枯葉が風に舞う

 ようやく冬らしくなってきた。今年は梅雨が寒く、夏がクソ暑く、冬がなかなか来ない、変な年だった。
 ところで、この動画みたく「枯葉が風に舞う」という、ちっさなつむじ風だけど、案外、東京でしか見たことない気がする。調べたわけではないので、確信はないが、都会的な光景なんじゃないだろうか。ちなみにBunkamuraミュージアムの入り口です。

トライアローグ 横浜美術館

 横浜美術館でトライアローグ展と題して、富山県美術館、愛知県美術館と三館の所蔵品を持ち合った展覧会が開催されている。
 昨日のBunkamuraミュージアムの「ベルナール・ビュフェ展」も、いわばベルナール・ビュフェ美術館の所蔵品をまるごと借りた展覧会だったわけで、折から、困った時はお互い様,みたいな雰囲気なのかもしれない。
 とはいえ、禍福は糾える縄の如しで、かえって良い機会なのかも分からない。こないだ国立西洋美術館でをロンドンナショナルギャラリー展を観たのだけれども、国立西洋美術館のコレクションも負けてないなと思った。
 その感じ方は変と言えば変なんだけど、もちろん、ロンドンナショナルギャラリーのコレクションは素晴らしいに決まっているのだけれども、公的な美術館のコレクション展となると、やはり、フックがないというか、お目当ての一枚がないと、引っ掛かりがなく通り過ぎてしまう。
 見応えのある順番で言うと、まず、一人の画家の回顧展、昨日のベルナール・ビュフェもそうだが、最近では、ピーター・ドイグとか、西村有、とか。次が、スクールごとの展示、ナビ派、もの派、エコール・ド・パリ、アシュカン・スクール、とか。その次が、個人コレクション、フィリップス・コレクション、クラーク・コレクション、高橋龍太郎コレクション、高橋誠一郎コレクション、John and Kimiko Powers コレクション、とか。これは、コレクターのマニアぶりが面白い。
 次に、私立美術館。これは、個人コレクションと重なるところもあるが、違いは伝統で古くから代々受け継がれているものがある。三井記念美術館の応挙の《雪松図》、根津美術館光琳の《燕子花図》などである。
 その次にようやく公的美術館ということになる。ただ、公的美術館でもコレクションにユニークなものがある美術館もある。町田国際版画美術館はわかりやすい例だけれども、滋賀県立美術館の小倉遊亀のコレクションとか、府中市美術館の牛島憲之とか。
 横浜美術館も、横浜という土地柄もあってか、ユニークなコレクションを抱えている。常設展の撮影ができるのもうれしい。この展覧会のあとは、改修工事で2年を超える休館だそうだ。名残惜しい。

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岡田謙三《黒と象牙色》1955

 イサム・ノグチとの2人展があった岡田謙三。抽象画だけれども、和のテイストがユニーク。

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斎藤義重《内部》1981

 横浜美術館にはもの派の菅木志雄の所蔵品もあって、展示室を飛び出して続く木の枠には驚かされた。

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江見絹子《三立婦》1953

 

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江見絹子《三立婦》部分

ベルナール・ビュフェ回顧展

 Bunkamuraミュージアムで、ベルナール・ビュフェ回顧展が始まった。
 ベルナール・ビュフェ美術館はフランスではなく日本にある。熱烈な個人コレクターの存在が大きいが、池田満寿夫も著書の中で、戦後の一時期、ピカソよりもビュフェに魅せられていた時期があったと書いていた。
 ベルナール・ビュフェは、もちろん本国フランスにおいても高く評価されている画家であるが、同時に、日本での人気も有名なのかもしれない。以前の展覧会では、彼を追いかけていたカメラマンの、ビュフェが日本で人気があるのは、日本のグラフィズム(書道)と関係があるのではないかとの意見が紹介されていて、つまり、ビュフェを間近に知る人でさえ、日本での人気に何か特別な要因を考えたくなるってことなんだろうと思ったものだった。
 たぶん、フランスには偉大な画家が多すぎるせいもあるだろう。ゴッホフェルメールが日本で人気があると聞いても、オランダ人は何も不思議に思わないだろう。
 しかし、フランス人は「ん?、なぜビュフェなの?」と思うのだろう。「ルノワールは?、セザンヌは?、マチスは?、ボナールは?」と。
 ビュフェの絵は10代の頃にもう売れていた。その頃から評価されていたってことでもあるし、その頃から売らなければならなかったってことでもある。早くに母親を亡くしている。展覧会の冒頭に父子の絵がある。まだ習作と言うべき絵だろう。しかし、父は彼にほとんど構わなかったようである。この父性の喪失が彼の日本での人気に関係していると私ならいうかもしれない。

