『落下の解剖学』ネタバレ。

 雪の山荘でひとりの男性が転落死する。その殺害を疑われた妻をめぐる法廷劇。というと、例えば、三谷幸喜の『12人の優しい日本人』も、ホロコーストの有無をめぐって争われた『否定と肯定』も、コミカルであれシリアスであれ、真実をめぐって争う両陣営のやり合いがそのまま映画のドライビングフォースになっている場合が多いのだけれど、今作は、疑われた妻が主人公で、彼女自身も真相がわからないまま、真実とはまったくかけ離れたところで、彼女に対する評価がゆれうごく、もちろん、観客の寄り添い方もゆれるわけで、そうした、評価の揺れに翻弄される女性に視点があることがユニーク。『12人の優しい日本人』を比較に出せば、あの法廷の被告は姿も見せない。
 翻弄される主人公に、サンドラ・ヒュラーのニュートラルな存在感がすごくマッチしていた。面白いのは映画の中で彼女だけがドイツ人で、あまりフランス語がうまくない。とはいえ職業は小説家でそこそこ売れている人なので、自己を表現する術を知らない哀れな被告って感じではない。その設定もニュートラルに設えられている。
 監督はジュスティーヌ・トリエ。脚本はアルチュール・アラリとの共同脚本。この2人は実生活で夫婦だそうで、映画内で死んだ夫も作家なので、この法廷劇は、一方で、私小説的なリアリティも兼ね備えている。ちなみにアルチュール・アラリは『ONODA 一万夜を越えて』の監督、脚本をした人。『ONODA 一万夜を越えて』も、日本での興収はどうだったか知らないけど、政治的なメッセージや、戦争映画的なアクションではなく、敗残兵の日常を描いていてすごく面白かった。
 作家夫婦、映画作家夫婦って存在も今ではそんなに珍しくない。夏目漱石の奥さんが実は作家なんて状況はちょっと想像しづらい。もっとも、夏目鏡子夫人はのちに『漱石の思い出』を出しているけれど口述筆記である。漱石の時代の作家は暗黙のうちに教養のスタンダードだった。良くも悪くも、今、作家は文化人よりも芸人に近いし、何ならそうあることを求められている。『ラ・メゾン 小説家と娼婦』の作家なんて小説のために娼婦になってる。
 すべてがフラット化する時代の法廷劇が、たぶん初めて描かれたんだと思う。もっと面白くしようと思えば、夫婦ともども作家なわけだから、谷崎潤一郎の『鍵』みたいに、夫婦それぞれの視点から、それこそ『羅生門』スタイルに描くこともできたかもしれないが、それを今やるよりは、このフラットな感じが良かったのではないか。
 この辺からネタバレになる。読んでもそんなに鑑賞に影響ないかもしれないけど、これから観る予定の人は読まないほうがいいかも。
 旦那のスマホに残されてる夫婦げんかの音声が殺人の証拠にされかけるのも今風で面白かった。ありふれた夫婦げんかにすぎないのに、それが音声として記録されかねない時代でもある。殺すの殺せのの言い争いも消え去っちゃえば何でもないのに、記録されると何か意味を持ってしまう。ニュートラルな主人公の破綻をところどころで見せるのもうまいと思う。
 物語が進むにつれて、事件の真相よりも、死んだ旦那の性格とか、夫婦のありようとかがむしろ明らかになってくる。法廷劇に見せつつ、実はホームドラマで、最後は1人息子の証言で決着がつくけど、それで明らかになるダンナのダメさ加減に悲哀がある。冒頭の大音量の音楽が、そこでは顔を見せなかったダンナの心情みたいなものを、最後には浮かび上がらせる。
 インタビューを受けている奥さんの背後で、だんだんデカい音量の音楽がかかって話ができなくなるって、そんな始まり方が発明かもしれなかった。ふつうなら「ちょっと音楽止めてくれよ」って言いにいけばいい。でも、そうせずにしばらく我慢して結局インタビューの方をやめてしまう。その時点で殺人じゃありえなかった。
 最初は夫婦で口裏を合わせてインタビュアーを追い払ってるのかと思った。インタビューが煩わしいならありえるから。でも、まさか、奥さんのインタビューを妨害してるとは。そりゃダンナは悲しすぎる。自殺もしたくなるだろう。
 蛇足ながら、76回のカンヌのパルムドールです。

