『ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ』オススメ

 「東海岸系」という言葉があるかどうか知らないが、あるとすればそういう。例えば、『マンチェスター・バイ・ザ・シー』とか『グッド・ウィル・ハンティング』とか『ボストン・ストロング』とか。単にボストンつながりなだけな気もするが、ともかくも『マンチェスター・バイ・ザ・シー』が好きだった人はこの映画も気にいるはずだろうと思う。
 主演のポール・ジアマッティは、一度見たら忘れない役者さんだけど、わたしの中では名バイプレーヤーの印象が強く、『ウォルト・ディズニーの約束』の運転手さんとか『パークランド ケネディ暗殺、真実の4日間』の目撃証人とか。でも、アレクサンダー・ペイン監督作品には『サイドウェイ』で主役をつとめたこともあり旧知の仲だったらしい。
 『マンチェスター・バイ・ザ・シー』を思い浮かべたのは、もう一人の主役と言ってもいいアンガスを演じたドミニク・セッサが、あの時のルーカス・ヘッジズを思い出させたからだ。オーディションで選ばれたまったくの新人だそうだ。クリスマス休暇に全寮制高校の寮に取り残される10代の少年のナイーヴな心情を演じられるのは、どんなに演技力があってもそれだけではダメで、役者としても実年齢でも、この新鮮さが求められる、奇跡的な瞬間が必要なのだろうと思う。
 肩を脱臼したアンガスがオピオイドを処方されるシーンも『ベン・イズ・バック』のルーカス・ヘッジズを思い起こさせた。
 ベトナム戦争で息子を亡くしたばかりで自ら寮に残る寮のおばさんメアリーを演じたダヴァイン・ジョイ・ランドルフはこの役で、第96回アカデミー賞助演女優賞を獲ている。
 奇しくもこの映画は70年代を背景にしている。もし現代の若者ならひとり学生寮でクリスマスをすごさなければならなくても、アンガスほどの孤独を感じないだろう。インターネットというオルタナティブな世界が私たちにはあるからだ。このブログを書いているわたしも、読んでいるあなたも、そんなオルタナティブな世界を生きている。
 しかし、インターネット以前の世界はもっと単純だった。そして広かった。その代わり、世界の片隅はもっと狭かった。世界の片隅で生きる人たちが心を通わせるのは大変なことだった。そういう世界で、自分が必要としている人と出会い、自分を必要としている人と出会う、そういう映画でした。

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 この映画は今年観た映画の中で確実にトップクラスの映画だったので、ついでにこの半年のよかった映画を振り返っておく。
『枯れ葉』
『哀れなるものたち』
『ダム・マネー ウォール街を狙え!』
『コット、はじまりの夏』
『夜明けのすべて』
『彼方のうた』
『落下の解剖学』
『Here』
『ボーはおそれている』
デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』前章、後章
『パストライブズ』
『異人たち』
『熱のあとに』
『悪は存在しない』
『関心領域』