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ベルナール・ビュフェ《キリストの十字架降下》1948年、油彩・カンヴァス ベルナール・ビュフェ美術館所蔵 

 ベルナール,ビュフェはこの絵を20歳で描いた。こういう人を天才と呼ばないと、この言葉の使い途がなくなるだろう。

 私は個人的な絵画体験から、この人の絵にヴラマンクフォーヴィズムユトリロの孤独を観ていた。しかし、彼自身は、シャイム・スーチンの影響を認めていたそうだ。
 シャイム・スーチンの《心を病む女》は、国立西洋美術館が所蔵している。常設展によく展示されている。

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シャイム・スーティン 《心を病む女》 収蔵作品 国立西洋美術館

 ビュフェの「狂女」のシリーズは、たしかにここに源流を求められる。

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《Carcass of Beef 》シャイム・スーティン 1925

 こうした肉のモチーフを始め、多くのモチーフをスーティンと共有していることに気がついた。
 ビュフェが共感していたスーティンの不安が、今回はじめて見えた。

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《ニューヨーク》ベルナール・ビュフェ 1958

 ベルナール・ビュフェが摩天楼を描いたこの一連のシリーズは、今回も輝いて見えた。これはビュフェの《松林図屏風》だと思う。ビュフェの不安がこの縦横の線に吸い込まれていくように思う。

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《二輪の百合》ベルナール・ビュフェ 1955
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《皿洗い》ベルナール・ビュフェ 1970

 ベルナール・ビュフェ美術館を訪れた時、ベルナール・ビュフェは、自身のキュレーションによる展覧会を提案した。
 それを再現した展覧会を観たことがあった。あれは、コレクターにとって最高の展覧会だったろうと思う。

www.bunkamura.co.jp

www.clematis-no-oka.co.jp

『本居宣長』

本居宣長(上) (新潮文庫)

本居宣長(上) (新潮文庫)

本居宣長(下) (新潮文庫)

本居宣長(下) (新潮文庫)

上田秋成の文学 (放送大学教材)

上田秋成の文学 (放送大学教材)

 今更ながら、小林秀雄の『本居宣長』を読んだ。小林秀雄の最晩年の大著であるこの本は、しかし、今さら読む方がなにかしらひしひし感じるものがある。
 小林秀雄の本は人並みにそこそこは読んだ。しかし、前にも書いたかもしれないけど、『ドストエフスキーの・・・』あたりで冷めてしまった。「あれ?、俺いま何読まされてんだろう?」って感じの冷め方だった。
 それに誰かの尻馬に乗って「近代の超克」批判の側についた気になったかもしれない。つまり、戦争について、藤田嗣治のように画家ではないし、伊藤静雄のように詩人ではないし、井伏鱒二のように小説家でもないし、小津安二郎のように映画監督でもない、評論家であるこの人が、そこをどう乗り越えていくのかっていう時、『本居宣長』なの?、と当時は不審に思ったわけだった。
 この本でも扱われているが、上田秋成本居宣長の論争について、どう考えても上田秋成がまともだと思える、それと同じ不信感に近い。

「やまとだましひと云ふことを、とかくにいふよ。どこの国でも、其国のたましひが、国の臭気也。おのれが像の上に、書きしとぞ。敷嶋の やまと心の 道とへば 朝日にてらす やまざくら花、とはいかに。おのが像の上には、尊大のおや玉也。そこで、しき嶋の やまと心の なんのかの うろんな事を 又さくら花、とこたへた」(「胆大小心録」中)

 「しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」だが、こういう歌を自分の肖像画の上に書くについて「臭気なり」と言った上田秋成の感覚の方が信頼できると思ったし、これにかんしては、今でも上田秋成の言う通りだと思う。その「さくら」と「やまとだましひ」のやらかした大虐殺を思うとさすがにいい加減にしてくれと思うし、「どこの国でも、その国の魂が、国の臭気也」と言った上田秋成喝采したくなる。
 小林秀雄