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赤えんぴつ in 東京武道館とオードリーのANN in 東京ドーム

 おそらく今年一年を振り返る時に必ず記録されるだろうふたつの出来事、赤えんぴつ in 東京武道館とオードリーのオールナイトニッポン in 東京ドームがこの2週間ほどの間に相次いで起こった。
 時代を感じさせるのは、このどちらにもTVが一切関係していないことだ。この間、TVで起きたことといえば、『セクシー田中さん』事件。これは単にTVの凋落というだけでなく、TVの道徳性の低さを確信させる結果になった。
 私の知る限りでは、『セクシー田中さん』のプロデューサーは今に至るまで何のコメントも出してない。原作改変が問題であるかのように語られているが、原作の改変なんてむしろない方が珍しいので、問題はこのプロデューサーのこの態度からうかがい知られる人間性ではないかと思う。
 このプロデューサーが原作者を裏切り、嘘をついて原作者から作品を騙し取ったことは明らかだと思われる。それ以外の可能性もあるかもしれないがちょっと考えづらい。
 だからこそ、このプロデューサーは何かの言葉を発する責任がある。それができないのであれば、何のプロデュースもすべきではない。ところが、このプロデューサーは平気な顔で次回作に取り組んでいたっていうから驚きだ。当然ながら、その次回作は制作中止になった。
 ここまでのいきさつを辿ってきて石井裕也監督の映画『愛にイナズマ』を思い出してしまった。MEGUMIが演じる女性プロデューサーが、松岡茉優演じる新人映画監督の作品を(ぜひ作品を見てほしいが、あえてこう言って間違いないと思う)盗む。
 そして、主演するはずだった役者が自殺してしまう。YouTubeのシネマサロンを主催している映画関連の宣伝プロデューサーをしていた人たちは、「こんなことはまずないだろう」と話していたが、石井裕也監督みたいに自主制作から来た人にとってはどうなんだろうか?。それに、現に『セクシー田中さん』みたいな事件が起こってるわけだし。
 『セクシー田中さん』のプロデューサーも女性なんだけど、なんのコメントも出さず、次回作に取り掛かってる図々しさを見ると、MEGUMIが演じたあの憎たらしいプロデューサーが思い出されてくる。
 原作者、脚本家、プロデューサー。今回、登場人物が全員女性なのも時代を感じさせた。

