『顔-かお-』ネタバレ

「我、かつて罪なくて生きたりしが、掟(おきて)来たりし時に我は死に、罪は生きたり」*1
 アンドレ・ジッドの『田園交響楽』の巻頭辞。聖書なんて読んだこともないけど、小説の内容とあまりに響き合いすぎて記憶に残る。私にとっては、アンドレ・ジッドの『田園交響楽』を思い出すってことは、この聖書の一節を思い出すってことと同じである。

 ヨン・サンホ監督の『顔-かお-』を観て、アンドレ・ジッドの『田園交響楽』を思い出すのは、思い出してみた後でじわじわ考えてゆくと、正鵠を得ているとまでは言えない。
 主人公が盲目であることと、一面では盲目が生んだ悲劇であること、そして、罪と愛について深く取り止めのない思索に誘われるところが共通しているだけなのかもしれない。

 観終わった直後の感想としては、原作は小説なんだろうと思った。劇中ずっと顔を見せないチョン・ヨンヒ(シン・ヒョンビン)の顔写真が最後に見つかり、ドンファン(パク・ジョンミン)は40年前に亡くなった母の顔をそこで初めて見ることになる。
 その時、その顔写真を観客にも見せるべきか、それともドンファンが見るシーンだけにとどめるべきかは議論の分かれるところなのかもしれない。
 なぜなら、作中ずっとヨンヒは「化け物みたいに醜かった」と言われ続けているので、彼女がホントに醜かったのか、醜いとしてもどの程度なのか、あるいは実は美しかったのか、美しいとしてどんな美しさだったのか、あるいは、美しくも醜くもない平凡な顔だったのか、平凡な顔としてもどんな印象の顔だったのか、これをたった一枚の写真のワンカットで、映画的に処理するのは不可能に近い。
 だから、いっそのこと最後まで見せないって選択は、作り手の頭をよぎると思う。ヨンヒが最後に「醜い」と言われていた亡母の写真を見て涙する。観客には見せないで想像させるという選択。
 小説なら例えば
「ドンファンは、入り乱れた感情が彼を制御する前に、機械的に封筒を破って、その写真を引き出した。化け物、醜い、ブサイクと聞かされ続けた母の、その娘の頃の顔は、拍子抜けするほど平凡な、彼が子供の頃にはどこででも見かけた、田舎娘の垢抜けない顔にすぎなかった。
 ドラマでよく見るような、母を懐かしむ思いなど抱きようもなかった。この娘を周囲の誰もが、醜い、ブサイクと言い続けて、目の見えない父と結婚させて面白がったのか。そして、40年後にようやくあいまみえた我が子は、自分を母とさえ思えない。
 もはやどんなに理由を探しても出るはずのない涙が、流れるべきでないドンファンの顔を伝い落ちていた。父に似ていると言われたその顔の頬を。」
といった感じで締めくくれる。だから、原作は小説だと思ったのだが、原作は監督自身の手になるグラフィックノベルだそうだ。グラフィックの部分がどう表現されていたのか気になる。
 この写真を視覚的に処理するのは、どんな顔を持ってきても難しいと思う。しかし、オープン・エンディングで観客の想像に任せてはテーマがブレる。美しくも醜くもない平凡な顔写真を敢えて持ってきた作り手の意思には拍手を送りたい。