 書き忘れてたけど、ドキュメンタリーとリバイバルは除いてです。

『ミッシング』

 吉田恵輔監督作品ではわたしは何と言っても『ヒメアノ〜ル』。ムロツヨシ佐津川愛美濱田岳、の特にムロツヨシが絶品だった。
 だけど、『愛しのアイリーン』、『空白』は、世評の高さに懐疑的。
 『愛しのアイリーン』の木野花安田顕のリミッターがぶっ壊れたようなお芝居は、確かに痛快だとも言えるのだけれど、それをよしとすべきかどうか迷うところもある。
 『空白』の古田新太も全く同じ意味で、あそこまで独善的な父親が果たして現実に存在するか?。もし現実にあんな父親がいたとしても、『寺内貫太郎一家』じゃあるまいし、現代的なキャラクターとも言えないし、新しい存在とも思わない。かと言って、普遍的でもない。
 もちろん、古田新太にしても、木野花にしても、役者さんとしての実力はいうまでもないが、なぜあんなリミッターのぶっ飛んだキャラクターを演じさせる意味があったのか。『寺内貫太郎一家』の主人公のあの性格は、主演の小林亜星が演技の素人だったから、演じやすいようにあの陰影のないキャラクターになった一面もあったと思っていた。
 古田新太木野花のような芸達者になぜあんな単細胞なキャラクターだったのか。あの2人の登場人物がシナリオ上でも、成立した映画の中でも、果たして魅力的だったろうか?。
 こう書いているのは自問自答のようなものだ。安田顕木野花古田新太が熱演している、それを指していい映画と言うべきなのかどうか迷う。『ヒメアノ〜ル』のムロツヨシ佐津川愛美のキャラクターには新しさとリアリティがあり、オリジナリティがあった。
 『愛しのアイリーン』や『空白』の登場人物たち、特に主役級の人たちは、ストーリーは違えど、感情曲線は全く同じに感じられる。ひとりで勝手に盛り上がって、独りよがりで萎んでゆく。
 考えてみると、『ヒメアノ〜ル』の主役は森田剛だったのかもしれず、主人公がサイコパスで、観客はそれに翻弄される脇役たちに寄り添うと言う構造が、『愛しのアイリーン』、『空白』と違っていて、これらの作品では、観客の視点は主人公のそばにあり続けるが、その主人公たちが、あからさまに言えばつまんない。つまんなすぎて役者が熱演するしかないのかもしれない。
 今回の『ミッシング』も、女優、石原さとみにとっては挑戦かもしれないけど、そういう挑戦を、確かに映画ファンとして応援したいけれど、石原さとみを知らない海外の観客が見たとしたら、はたしてこの熱演は空回りしてないのかどうか、そんな「たられば」に意味はないとは言え、『愛しのアイリーン』、『空白』、『ミッシング』は、おんなじものを観せられてる気分になる。熱演してる役者、それだけ。
 もちろん、役者さんの熱演が観られるのは悪いことではない。しかし、『マリウポリ20日間』のようなドキュメンタリーを観てこれを観るとモヤモヤしてしまう。
 ロシアの砲撃を受けた産婦人科から臨月の妊婦さんが担架で運び出される映像はネットでも見られる。大きいお腹をさすりながら運ばれていくあの女性が運ばれた先の病院で、「あの人なら骨盤が砕けていて助からなかったわ。赤ちゃんもお腹の中で死んでたの」とあっけらかんと教えてくれた看護婦が何となく笑っているようにさえ見えて、あまりにも悲惨な状況に置かれるとこんなふうなのかなと思ったものだったが、その同じ看護婦が、もう1人の助け出された妊婦の赤ん坊が取り上げられたあと、医者にケツを叩かれて何とか産声を上げると号泣するのだ。
 これは一例だけれど、リアルな感情の多面性が、吉田恵輔監督作品ではちょっと傍にやられている気がする。ないとは言わない。『ミッシング』では、主人公の弟さん(森優作)の存在が興味深かった。しかし、それが主人公の価値と対立しているほどの存在感があったかというと、やはり映画全体は主人公の一人芝居の脇役にすぎないと見えてしまう。
 熱演はいいのだけれど、人間ってこんなに単純かなあと思ってしまう。複雑かと思えば単純、単純かと思えば複雑といったものだと思うから、人間は単純ではありえないとは思わないけれど、これは個人的な感覚にすぎないのかもしれないが、『ヒメアノ〜ル』以外の吉田恵輔作品には人間より役者が前面に出すぎている気がする。
 それが悪いかと言われれば、別に悪くはない。でも、繰り返しになるけど、何か全部同じものを見せられてる気がしてしまう。