彼は、国学の専門家としてよく知っていた、国文学史のある時期に姿を現した、この古言を取りあげたまでであった

自画像の上に書かれた「やまと心」という言葉が、像を歪める。学者の顔を宣伝家の顔に変える。宣長には思いも及ばぬ事だったと思われる。

と書いているが、古事記源氏物語の言葉に敏感であった本居宣長が「やまと心」という言葉がひきおこす効果についてだけ、それほど鈍感だったとは到底信じられない。
 この論争については、小林秀雄本居宣長を曲庇していると言われても仕方ないだろう。特にいわゆる「日神論争」については、本居宣長の言い草は愚にもつかない。上田秋成は地球儀を示して、この島国の天照大御神が太陽神だからみんな崇めよと言って他の国の人が崇めると思うか?と難じたのだが、これに対して本居宣長は、定家の色紙が10枚ある、そのなかの一枚が本物で、他がニセモノだという場合、どれが本物か分からないからと言って全部疑うか?と、訳の分からないことを言っている。というより、論点をずらしている。
 小林秀雄は触れていないが、本居宣長の著書『馭戒慨言』では、豊臣秀吉朝鮮出兵を称賛している。このように、「漢意(からごころ)」に対する「やまと心」の本居宣長の概念に、排外主義が含まれていたことは重々承知したうえで、それでも改めて評価できる状況にあると思えるのは、今の日本会議とか在特会とかのうんざりする反知性に引き比べると、本居宣長は、圧倒的に知性的であるからだ。
 それは小林秀雄についても言えることだと思う。良くも悪くも今の私たちはこの人たちを相対化してみることができる。「漢意」と「やまと心」の二項対立を、偏狭なナショナリズム(という概念が後世のものなのだから)としてとらえず、日本書紀に対する古事記の、書き言葉としての日本語が成立する、その現場のドラマとして捉え直してみることには価値があると思う。
 私たちの言葉の中に、ふたつの文化が混在している、そのことの私たちの心に及ぼす意味について意識的である人がどれくらいいるだろうか?。
 例えば、今の日本国総理大臣である菅義偉が、官房長官時代に、望月衣塑子記者の質問に公然と嘘をつく。その事実を目の当たりにしながら、なぜ私たちは平気なのか?について、そこに「漢意」と「やまと心」の二項対立があると、私は感じる。
 戦後、手のひらを返すように民主主義を標榜し始める文化人に対して「私はバカだから反省しない」と言った小林秀雄が、本居宣長に取り組んだ執念は伝わってくると思う。
 手のひら返しを繰り返す日本人の源流を辿っていくと、文字を持たない言語体系であったやまと言葉と、漢字という書き言葉のファーストコンタクトに突き当たる、という小林秀雄の直観は鋭い。
 第二次世界大戦を経た後の目から見ると、ナショナリズムとしかとらえられない、本居宣長の「漢意」と「やまと心」の二元主義の本質は、キマイラ的な言葉の二重性潜んでいる欺瞞だったのではないかと思う。

宣長晩年の述作に、「伊勢二宮さき竹の弁」と題する、*伊勢二所大神宮の祭神、特に外宮の祭神についての考証がある。内宮の*天照大御神については、異論のないところであったが、外宮の祭神に関しては、中世の頃から、様々な異説が行われていた。当時になっても、論定まらず、神道家の間では、両宮の尊卑勝劣が争われていた。そういう次第で、外宮の*豊受大神の事は、「古事記伝」で、既にくわしく説いたところにもかかわらず、重ねて、別本で説く事になったのである。

 伊勢神宮に祀られている神様について、内宮の天照大御神はよいとして、外宮に祀られているのが「食」を司る豊受大神であることが気に入らない学者たちに、本居宣長ば我慢ならない。昔から内宮は天照、外宮は豊受と伝えられてきているのに、なぜそれが気に入らないのか、その日本の知識人たちの態度に本居宣長はイラつく。