 アンドレ・ジッドの『田園交響楽』とこの映画が似ているかどうか、ジッドのあの小説が好きな人はこの映画を観て比較するのも面白いだろう。
 視覚は人間にとって最も比重の大きい感覚なので、目が見えると見えないではそこに圧倒的な非対称性が生まれる。その非対称性を強弱と言っても、貧富と言ってもいいのかもしれないし、善悪、賢愚とされることもあるかもしれない。
 そして、その非対称性をお互いが無意識に受け入れているあいだは、そこに罪は生じない。しかし、もし美が譲れない価値として厳然としてあるならどうだろうか。イム・ヨンギュ(クォン・ヘヒョ)は、盲目でありながら、美しい字を彫ることで「韓国の奇跡」と言われた篆刻師だった。
 盲目でありながら美に囚われていた。盲目であるからこそ彼にとっての「美」は、視覚の確かな人よりはるかに観念だった。だから「醜さ」もまた彼にとっては個人の属性ではあり得なかった。
 多くの人にとって美が絶対的な価値を持つことなどまずない。美しい女が好みの女とはかぎらない。しかし、盲目でありながら必死で美を掴み取ろうと生きてきたヨンギュにとって美はもはや実体なのである。彼は美を指先の感覚だけで実体化してきた。だから醜さもまた彼にとっては実際にそこにあるブツなのだ。
 ヨンギュは盲目なだけではなく美に囚われている。これは『田園交響楽』のジェルトリュードに似てると言えるのかもしれない。彼女は目の手術で視力を回復するとともに、罪を知ることになるが、ヨンギュは罪を知らぬまま。息子のドンファンが代わりに罪を知ることになる。
 誰もドンファンを責めることはできない。父の殺人はとっくに時効をすぎている。一緒に調査を進めたプロデューサーはスクープをものにしたかっただけ。ドンファンを男で一つで育ててくれたのは父であり、ドンファンには母の記憶すらない。
 しかし、母の写真が父のではなくドンファンの心の罪を生き返らせる。「掟来たりし時に我は死に、罪は生きたり」。

 アンドレ・ジッドが自己を投影したのはおそらく牧師の方であったろう。妻子がありながら同性愛の情欲に苛まれていた。しかし、聖書の言葉をなぞらえたのはどう考えてもジェルトリュードの方だった。牧師は最後まで「罪なくて生き」続ける。では、ジェルトリュードの罪とは何なのか。愛が罪だと言えるか?。
 たぶん愛は罪に違いないと思うが、重要なことはその罪は「生きたり」と言われていることだ。「我は死に」という時、その言葉の主体が現に死んだとしたら罪もまた死ぬはずだから、「罪は生きたり」というかぎり、死んだ我は、そののちに罪として生きていなければならない。
 つまり聖書のこの一節は「その罪を生きよ」と言っていることになるだろう。その罪ある愛を生きよ、とは絶対書いてないが、罪は生きる。
 結局、キリスト教がユダヤ教を超えてゆく地点はいつもこうしてロゴスを超えてゆく地点だと思う。アンドレ・ジッドはジェルトリュードを殺してしまうが、エピグラフのパウロの言葉は「その罪を生きよ」と語る。その罪をイエスに委ねて生き続けよと。
 ヨンギュが篆刻師なのも深読みすれば、言葉に囚われるロゴス中心主義を示唆しているととれるかもしれない。ホン・サンスの映画の常連クォン・ヘヒョの重厚な演技が見られるのも楽しい。

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*1:新約聖書「ローマ人の手紙」第七章9節

ネパールの大洪水

 ネパールの大洪水には心底驚いている。
 というのは、私の記憶では、とっくの昔から問題になっていて、もういい加減対策がなされていると思ってた。
 で、調べてみたら遅くとも2000年にはNHKスペシャルで取り上げられていた。26年前にもう遠く離れた日本で報道されてるものがそのまま現実になる?。何してたの?、って、他国の人間として無責任な感想なのはわかってるが、ちょっと虚を突かれた感じ。

 テレビで初めて見たのがいつだったのか記憶にないが、その時ですら決壊寸前だった記憶がある。それに、2017年に石川梵監督の『世界でいちばん美しい村』は、東日本大震災のあとだったし、あの映画では、たしか氷河湖の決壊に備えて村全体で移住するかどうかっていう映画だった。
 その時からでももう9年経ってる。だからもう危ない村からはみんな移住したのかと思い込んでいた。現地の人にとってみれば、そんなことは言われんでもわかってるのだろう。人の予測を遥かに超えて温暖化が進んでるってことなんだろう。
 ふりかえれば、1995年に阪神淡路大震災が起こった時は、これは100年に一度の災害なんだろう。これから復興に向けて頑張っていけばいいのだろうと思っていた。あれがそれから立て続けに起こる災害の始まりだとは誰も知らなかった。