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『○月○日 区長になる女』

 『○月○日 区長になる女』は、聞くところによると、今年のお正月にポレポレ東中野で封切られて、そのままじわじわヒットして、だんだん地方に広がってきているらしい。
 政治を扱ったドキュメンタリー映画としては久しぶりに痛快で、泣きこそしないけれど、素直にこみ上げてくるものがあった。女性の観客には泣いている人もいたみたい。
 杉並区長選挙。投票率30%くらいらしい。たとえば、わたしの住んでいる市の市長選に置き換えると、まず、自分の町ってほどの愛着がない。いつ出ていくかわからない。終の住処って覚悟もない。正直言って、市長の名前も顔も思い浮かばない。
 東京23区の区長選ってなると、さらに通りすがりの住民が多いのではないか。区長にどんな権限があるのかちょっとイメージさえできないのが本当のところではないか。
 しかしながらそういう無関心を放置しておくと、やりたい放題やらかすのが政治家の特性らしく、杉並区の当時の区長は、何を考えてたのか知らないが、住民にろくに説明もせず、道路の建設のために、公民館、公園、診療所、商店街、一般市民の住居に至るまで、根こそぎに退去させるって決定をした。
 区の道路はリニアモーターカーじゃないんだから、区民がいらないって言えば作らなくていい。これはもうそれ以上でもそれ以下でもない。大きな都市計画の一部とかなら、まだ議論の余地はある。例えば、『ジェイン・ジェイコブズ ー ニューヨーク都市計画革命ー』のような例である。
 1960年代、アメリカ全土で推し進められていたロバート・モーゼスの大規模な都市計画に対して、ジェイン・ジェイコブズ を中心に市民が立ち上がってブルックリンを守ったのだった。
 こう書いてみると、確かに構図は似ている。が、少なくともロバート・モーゼスにはロバート・モーゼスの理想はあった。1960年代のことなので、今ではもう歴史の審判は下っていて、ロバート・モーゼスの計画を阻止できなかったデトロイトやその他の地方都市では、ロバート・モーゼスが推し進めた共同住宅は廃墟と化して解体されている。
 杉並区の幸運の一つは、ブルックリンのジェイン・ジェイコブズ に当たる区長候補を見つけ出せたことだ。岸本聡子というEUNGOで、世界の自治体における「公共の再生」を調査してきた女性だった。政治経験0の彼女が帰国したのは投票日のわずか二ヶ月前。それだけでちょっとワクワクする。
 単に幸運とだけ言えないのは、杉並区で地道に続けられてきた市民運動があったことだった。傍流の情報だが、石原伸晃を落選させて、立憲民主党の新人吉田晴美を当選させたのも杉並区の住民パワーだった。岸本聡子候補を支え、時にはぐったりさせる、おばあさんたちのパワーがすごい。ペヤンヌマキ監督が言ってるんだけど、これだと途中で降りちゃうんじゃないか、立候補を取りやめちゃうんじゃないかってくらい、映画を見てるだけでも大変さが伝わった。
 個人的にはドキュメンタリー映画の最高の監督はフレデリック・ワイズマンなのかなと思っているのだけれども、ペヤンヌマキのカメラも、腰が座っていてすごくよかったと思う。映るべきものが全部映っている。相当な長い時間カメラを回していただろうと思う。
 そうでないと、ようやく見つかった選挙事務所を初めて開けたときのネズミのフンとか、そんなの撮れるわけないから。そういう映像をフラットに撮れてるのはすごいと思う。
 比べて何なんだけど、『1.4BILLION』っていう浅尾慶一郎を写したドキュメンタリー映画を観たのだが、政治家としての浅尾慶一郎は嫌いじゃないけど、映画としては、例えていうと、北朝鮮のニュース映像みたいだった。
 機材の進化も大きな要素なんだろう。誰もがスマホで気楽に動画を撮る時代だから成立した映画とも言えるだろう。
 そんなわけで、道路拡幅に反対するデモが動員デモなのか自発的なものなのかは自然に伝わる。
 そういう動画をおさえてあったおかげで、岸本聡子が区長に当選した最初の代表質問をした自民党区議が、奇しくもこのデモに触れて「ほとんどが岸本聡子陣営だった」などとのたまう醜悪さが浮き彫りにされる。
 そもそも代表質問の第一声にそれが相応しいかどうかってこともあるが、その口調がほぼ極右団体の街宣同様(右翼だから当たり前なのかもしれないが)で、区議ってこんなレベルなんだと呆れさせる。
 杉並区長選挙は、確かに、杉並区の話にすぎないのかもしれないが、区民の、住居、公民館、診療所、公園、これらを根こそぎぶっ壊して、区の道路を作るっていう、誰が考えても悪い冗談としか思えない、そんな政治をしてる区長にわずか187票差でしか勝てないってことに空恐ろしささえ覚えた。
 自民党とおそらくは創価学会票の組織票だけで、こんな政策がまかりとおってしまう。こんなまずい状況がテレビや新聞ではなく、映画とYouTubeでしか伝わらない。
 暗澹としてくるが、ともかく、これを伝えたペヤンヌマキのカメラはすごくよかったと思う。岸本聡子、内田聖子、ペヤンヌマキ、それから運動を支えたあのおばあさんたち、応援に駆けつけた女性たち。ほとんど奇跡的な出会いだったのかもしれない。

 ペヤンヌマキ監督インタビュー↓


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ジェイン・ジェイコブズ ー ニューヨーク都市計画革命ー』予告編↓


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 自民党の組織票選挙の現場が見られる『香川1区』予告編↓