 そも世中に、宝は数々おほしといへども、一日もなくてかなはぬ、無上至極のたふとき宝は、食物也。其故は、まづ人は、命といふ物有て、万の事はあるなり。儒者仏者など、さま高上なる理窟を説ども、命なくては、仁義も忠孝も、何の修行も学問も、なすことあたはず。いかなるやむごとなき大事も、命あつてこそおこなふべけれ、命なくては、皆いたづらごと也

 命は大事じゃないか、だから、食の神は大事じゃないか、だとすれば、天照と共に豊受が祀られていて何の不都合があるのか?。
 おそらく、私たちの文化が自律的に発展してきた文化であったならば、このような不思議な現象、不思議な知識人が生まれてくる余地はなかったはずとの思いが本居宣長にはあるのだと思う。つまり、本居宣長のいう「漢意」と「やまと心」の対立とはこの対立なのである。
 この対立が、幕末の動乱と明治維新を経て、偏狭なナショナリズムに変貌していったことは、皮肉でありながら必然であったかもしれないという思いが、小林秀雄にあったかどうか、考えてしまう。少なくとも、第二次世界大戦後も、これが全く解決されていない課題であることは強く意識されていたのだと思う。
 本居宣長上田秋成とで争われたもうひとつの論争は、「上代音韻論争」で、本居宣長上代の日本語には「ん」の音がなかったと主張した。これは現在の研究では正しいとされている。ただ、上田秋成が批判したのはその事そのものよりも、本居宣長「ん」のない日本語を「正」、「ん」のある外国語を「不正」としたことだった。これにはもちろん何の根拠もない。
 蛇足にこんなことを書き加えるのは、じゃあ、日本という私たちが暮らしているこの国の名前は何なんだろう?って思ったからなのだ。私たちはいつからか自分たちの国を日本だと思っているわけだが、もともとの日本語には「ん」の音はなかったのである。だとすれば「日本」というこの国の名前自体がウソの名前ということになるだろう。「日本男児」とか「日本会議」とかにまつわる胡散臭さには歴史的な裏付けがあったわけである。

並河靖之の《七宝山水楼閣文香炉》

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並河靖之の《七宝山水楼閣文香炉》

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並河靖之の《七宝山水楼閣文香炉》

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 並河靖之の七宝は、当時パリで飛ぶように売れたそうだ。日本から船荷が着くと、港で待ち構えていたバイヤーが梱包さえ開けず、奪い合うように買って帰ったという。「もったいないほど売れた」と本人が当時を振り返って言っていたそうだ。
 京都には並河靖之七宝記念館がある。地下鉄東山駅のすぐそば。かつての並河靖之邸で、庭は、明治の元勲たちの別荘を手がけたことで名高い「植治」こと七代目・小川治兵衛が手がけたもので「パリ庭」と呼んでいたそうだ。
 並河靖之はジャパンニズム人気が下火になった頃を見計らってあっさり廃業して、娘さんに医者の婿養子を取らせて隠居していた。
 この記念館がオープンしたのは2003年。それまでは、庭も所蔵品もほぼそのまま放置されていたそうだ。その話を聞いた時には、京都の奥深さに目を丸くした。
並河靖之七宝記念館

 この香炉は、大正元年に本人から博物館に寄贈されたものだそうだ。並河靖之の七宝は、この作品も含めてすべて有線七宝である。そのためかえって繊細さが印象的になる。
 同じく七宝で帝室技芸員となった濤川惣助の方は無線七宝で、こちらはほぼ絵である。