 奇しくもこの2026年9月12日にJICA市ヶ谷ビル 2Fの国際会議場で『世界でいちばん美しい村』の上映会があるそうなのでお近くの方は訪ねてみられてはいかがだろうか。監督のトークショーもあるそうだ。

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『時には懺悔を』ネタバレ

 宮藤官九郎って人は、ひとつには脚本家として、ふたつには映画監督として、売れに売れているのでそちらで忙しくて、俳優としての仕事になかなか出会えないのが残念。
 その意味ではこの映画は、主役こそ宮藤官九郎ではないものの、プロットは宮藤官九郎を軸に回っているので、俳優としての宮藤官九郎の魅力を存分に味わえる。

 中島哲也監督は『告白』の、きらびやかだが角度のついてる感じではなく、主演の満島ひかりのナレーションがかぶるせいもあって、真っ直ぐで骨太な語り口調になっている。

 この映画が実現したのは、打海文三の原作とともに、スペシャルニーズスーパーバイザーというあまり聞きなれない立場で協力した安田一貴の存在が大きいのだろうと思う。病気や障がいのある子どもを対象に出張写真撮影を行う「笑顔の向こうに繋がる未来プロジェクト」の代表を務めているそうだ。

 打海文三も障害児を育てた経験があるので、部分的というにはかなりの比率でドキュメンタリーの要素が含まれている。そのことがこの映画に、ファンタジーとは呼ばせない強度を与えている。

 とはいえ、この映画が空中分解してしまわないのは、間違いなく宮藤官九郎の存在感だと思う。生まれまたばかりの障害のある赤ん坊を盗んで、そのまま、我が子として育ててしまう。この映画の核となる架空の設定を信じさせてくれる。これができる人が他にいるかどうかちょっと思いつかない。

 事件の発端となる事件で殺された探偵(佐藤二郎)は、何不自由ない生活をさせている我が子に憎まれていて、主人公(満島ひかり)は別れた旦那に親権を奪われた娘に疎まれていて、障害のある赤ん坊を誘拐された母親(黒木華)は、継子に嫌われている。そして、障害のある子を死なせてしまって家庭が崩壊した探偵(西島秀俊)がいる。まるで少しずつずれてしまった正方形のブロックパズルの真ん中に、本来まったくの間違いのはずの明野哲夫(宮藤官九郎)親子がいる。
 この螺旋のような構造の美しさに惹かれるのは、『告白』の頃から中島哲也の資質のひとつなんだろう。『告白』は湊かなえの原作からすでに、現実からわずかに遊離している雑味のなさがあった。現実的でないというのではなく、現実を見るのにいったんプリズムを通して見ているような不思議な解析感があった。
 この映画もそうした、現実をいったんバラバラにした後に組み直したようなキュビズム的な現実感がある。キュビズムを抽象画という人がいるが、正確にはそれは間違っている。ピカソは生涯を通して具象画家であり続けた。この映画も、ともすればファンタジーになりかねないエピソードを宮藤官九郎がリアルにしている。

 生涯を持って生まれてくる子を持つ家庭を身近に知らない人がどれほどいるのか知らないが、私も知っているし、寝たきりの家族を抱える家庭となると、その数はもっと増えるのではないか。
 それでも「標準家庭」なる言葉はいまだに政治の世界では現役で使われているそうだ。標準であることが幸せであり、標準を外れることが不幸であるとする価値観で生きていると、標準から滑り落ちた人たちはこの映画の黒木華みたいに罪悪感を抱くだろう。一方で標準を上回っている人たちが、優越感を感じる唯一の価値観が標準に過ぎないことに、虚しさを感じる人もいるだろう、この映画の佐藤二郎のように。

