屋で立ち読みしたけど、全く買う気にならない。 本来のボランティアとは無償でプロのサポート能力を提供する 人たちだと私は考える。 一番わかりやすいのは、例えば「国境無き医師団」のプロの 活動だと私は思う。 本書はボランティアのあり方を示唆する反面教師的な著書と 言う意味では良書かも知れない。


このレビュアーは、そもそも読んでいない。立ち読みしただけでレビューをかかれても困る。主旨は、「本当のボランティアはプロの技術を無償で提供することだ!」ということだ。全くごもっともだが、『HOW toボランティア』とか言う本を読んでのレビューなら、これでいいだろうが、この本の主旨と全く関係ない。とにかく、読んでからレビューを書いて欲しい。

この人は、ボランティアをしている人間が必ず味わう自己矛盾とか、悲しさを感じたことはないんだろうな、と感じた。本気でボランティアをしたことのある人間なら、わかることなんだけどね。 たぶん、この人は理解していないんだろうな、と思う。子どもへの支援て、楽でいい。相手は純粋だし、困窮しているし、愛を必要としている。そこで母親気取りするのを否定はしないし、悪くないと思う。でも、この人に限って、コンビニのレジ脇のユニセフ募金、したことないだろうな。新宿のホームレスを抱擁できないだろうな。 自己満足は悪くない。でも、ひっそりとやっていて欲しい。他の2人の中途半端な活動家も同じ。 今回襲撃で亡くなられたジャーナリストとは話が違うよ。

このレビューも、ホントに読んだのかどうか疑問が残る。「こどもへの支援て、楽でいい」、かなりの暴言だと思うが、「新宿のホームレスを抱擁できないだろうな」私としても、ごめんこうむりたいが、高遠さんは、エイズホスピスで、体中がただれた瀕死の患者をマッサージし続けている。


つまり、上のひとつは単なる八つ当たりで、下のふたつは、そもそも読んでいない。実は、ボランティアのプロフェッショナリズムとアマチャリズムは、今度の事件のテーマのひとつだと思うので、それについてちょっと考えてみたいなと思っていたが、こんな子供じみた感情論では、契機として不十分のようだ。もう少し機会を待ちたい。


批判のまた別の流派。

ボランティアとは自立していて初めて成り立つもの。 「自分探し」をしながらのボランティアなど、相手からしたら迷惑千万ではないでしょうか。 世界に出てる割には周りが見えていない気がしてなりません。 ご自分の活動と世間の認識、現実とのズレをもう少し冷静に見直した方がいいのではないでしょうか?


「『自分探し』をしながらのボランティアなど、相手からしたら迷惑千万ではないでしょうか。」・・・?
この箇所を読み返せば読み返すほど、不思議になってくる。「『自分探し』をしながらのボランティア」が、なぜ「相手からしたら迷惑千万」なのだろうか?考えていくと、背中がむずがゆくなってくる。この底辺に流れる思想は「先様のご迷惑」という我が国伝来の思想だろう。推測だが、おそらくこの人は「自分探し」と言うことを理解していない。続く文章に「周り」「世間」「現実」という単語が続く。
「ご自分の活動と世間の認識、現実とのズレをもう少し冷静に見直した方がいいのではないでしょうか?」
それを認識したからこその「自分探し」じゃないか。


テレビでは、八月になると、毎年のように第二次大戦関連の特番が組まれる。昨日も、そんな番組のひとつが放映されていた。泰緬鉄道建設にイギリスの捕虜を虐待した将校たちが出ていた。「だってしょうがないジャン。命令されたんだからさ。」的な。元イギリス人捕虜のインタビューが印象的だった。「もし、現在再び日本が軍隊を持ったとしたら、やはり、同じ事を繰り返すだろう。彼らの精神性が変わったとは思えない。」
私は『華の乱』と同時に、高遠さんの本を読んだ。大戦前夜の女性活動家、青鞜社の女性たちに向けられた感情的な誹謗中傷を思うと、この元捕虜の言葉はイギリス人らしいユーモアに満ちて聞こえる。