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濤川惣助《七宝富嶽図額》

狩野芳崖《山水》

 東博の続き。狩野芳崖の《山水》。

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狩野芳崖《山水》

 狩野芳崖の大回顧展は、京都であったのが大昔で、それから一度も開催されていないと思う。
 狩野芳崖は、岡倉天心フェノロサ、橋本雅邦とともに、明治の日本美術界を支えたひとりで、横山大観、下村観山の師匠でもある。
 もし、狩野芳崖の絵をあまり知らずに「横山大観の師匠」と聞いたら人はどう思うか。私ならそれだけで観る気をなくすだろう。横山大観の今の評判はどんなものか知らないが、個人的にはいいと思ったことがない。私がどう思おうが押しも押されもせぬ横山大観だから平気で悪口を言うということでもある。ちなみに、吉田茂も嫌っていたらしいことは、前にも書いたが、吉田健一との対談での発言で確からしい。
 ただ、狩野芳崖は、横山大観とはまるで違う。江戸時代の狩野派の最後の絵師だと思う。徳川幕府御用絵師の狩野派の絵師たちは、幕末ともなると、画力にかなりのバラツキがあった。幕府の御用絵師と言いつつ大したことない絵師もいたのは確かだったが、狩野芳崖はそういうのとは違った。今では、狩野芳崖といえば「悲母観音」ということになっているが、あれは絶筆でしかも未完であって、狩野芳崖の本来の画力はあんなものではない。若い頃の水墨、特に龍の絵は桃山の画家たちに劣らないと思う。
 狩野芳崖は徳川の御用絵師だったが、同時に長州の人だった。幕末の動乱がちょうど青年期に重なっている。狩野芳崖という名も、狩野の法の外に出る「法外」とかけた名前だそうだ。
 明治維新は、狩野芳崖にとって絵師としての革命でもあったわけで、横山大観などの明治以後の画家たちとは、背負ってる伝統の重みが違う。
 横山大観、下村観山の回顧展は近年開催されたので、狩野芳崖の回顧展もまたそろそろあってもよいのではないかと思うが、多分、所蔵家が個人である場合が多く、そこが大変なんだろうなと推測している。その点、悲母観音は東京芸大が持ってるので、あれが代表作みたいなことになってるが違うと思う。

桃山 天下人の100年 於 東京国立博物館

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桃山 天下人の100年

 「桃山 天下人の100年」てふ展覧会を東京国立博物館で観た。
 コロナ禍でどうにも困るのは、今までならふらっと行けた美術館が時間指定の予約制になったことで、特に上野の場合、国立西洋美術館上野の森美術館東京都美術館東京国立博物館東京芸術大学大学美術館、加えて、国立科学博物館まであり、土曜日は、東京国立博物館国立西洋美術館は、夜の9時まだ開館していたので、上野でほぼ1日過ごせたのに、今は、事実上、ひとつの美術館しか行けないって状況だ。
 しかも、コロナ禍に便乗したのかどうか知らないが、チケット代が跳ね上がっている。この展覧会も2,400円とか。TOHOシネマズで映画を観る値段の1.5倍なのである。ちょっと腑に落ちない感じはある。ちなみに、週末の横浜美術館のトライアローグって展覧会は1,500円だった。
 それはともかく、久しぶりに、桃山時代の屏風絵をたっぷり観られた。気のせいか、最近やたらに浮世絵の展覧会が多かった気がしていた。浮世絵ももちろんよいのだけれども、室町時代水墨画、桃山の屏風絵、琳派、円山派の絵画などももっと評価して欲しいなと思っている。
 長谷川等伯の《松林図屏風》は、押しも押されもせぬ国宝中の国宝だろう。橋本治の『ひらがな日本美術史』の表紙もこの屏風の一部が使われていた。
 この絵を七尾で初めて観た衝撃は憶えている。ただ、その時と同じくらい、今も感動すると言えばそれは嘘になる。絵の価値が減じるわけはないので、自分の老い衰えを確認しているようなものだ。400年も前から人を感動させ続けてきたこの屏風は今後も何百年も誰かを感動させ続けるのだろう。そう考えると、この絵の方が実体で、それを観ているわたしの方は影のようなものだ。
 狩野山楽狩野山雪、海北友松は3人ともにみな、死んだ武将の子だったり、狩野永徳の作品も多くが戦火で失われていたりする。この時代の雄渾さにはそんな裏付けがある気がする。
 時代が降って、徳川幕府の御用絵師となった狩野探幽の絵となると、そういう迫力はない。探幽の《雪中遊禽梅竹図襖》は、木の枝にキジの尻尾だけがあって身体の部分が金箔で塗りつぶされていた。かなり奇怪に見えた。
 探幽の絵は余白の美と呼ばれることがあるが、長谷川等伯の《松林図屏風》の余白は空間が充満している。探幽の余白は、忖度の余白に見えてしまう。
 常設展に

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酒井抱一 《夏秋草図屏風》

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がしれっと置いてあった。
 桃山とは時代がちがうがこちらも、酒井抱一が、尾形光琳の《風神雷神図屏風》の裏に描いた名品中の名品。しかも、常設展は、撮影してよいので、ぜひこちらにも足を伸ばすことをお勧めしたい。