 ピカソがアフリカ彫刻に、決定的に出会ったのは、1907年6月パリのトロカデロ民族誌博物館だったそうだ。
 「トロカデロに行ったとき、胸がむかついた。まるで蚤の市だ。それにあの匂い。ぼくしかいなかった。帰ろうと思った。しかしその場を立ち去れなかった。そして残った。長いあいだ。これが非常に重要なものだとわかったんだ。そのときぼくになにか起こったんだと思わないか?〔・・・・・・〕
『アヴィニョンの娘たち』は、あの日心に浮かんだのに違いないが、形のせいなんかじゃ全然ない。あれはぼくの最初の悪魔祓いの絵だったからなんだ。そうなんだ!」

 パズルはずれていなかったのかもしれない。レオナルド・ダ・ヴィンチのようではなく、アフリカ彫刻のように人を見てもいいはず。これがキュビズムの始まりで、そういう前衛芸術を頽廃として排除したのがナチスだった。ピカソが払った悪魔がヒトラーに取り憑いたってわけか。でも、こういう悪魔ってけっこう簡単に人の心に巣食うから用心しなければならない。

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さまざまな追悼

 山田五郎が大人の教養講座を始めた時はこんな結末が来るとは思いも寄らなかった。10年、20年と続くコンテンツになるのだろうと思っていた。
 まだまだ山田五郎の口から聴きたかった画家たちの話は沢山あったが、無常迅速と言いながらこんな結末になって残念だ。
 
 山田五郎の最後の講義を聴いていて、桂吉朝の最後の高座を思い出した。私はそのころ関東にいたのでしばらくは訃報さえ知らずにいた。最後の高座となった「弱法師」は、ずっと後になって、どなたかがYouTubeにアップされていたのを聴いた。
 死を覚悟している人に対しても、周囲はそれに同調するわけにはいかない。かと言って、軽々におためごかしをいうわけにもいかない。いつも通りに、またお会いしましょうというしかない。本人はきっとそんな言葉を聞きたいのではないとしても、別れの言葉を言うわけにはいかない。

 しかし、みうらじゅんが伝えてくれている山田五郎の最期を聞くと、みうらじゅんの前では感情を晒していたそうだ。
 みうらじゅんと山田五郎がやっていたポッドキャスト「みうら五郎」もずっと聴いていたが、音声コンテンツにもかかわらず、最後は酸素吸入器に繋がれているのがわかった。
 ポッドキャストではみうらじゅんも普段どおりに接するしかないように見えていた。
 
 癌で望みは薄い友人に接する時、結局、普段どおりに接するしかないのではないか。これが普通だと思う。そう考えて頭の片隅に思い浮かべていたのは『急に具合が悪くなる』。あの2人の女性の対話は、いったん生死を離れた場所で交わされていたとしか思えなくなる。「出離」という仏教用語が思い出されさえした。

 山田五郎が私たちに見せていた死を前にした態度は、どこまでもダンディズムだったことがわかって、山田五郎のためにホッとしている。最後は泣いていたということだった。

 それからそれへと思いが飛んでしまうが、坂本龍一の最期も驚くべきものだった。最期まで病室にカメラが入ることを許したのだ。映画『Ryuichi Sakamoto : Diaries』で確認できる。
 癌と闘いながら、死を覚悟するだけでなく、最後の最後までカメラに映されることも覚悟していた。表現に対する信念が違っていた。

 草間彌生の訃報にも接した。早くから「死は扉を開けて隣の部屋へゆくようなものだ」と語っていたと記憶する。晩年はまるで写経のように絵を描き続けていた。


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草間彌生の逝去のお知らせ – 草間彌生 Yayoi Kusama Official Site

『叛逆のサウンドトラック』ネタバレ

 ジョン・コルトレーンの『BLUE TRAIN』のアルバムジャケット。

 この写真を撮ったのはブルーノート・レコードの共同創設者のフランシス・ウルフ。この人はブルーノート所属アーティストのスタジオでの写真をバシバシ撮ってるので、何年か前にユニクロがブルーノートのTシャツを出すってなった時にはだいぶ期待したのだけれども。
 それはともかく、この思案に暮れているようなコルトレーンは実はロリポップを舐めているところだったらしい。
 ロリポップを舐めてたらものが考えられないわけではないので、コルトレーンにしてみれば「何が?」だと思うのだけれども、ポーズを決めてるように見える写真が、実は飴を舐めてるだけっていうの、理想的にかっこいい。
 数多ある写真の中からこれをジャケットに選ぶセンスがブルーノートだなぁと思う。ダブルミーニングというと違うし、オチっていうほど強くもない。意味と無意味の間を言語化される前にすり抜けてゆく速さ。
 フランシス・ウルフとアルフレッド・ライオンの2人は、ナチスの迫害を逃れてアメリカに渡り、ブルーノートというジャズのレーベルを立ち上げた。
 