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 ロバート・モーゼスとジェイン・ジェイコブズが対立した時代を描いたエドワード・ノートン主演のフィクション。こういうのをちゃんとエンターテイメント化できるのがアメリカ映画の成熟度か。↓


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 フレデリック・ワイズマンが、アメリカの1地方政治家を取り上げたドキュメンタリー。↓


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『碁盤斬り』ネタバレ

 白石和彌監督の『碁盤斬り』の原典である落語「柳田格之進」は、キャストの1人でもある立川談慶によると、彼の師匠の立川談志は「今の時代には合わない」と嫌って、生涯やらなかった噺だそうだ。
 YouTubeにいくつも上がってる中で古今亭志ん朝のものを聴いてみたけれど、なるほどちょっと首を傾げるところがある。娘を苦界に沈めながら本人は復職して立派になってるのが「?」だし、噺のなかでいちばんの悪役の番頭と娘が結婚するのもめでたくない。
 なわけで、どういうわけでこれを今さら映画にするんだろうと思いつつ、草彅剛の引きに抗えず観に行った。
 それで、なるほどと思ったのは、加藤正人の脚色で、娘の絹さんの心情に無理がなくなっている。悪役の番頭と絹さんの恋人を2人に分けている。また、柳田格之進の汚名返上の過程を丁寧に描いてそこをドラマのハイライトにしている。
 考えてみれば、元の落語がドラマの本筋をそこに持っていかず、さらっと流しているのは、それは落語が落語たる所以でもあるか、落語の方は柳田格之進が碁盤を斬るところがクライマックスで、この噺が成立した当時の聴衆はそれで納得したんだろうと思う。
 というのは、聴いていたのは武士ではなく庶民なので、つまり、首を斬られる側が聴衆なので、武士や武士の娘がどうなるかは、けっこうどうでもよかったのだろう。
 そういうわけで、柳田格之進を主人公にすると、元の落語では核心がズレてるものを、本来のドラマツルギーに戻してリライトして、映画的に仕上げている。
 ただまあそのおかげで別のおかしなところも出てきてはいる。柳田格之進が実直すぎたおかげで不正を働いていた武士たちが職を失ったことが、何か悪いことみたいに描いているが、これは時代背景を考えると、武士は、懐具合はともかく、やはり特権階級なので、その特権階級の不正を許さない柳田格之進の気概は、特に江戸落語の気風としては揺るがせられないところではなかったのかなと思った。たとえば『井戸の茶碗』に見られるような潔さが江戸の人たちの生活の無意識の規範になっていたし、それが江戸落語の魅力であり続けているわけなので。
 その意味では、柳田格之進が処断した不正がどの程度のものだったかにもよるけれど、武士としての柳田格之進の心情は果たしてどうだったかなと思わされた。特に、自民党の裏金問題が政界を揺るがしている今のタイミングだと、変な雑音に聞こえてしまう。
 ただ、斎藤工が「盗んだ狩野探幽はとっくに金にかえて、お前がクビにした家族に配った」と言ったときは、柳田格之進がホッとしたのがわかったくらいだから、脚本がよくできてたのは確かだと思う。
 関係ないのは百も承知で言うと、彦根藩っていう家康以来の譜代大名で、狩野探幽っていう幕府御用絵師の最たる絵師の絵を盗むのはそうとうな大罪だと思う。売り捌けるかどうかちょっと疑問に思った。円山応挙とか西の絵師ならなんとかなると思うが、これはまあ全く余計な話だけど。

幻想のフラヌール―版画家たちの夢・現・幻

 小津安二郎の『宗方姉妹』を見た後、まだあまりにも早いので、町田市立国際版画美術館に「幻想のフラヌール―版画家たちの夢・現・幻」を観に行った。
 全品所蔵品。町田市立国際版画美術館なら所蔵品だけで回せるかもしれない。

《荒波》門坂流
《荒波》門坂流
《命の繋がり》山田彩加
《命の繋がり》山田彩加

 幻想的というより偏執狂的。老眼鏡を持ってった方がいい。明らかに全体より部分に興味の中心がある。
 柄澤齊の肖像シリーズだけはその意味では少し違うが、全体としては気分にそぐわなかった。
 併催されている飯田善國の作品群の方がモダンでスッキリした印象を受けた。

『うしなわれないことば』より 4 NAMI-WAVE
『うしなわれないことば』より 4 NAMI-WAVE
飯田善國 詩画集「クロマトポイエマ」
飯田善國 詩画集「クロマトポイエマ」