amp.natalie.mu


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『彼方のうた』ネタバレ含む

 去年の日本映画の中で『市子』をベストにあげていた人もいたそうだ。あの映画に主演した杉咲花は、私が彼女を初めて認識した『湯を沸かすほどの熱い愛』からとにかく上手い。しかし、杉咲花にかぎらず、その上手い演技を見たくないって感じ、分かっていただける人も少なくないと思う。
 演技が上手いってことは間違いなくよいことで、上手い演技を「くさい」とか「演技過剰」とか貶すつもりもないのだけれど、しかし、映画を観終わったあとに「演技が上手かった」って印象が第一に来る映画はそんなに好きではない。
 小津安二郎濱口竜介の映画はその対極にあるわけだが、そういう意味ではこの『彼方のうた』もまたそういう映画のひとつ。
 監督の杉田協士のインタビュー動画によると、主人公が参加している映画のワークショップは、監督自身が現に15年以上やっていることだそうで、映画のなかでは「あの日、あの時、あの会話」となっていたが、初めてカメラを回す人でも、その人の実際の記憶にあるひとつの短い時間を映画化してもらおうとすると、どうやって撮るか迷う人はいないそうだ。
 そうして迷いなく撮られた数秒間の映画は、シチュエーションがわからなくても、登場人物の関係を知らなくても、それを観る時いつも感動する。
 それを15年ずっと観続けている杉田協士にとっては、そうした「初めて映画を撮る人の人生の一コマ映画」が自分の中での映画のトップなのだそうだ。杉田協士がフィクションで映画を撮る時にも、それが越えられないハードルとしていつも意識にある。普段ワークショップで生徒さんたちに言っているように、説明はいらないので、ちゃんと自分の心の震えたシーンを撮るってことを自分の戒めにしているそうだ。
 そういうふうに撮られているこの人の映画の、前作の『春原さんの歌』は短歌が原作、今回はオリジナル脚本、というその違いは、撮っている時にその短歌が浮かんだか浮かばなかったかの違いにすぎないようだ。短歌が原作ってのを文字通りに信じちゃいけない気がする。
 監督自身が「こんなにネタバレ話していいかわからないんですけど」と言いつつ、主人公が「駅のホームで」と剛(眞島 秀和)に言う、どう目を凝らして観ても映画の中ではそれ以上わからないセリフは、監督も後で気がついたそうなんだが、第1作の『ひとつの歌』と繋がっているんじゃないかと、誰かのツイートで気がついたそうだ。
 また、喫茶店キノコヤの店員は、『春原さんの歌』の主役・沙知を演じた荒木知佳だが、あれは『春原さんの歌』から二年後くらいの沙知その人だそうだ。「映画が終わってもその人の人生は続くので」って言葉で思い出したけど、今泉力哉監督も『窓辺にて』の時にそんなことを言っていた。
 わからないところは観客がどう想像してくれてもいいそうだが、「こうですか」と聞かれれば「違います」と答えるそうだ。禅問答か量子力学論のような話。
 しかし、このスタイルの映画はこれでいったんケリがついたと感じているという監督の言葉もこちらの鑑賞後感に合っている。ラストシーンを撮った後、ファーストシーンを撮り直したそうだ。
 その意味で『春原さんのうた』を見逃したのは残念だった。配信はしてないそうなので『彼方のうた』に大きな賞でも撮ってもらって、その記念上映がされるのを待つしかないか。

彼方のうた Following the Sound
彼方のうた Following the Sound



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『夜明けのすべて』

 三宅唱監督新作。
 この人の過去作品では佐藤泰志の小説を映画化した『きみの鳥はうたえる』を観た。これは原作も読んだので比較できるが、ラストが原作とまったく違う。このラストを撮りたいがためにこの原作を選んだんじゃないかと思うくらい。原作をよく読み込んでいると感じたし、映画が原作の批評でさえあるような素晴らしい脚色だった。
 しかし、キネマ旬報ベストテンで4冠を獲得した『ケイコ、目を澄ませて』は、世評の高さにも関わらず、そして、『きみの鳥はうたえる』が気に入っていたにもかかわらず、結局、観にいかなかった。
 『100円の恋』は好きだし、『ミリオンダラーベイビー』も観てるけど、女性のボクシング映画は、もういいかなって気分でもあった。それに、主演の岸井ゆきのは、『ピンクとグレー』、『やがて海へと届く』など実力派女優なのはわかってるのだけれども、今の気分として、たとえ上手い演技だとしても、見せどころが演技の力量であるような映画は億劫かもという、まったくの先入観で足が向かなかった。
 逆に言えば、その引け目があったからこの映画を観ることができたと思えば、一観客としてはそれはそれでよかったかもしれない。
 パニック障害を発症した青年(松村北斗)とPMS月経前症候群)を抱える女性(上白石萌音)が、偶然、同じ職場で働くことになる。一昔前前なら、バブルでイケイケの頃の日本なら、このシチュエーションはコメディでさえありえたかもしれない。しかし、今は、多くの人々がこれを他人事とは思えない。そういう時代的な確かさがある。その意味で『パーフェクト・デイズ』と似た手ざわりがある。あの映画と同じくこの映画も周囲の人たちの描写もすばらしい。
 あの会社について、監督インタビューでこう語っている。