 この映画にもジョン・コルトレーンのサックスを吹く映像がものすごく印象的に使われていた。全編ジャズに満ち溢れている映画なのにそこだけ音がない。だからといってそれが何かを意味してるわけじゃない。しかし、間違いなく何かが見える。見事だなと思った。

 「叛逆のサウンドトラック」ってタイトルは不思議。サウンドトラックの映画なの?。映画ありきのサウンドトラックなはずなのでは?。原題がまた不思議で「サウンドトラック・トゥ・ア・クーデター」と、直訳すれば確かに「叛逆のサウンドトラック」。いつもは何かと意訳しがちな邦題のくせにこれは直訳かい!。しかもややこしいのは「クーデター」は「coup d'État」で、見るからに元々は英語でないにしても「クーデター」は英語でも「coup d'État」の気もする。
 それにジャズを扱った映画だし、アメリカ映画と思いこんでも責められないはずだ。しかし、途中で、これはアメリカ映画のわけないぞと気付かされる。
 
 アイゼンハワーがCIA長官アレン・ダレスに対し、コンゴの初代首相パトリス・ルムンバの暗殺を命じていたのはショックだった。「Lumumba should be eliminated」と発言したとの証言がある。アイゼンハワーは戦後、軍産複合体が発展するのを阻止しようとした唯一の米大統領だったはずだが。
 ベルギーってEU発祥の国のひとつでオープンな国のイメージだったのに、植民地の地下資源が絡むと、いとも簡単に帝国主義的振る舞いをしてしまうのもショックだった。
 帝国主義的振る舞いは言葉として解像度が低すぎる。平気で人を殺してしまう。先ほどのアイゼンハワーの言葉にしても「kill」でも「murder」でもない「eliminate」だった。おそらくアイゼンハワーにとってルムンバは人じゃなかった。

 私はコンゴ動乱について何も知らずに生きてきた。このドキュメンタリーで初めて、生きて話しているルムンバを見た。そしてこの人がコンゴの初代首相になりながら、ついには死に至る顛末を見た。
 映像に残らない暗部はさらに残酷には違いない(61年後の2022年、暗殺に関与した執行部隊が持ち帰ったルムンバの歯だけが遺族に変換された)が、本質的なのはルムンバがeliminateされた後に挟み込まれるクラッシック音楽の演奏だろう。数学的に整然と並んだ音符が目に見えるかのような弦楽四重奏は、コルトレーンのピカソやポロックのように跳ね回る音の羅列の中に混じると、いかにもアーリア人好みの音楽に聞こえる。

 「これは単にジャズを扱った映画ではなく、まさに“ジャズそのもの”だ。そして単なる政治映画ではなく、政治的行為そのものでもある」と映画の公式サイトにキース・ドリッセンてふ評論家がコメントを寄せている。何かをジャズと呼ぶなら、これをジャズと呼ぶべきだと私も思う。

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『レンタル家族』『PEACOCK/ピーコック』ネタバレ

 『レンタル家族』が関西でも公開され始めている。
 上坂龍之介の初監督作。にもかかわらず、パイロット的に新宿K'sシネマで限定公開されたところ、公開最終日に映画館に予約が殺到してサーバーが落ちた。
 インタビュー動画を観ると監督は「毎日ビラ配りしてたので・・・」と言ってる。