 飯田善國が西脇順三郎とコラボした詩画集。版画家の仕事のひとつとして詩画集は、本という文化が衰えつつある今ちょっと面白いと思ってる。

 飯田善國は、国際版画美術館のある芹ヶ谷公園の虹と水の広場を作った人。


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 芹ヶ谷公園は国際版画美術館の楽しみのひとつ。

『関心領域』ネタバレ

 毎週のように映画画を見てると「ホロコースト大喜利」とも言うべき一大ジャンルは避けて通れないし、それに名作も多いのだけれど、今年は特に、虐殺された人たちの子孫が今は虐殺する側にまわっていると思うと徒労感が募る。
 ジョナサン・グレイザー監督は、ジャミロ・クワイのMVを撮った人で、映画にシナリオの影を感じさせない。説明的なセリフやシーンは皆無。撮影方法が古典的な映画の手法を全く無視している。
 役者たちはカメラがどこにあるのかさえわからない状況だったという。隠しカメラの映像をスタッフたちは地下室のモニターで見ていたそうだ。
 ザンドラ・ヒュラーは、『落下の解剖学』の時とは全く違う役を見事に演じていた。
 映画の舞台となるルドルフ・ヘス邸は現存する実際のヘス邸で撮影したかったらしいが、ユネスコの歴史遺産なので断念して、近くの廃屋を改装してセットにしたそうだ。
 アウシュビッツの収容所が残されているのは誰もが知っている。が、その所長だったルドルフ・ヘスの家が、そこに隣接して残されているのはあまり知られていなかったのではないだろうか。
 収容所を作った男が、そこに壁を接して自宅も作ったとは。この映画に最も重要な音響は、ヘス邸から収容棟までの距離、また、そこに連行された人数、行われたことなど記録から計算して綿密に設計されているそうだ。
 つまり、当時のヘス家の人たちには実際にああいうふうに聞こえていたはずだということだ。川遊びをしていて、ユダヤ人の骨が流れてくると慌てて飛び出て身体を洗いに帰るくせに、あの音と煙が平気だったのは何故なんだろう。
 所長権限でユダヤ人の女を呼んで来させる。事が終わった後、下半身だけシャワーを浴びている。清潔という概念は差別を内包しがちなのかも。
 映画は見事な転換点で現代のアウシュビッツ記念館につながる。この映画はアウシュビッツ記念館に隣接する、旧ヘス邸に注目したところから始まっていることに異論はないだろう。
 ジョナサン・グレイザー監督は、アカデミー国際長編映画賞受賞スピーチで
「私たちは今、あまりに多くの罪なき人を巻き込む紛争に至った占領によって、ユダヤ人としての自分の存在とホロコーストが乗っ取られてしまった、そのことに異議を唱える者として、ここに立っている」
と発言した。
 
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 映画を見ながら、一方で「イスラエルって国がなければ世界はどれだけ平和だったかな」と思ってもいた。そういう自分の関心領域もこの映画は照射してしまうわけである。

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『マリウポリの20日間』ネタバレ

 運び込まれた赤ん坊の処置をしていた医師がAEDを取り出した時は思わず下を向いてしまった。心臓、止まってんのかい。とすると、この子を抱いて飛び込んできた母親の腕の中で、もうこの子は死んでたはずだし、少なくとも母親の腕はそれをもう感じてたはずだ。

 


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 この映画の監督でもあるMstyslav Chernovは、ロシアのマウリポリ侵攻の時、現地に残った唯一のジャーナリストだった。

 

 20日間で脱出しなからばならなかったのは、ネットの環境が悪くて、取材した映像が断片的にしか送れないのと、その映像をロシア側の政治家やメディアがフェイクだと喧伝し始めたのを知ったからだった。もちろんそんなプロパガンダは誰も信じないと思うが、もし、彼がロシア軍に捕えられたら、強制的に映像がフェイクだと証言させられるおそれがあった。

 ロシアの戦車に攻撃される病院から、ウクライナの警察官と特殊部隊の協力で、赤十字のキャラバンに紛れて脱出した。

 この人ひとりがいなければ、ウクライナの戦争について私たちは何も知らなかったことになるだろう。

 もちろんジャーナリストが1人もいない戦場は世界にいくらもあるのだろう。想像力では補えない戦禍についてこうした事実の断片が絶対に必要なのだと思う。


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