「そういうところを見てくれるのは嬉しいです。それが、僕が今回やった仕事のほぼすべてだっていうくらい。ちょっと間違うと、ただのだらしない会社になったり、逆にシステマチックになりすぎたりする。あの絶妙なニュアンスを作れたのは、俳優陣のおかげです。」
「あの社員たち、超優秀なんです。彼らを演じたのは、自分より年上のベテラン俳優たち。プレッシャーはありましたけど、みなさんがこの映画を全身で楽しんでくれて、やっぱり一緒に作れた感じ。時間も限られた中、よく同じ画面内で、同時に複数の芝居をしてくれているなあと。」
 光石研をはじめ会社の同僚たちもすばらしいが、松村北斗の元上司を演じた渋川清彦もいい味を出していたし、丹念に描かれていた。
 「二人(松村北斗上白石萌音)をカメラで捉える際は、どんなことを意識していましたか?」、という問いに対しては
「二人を同時に映すこと。それも、なるべく等しい距離から。結果的にそれが一番面白いっていう発見がありました。それはさっき話したように、自分じゃなく相手を見ている、というか、相手を通して自分のことも再発見している二人だからなのかな。彼らの間には、目に見えない何かが生まれています。それをなんと呼べばいいかはわかっていないですけど、それが映っていると思います。目には見えないけど。」
「あと、二人がやりとりしているということのリアルを撮りたかった。二人の“間”は、たとえばカットバックで撮影すれば後から編集でいくらでも捏造できてしまうものですけど、そうではなくて、二人をそのまま産地直送したかった。」
 こういう作業が原作を実写化する意味なんじゃないだろうか。
 「社員の息子である中学生のダンくん(サニー・マックレンドン)が部活動の一環として、もう一人の部員と一緒に、栗田科学のドキュメンタリーを撮」るのも原作にはないそうだが
「これは青春小説ではないなと思ったんです。働く人たちの物語ですよね。だからこそ、彼らより若い、就職する前の人にも出てきてほしいなと思って。」
 と同時に
「インタビューでこの会社が何をやっているかを端的に説明できるし、なんて考えていたら、それ以上に、めちゃ魅力的な二人に出会えた。二人とも真剣で、めちゃ好きでしたね。」
 ラストも原作とは違うそうだ。インタビュー記事にリンクしておくので是非確認していただきたい。原作小説の映画化はそれ自体がひとつの創造であると言えるのはこういう行為を指すと思う。
 たとえば濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』の原作は村上春樹の短編だけれども、原作を離れつつ村上春樹の世界観を感じさせる。それでいて濱口竜介自身の演劇論でもある離れ業のような脚本だった。カンヌで脚本賞を獲ったのもうなづける。
 話が逸れてるのは、『セクシー田中さん』の事件があったからで、小説から映画への脚色の場合は、時間的な制約があるし、文字作品を視覚作品に移し替えるわけで、映画化は初めから脚色が折り込まれている。
 これに対して『セクシー田中さん』のようなマンガからTVドラマという場合は視覚作品から視覚作品への翻案である時点で、原作の持っているイメージの力強さを実写が超えるってことは至難の業。実際には、TVドラマのキャラクターは原作のイメージに依存している場合が多い。ハリウッドでも日本マンガの実写化で成功した例は思いつかない。
 つまり、『セクシー田中さん』の脚色は、設定やイメージをほぼ全面的に原作に依存しつつ、原作に対するリスペクトも批評性もない、原作に対する冒涜だったと結論してよさそう。
 想像するに『セクシー田中さん』の脚本家は、原作を読み込むこともせず、設定だけもらって、流れ作業でありきたりなラブコメディーを量産するだけが得意な、TV局にとってだけ便利な脚本家だったのだろう。それがよい脚本家とされている日本のTVドラマの現状からはよい作品は生まれてこないのだろう。