 監督の上坂龍之介、脚本の土井涼介をはじめ、撮影監督のJOJ I、佐貫圭亮と、主要なスタッフのほぼ全員がセカンドキャリア、もしくはセカンドジョブで、映画の公式サイトで拝見するかぎりは皆さん初映画らしい。
 もちろん、みなさんがおそらく映画好きで素養はあるのだろうけれど、じゃあ映画を作ろうってなった時にこのレベルのものが出てくるのがすごい。
 皆さんプロとして映像関係のお仕事をしているので技術水準は高い。でいて、初映画なので、個人の感想だけれども、いい意味でクセがない。セリフ、演出、映像、全てにおいてproperというか、真っ当というか、筋がいいというか、のびやかというか。
 キャストもそんなに有名ってわけではないと思うが、オーディションだったのだろうか、どの役も、美形すぎず、可愛すぎず、いい男すぎずで、無理なく演じているように見えた。
 それが「レンタル・ファミリー」という、実存するけど、ちょっとクセのある題材にすごくマッチしている。

 こうした「ともだちレンタル」に似たサービスは海外にもあるそうだが、映画化されようとすると、何故か日本を舞台にするか、もしくは日本に取材するようだ。

 去年2025年にも、『ザ・ホエール』で華々しい復活を遂げたブレンダン・フレーザー主役の『レンタル・ファミリー』が日本を舞台にしていた。あとから聞くといい映画だったという人もいたが、文化の壁っていうか、役者が国境を越えるのはなかなか難しいのは偏見じゃないと思う。たとえば、アッバス・キアロスタミの『ライク・サムワン・イン・ラブ』とか、小栗康平の『FOUJITA』とか。
 『レンタル・ファミリー』の監督は『37セカンズ』のHIKARI。彼女自身が国境を超えて活躍しているからこういう発想も出てくるんだと思うけど、食指が動かなかった。理由は、家族をレンタルするのに国籍が違ったらまずいことの方が多くない?。ノイズがひとつ重なってるなと思えたので。でも評判は悪くなかった。

 私の記憶ではこの手の職業をドラマで認識したのは、宮藤官九郎の『ゆとりですがなにか』(2016)で吉田鋼太郎が演じた「レンタルおじさん」だったと思う。
 その後、これは私は知らなかった『ファミリー・ロマンス,LCC』(2019)っていう『人間レンタル屋』という石井裕一の原作をもとに撮られた映画があった。これも舞台は日本。しかも、監督は何と『アクト・オブ・キリング』の制作総指揮を務めたヴェルナー・ヘルツォーク。
 と聞けば、監督がこのモチーフのどこに興味があるのかわかってしまう。『アクト・オブ・キリング』では、過去の殺人を殺人者自身が演じてみせた。ヴェルナー・ヘルツォークにとっては赤の他人が家族を演じることはそれと同じ何かを思い起こさせるのだろう。

 『レンタル家族』に先だって『PEACOCK/ピーコック』という、これは「友達代行サービス」をモチーフにした映画も観た。こちらはオーストリア人のベルンハルト・ウェンガーのこちらも長編初監督。『レンタル・ファミリー』は監督が日本人、舞台も現代の日本、だけど主役だけアメリカ人。
 に対して、『PEACOCK/ピーコック』は、監督自らが2018年に日本を訪れて「友達代行サービス」を徹底取材したものの、映画の舞台は完全にオーストリアに置き換えられている。
 そういうわけで文化比較としてもこっちの方が見やすいし、『レンタル・ファミリー』がそうだとは言わないが、単なる物珍しさ、エグゾティシズムではないと弁明できる。
 友達代行サービスの優秀な社員マティアス(アルブレヒト・シュッフ)は、パートナーに「本当のあなたを感じない」と言われて別居されてしまう。そこから、彼自身の自我が崩壊してゆく。この展開は「我思う、故に、我あり」といったデカルト的な、西洋に伝統的な自我の捉え方で、ある意味、古めかしくさえ感じられる。
 ただ、日本と比べて近代社会だなと感じさせるのは、旦那さんと口喧嘩がしたい、そのための練習役としてマティアスの客となる老婦人。練習の甲斐があって彼女は長年寄り添った旦那と別れて新しい暮らしを手に入れる。
 ところが面白いことにマティアスの方はこのケンカの相手役の時だけ、つい、地金が出てしまう。男女差別の解消が進んでいるはずの欧州が本質的に男性中心なのがわかりやすい。
 小学生の女の子の父親役としてパイロットを演じる、次期会長を狙う重役夫婦の優秀な息子役を演じる、パーティーでの理想的なパートナー役を演じる。これらの役割は実は男性中心社会で男が求められてきた姿にすぎなかった。「ピーコック」というタイトルはこの辺りを指していると思われる。
 実は彼が求められているのは「口喧嘩の相手」のはずだった。家族の役割は男性中心の社会が割り振ってきたものではない。
 だから、マティアスはほんとうは精神的に病んでゆく必要はなかった。彼の仕事は男性中心社会の化けの皮を剥いでいるのだから。精神的にキツくなってゆくのなら、マティアス自身がファロセントリズム(男性中心主義)にとらわれているってことなんだろう。
 自己崩壊を起こしたマティアスがパーティーの席に全裸で泥だらけになって現れた時、最初は引いていた他の出席者たちが「わかった!、これはパフォーミング・アートだ」と勝手に解釈して拍手し始めるのが面白かった。
 同じようなパーティーのパフォーマンスがリューベン・オストルンドの『ザ・スクエア 思いやりの聖域』にも出てきたので、ヨーロッパの上流階級では起こりうるってことなんだと思う。
 映画の本筋とはズレるが、ヨーロッパでのアートのあり方を垣間見る思いがした。コンセプチュアル・アートをありがたがる本質が実は男性中心社会に根があると、実感として分からせてくれる。アートが権威と結びつくからこそコンセプチュアル・アートに価値が生まれるのだ。日本の浮世絵が19世紀の画家たちに衝撃を与えたのは、まさにこうした権威の破壊だったことを思えば、西洋と日本のこうした社会の違いを無視した日本のフェミニズムのあり方が、どこかファロセントリズムを側面から支えているように見えるのも致し方ないことかと思われる。
 マティアスの自己崩壊がパフォーミング・アートだと誉めそやされることで映画は終わるのだが、マティアスとパートナーのソフィア(ユリア・フランツ・リヒター)との関係がちゃんと描かれずに終わったのは残念な気がした。というのは、テーマは「家族」であったはずだと思うのに途中からマティアスの「自我」に焦点が移ってしまった感があるのでちょっと消化不良な感じは残る。

 その点、『レンタル家族』は、一方で崩壊してゆく家族があるからこそ、その代用が求められている切実さが過不足なく描かれていて、日本がこうした「友達代行」の本場らしいと信じさせる。
 これは、高齢化社会、働く女性へのサポートの遅れ、育児環境の劣悪さなど、日本社会のさまざまな問題にさりげなく目配せしている土井涼介の脚本が優れていると思うが、とは言え、この映画の魅力はむしろそれが目立たないさりげなさだと思う。ごつごつしたり、ザラっとしたりする部分がほぼ感じられなかった。描き過ぎず描かなさ過ぎない。それが脚本、演出、撮影、演技のすべてのレベルでできていると思える。
 例えば、『PEACOCK/ピーコック』では、友達代行サービスのエース社員と言いながら、マティアス以外の社員は結局描かれないが、『レンタル家族』では、代行の代行として馴染みのない人員が派遣されたりする。それがすごくいい味を出していた。しかも、それも笑わせすぎない。
 キャストも全員素晴らしくて、特にこの人のこの演技が・・・ということがない。本当はこうあるべきなんだと思う。インディーズなのでどれくらいのヒットになるかわからないが、見逃すのは惜しい映画だと思う。

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天照大神のY遺伝子

 過去に女性天皇の数多おわすにもかかわらず、現行政府が数の力を頼りに、どうしても男系男子にこだわる科学的根拠はY遺伝子らしい。
 しかし、国家神道の源流を辿ればどうしても天照大神に行きつかざるをえず、いうまでもなく天照大神は女神なわけである。
 で、2つ問題が浮かび上がる。
 1.天照大神のY遺伝子はどこからきたか?。
  2.そもそも神に遺伝子があるのか?。
 1の問題を突き詰めていくと天照大神と寝た男を探さなければならない。
 2の問題を突き詰めると、そもそも遺伝子云々の問題ではないということになる。

 この辺のバカバカしさが日本の近代のバカバカしさそのものだ。

 いまだに国家神道が日本古来の伝統だと思っている人が多いらしいが、国家神道が拠り所にしている『古事記』は神話と言っても、藤原不比等が自身の権力地盤を固めるためにでっち上げた(と言って悪ければ編集した)神話にすぎない。「天孫降臨」ってだいたい何で「孫」やねんって思わんのが不思議。聖武天皇は藤原不比等の孫ですわな。

 『古事記』なんて本居宣長が引っ張り出してくるまでほとんど忘れ去られていた。それを国学者たちが「これぞ日本の伝統」って1000年忘れてたものが伝統か?。
 これの恐ろしいのはイスラエル人がガザでパレスチナ人を殺すエクスキューズとほとんど一緒ってところ。本居宣長本人は殺さなかったかしれんが、これがのちに廃仏毀釈となり国家神道となって東アジア全体を巻き込んだ大惨劇を迎えることになる。

 小林秀雄が最晩年に『本居宣長』を書いた時、その頃にはもう小林秀雄に距離を置いていたので、リアルタイムでは読まなかったが、今になってみると、あれが小林秀雄の壮大な言い訳だったとわかりすぎるほどわかる。
 その当時、1977年、小林秀雄がなぜ本居宣長なんかにこだわってるのか誰もピンと来ていなかったと思う。本居宣長が明治維新のエクスキューズになり、国家神道のエクスキューズになり、ついには戦争のエクスキューズにまでなった。結局、小林秀雄はその時代精神に首まで浸かっていた。『本居宣長』というあの本はそのエクスキューズだった。
 小林秀雄は夏目漱石がまったくわからないと言っていたのが印象的だ。小林秀雄は自分が生きている時代がわからなかったのだと思う。アルチュール・ランボーを訳しながら、中原中也と恋の鞘当てをしている大正ロマンの青年は、薩長政府のでっち上げを疑う能力がないほどに、生まれつき去勢されていた。なので、夏目漱石のような慶長生まれの江戸っ子を理解できるはずがなかった。
 小林秀雄が本居宣長を書くとしたら、古事記を藤原不比等が政治に利用したでっち上げと知りつつ、都合よくナショナリズムに援用した国学の欺瞞を告発して、それが近代の軍国主義に繋がったことを、同時代の批評家として懺悔すべきだった。しかし、それはできなかった。結局、この人は大正ロマンを夢見るモボにすぎなかった。夏目漱石が「滅びるね」と言った強さで、日本を批判することができなかった。
 しかし、当時、本居宣長を取り上げたこと自体が、国家神道の欺瞞に小林秀雄が気づいていたことを示していると思う。まるで本居宣長を、できれば源氏物語の優れた読み手としてだけ評価したいかのような書きぶりだった。

自画像の上に書かれた「やまと心」という言葉が、像を歪める。学者の顔を宣伝家の顔に変える。宣長には思いも及ばぬ事だったと思われる。

と書いているが、そんなわけない。どっちが歪めたんだと言いたい。

 この国学から国家主義へと移る日本の近世から近代への流れは、現代の米国におけるトランピアンの猖獗とあまりに似ているので、オランダのイアン・ブルマなど比較研究する学者もいるらしい。
 ただ、でっち上げでない方の、ほんとに本来の日本の信仰のあり方にまで興味が向く研究者が海外にいないのはむしろ当然とは言え、日本人の中にも、国家神道とか靖国とかのただのキッチュをほんとに日本の伝統だと信じている人も少なくないのはかなり危ないんだろうと思う。
 そのために、天照大神のY遺伝子なんて議題が大真面目にまかり通ってしまう。というか、逆に、天照大神のY遺伝子なんて話題が一見だけでも意義があるかのように通用してゆく自体が、国家神道がいかにキッチュにすぎないかの確実な証拠だろう。