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『一月の声に歓びを刻め』ネタバレ

 三島有紀子監督作品では『幼な子われらに生まれ』が印象に残っている。浅野忠信田中麗奈宮藤官九郎、は記憶に残っていたが、あの時の田中麗奈の連れ子を演じていた子は南沙良だったようだ。 
 重松清の小説が原作、そして、脚本は荒井晴彦だった。この布陣だとやっぱりいい映画になる。役者としての宮藤官九郎のうまさも楽しめる。
 今回の『一月の声に歓びを刻め』は、三島有紀子のオリジナル脚本。重松清荒井晴彦の『幼な子われらに生まれ』に比べると、これは仕方ないが、やはり弱い。と言って悪ければ、手ざわりがごつごつしている。
 洞爺湖の中島、東京の八丈島、大阪の堂島(は、島じゃないけど)と、島が舞台の独立した3つの短編のオムニバス。
 洞爺湖編は、最良と最悪が共存している。
 最良なのはカルーセル麻紀の存在感。演技者としてのこの人を久しぶりに見たけど圧倒される。これだけでも観る価値がある。昔、辻仁成監督の映画に『ACACIA』ってのがあった。映画そのものはもう憶えていないが主演のアントニオ猪木の存在感だけは忘れられない。今回のカルーセル麻紀のマイムはそれに比肩する。
 最悪なのはその設定なんだけど、公式サイトを引用すると「マキ(カルーセル麻紀)はかつて次女のれいこを亡くし」「それ以降女性として生きてきた」は、そうとう無理。ありえないと言いたいくらい。
 娘がレイプされて殺された、そのショックでペニスを切り落としたも、かなり無理。百歩譲ってそれがありうるとしても、何でそれから女性として生きる?。ペニスのない男=女性じゃないじゃん。それは無理。だし、何ならLGBTの視点からは批判の対象になりかねない。
 これは映画が進んでうすうす分かる、というか、想像できることには、3つめの堂島のエピソードに無理矢理つなげたかったための無理なのかもしれない。
 ふたつめの八丈島のエピソードが、明るくて前向きで、個人的には好ましい。哀川翔もいい。が、説明的なシーンがくどすぎる。「事故発生現場」の看板を3回も続けて映さなくても、あとでセリフで説明するんだし、それは分かるし。
 それに「性加害」に関係する洞爺湖編と堂島編にこのエピソードが挟まれていると、このエピソード自体が別の意味を付与されてるようにもとれる。と、それはちょっとケミストリーというよりこじつけに思えなくもない。せっかくの明るいエピソードが作りっぽく見えちゃう。
 堂島編に描かれているエピソードは、監督自身の実体験だそうだ。
 ここで、最近、週刊文春由来の「性加害」という言葉について説明しておきたい。山口敬之の事件はレイプだった。ワシントン支局長らしく、レイプドラッグを使用しているし、被害女性はその日のうちに病院と警察に駆け込み、逮捕状も発行されてる。もし彼が安倍晋三の関係者でなければ逮捕されていただろう。
 じゃあ「性加害」ってのは何なのか?。レイプとどう違うのか?。松本人志の場合、被害女性はその日のうちに感謝のLINEを送信している。そんなレイプはないわけ。本人もレイプではないと思っているので「性加害」って言葉を使うのだろう。
 「性加害」って言葉はジャニー喜多川のケースから使われ始めたようだ。だとすると、「性加害」はたぶん「sexual abuse」を言いたいのだろうと思われる。一般的には小児や幼児に対する性的な行為に使われる。大人どうしの関係で「sexual abuse」はちょっとおかしい。なので「芸能界で強い影響力のある松本人志」という説明を付与しなければならなくなるのだが、しかし、本人が「ワイドナショーに出ます」と言っても出してもらえない立場が強い影響力と言えるか?。「性加害」って言葉は幼児小児、もしくは、身体に障害がある場合に限って使われるべきなのに、ジャニー喜多川の事件から拡大利用されている。
 ジャニー喜多川の事件はあれがまさに「性加害」だった。最近では伊東純也が「性加害」で訴えられているらしいが、大人の男女間で「性加害」は何を言ってるかわからない。「レイプ」と言えばいいのにそう言わない時点で訴えてる本人も「レイプ」の意識はないのが明らかだ。追加で松本人志を非難している女性がいるが、「あんな不愉快な思いはしたことがない」って、「不愉快なセックス」はもちろんありうるだろうが、それを言い出すと不愉快な恋愛、不愉快な職場、不愉快な食事、と何でもありうるので、それは犯罪でもハラスメントでもない。ホント大丈夫か?。
 話を元に戻す。前田敦子の堂島編は、過去のsexual abuseのトラウマで、愛していた人とセックスができなかった。そして、その彼が死んだってとこで踏みとどまった方が良かった気がする。モノクロームの映像で街の人が映り込む感じが良かったが、空回りしてるように感じた。 
 エピローグのカルーセル麻紀もすごく良かったが、でも、「れいこ、お前は汚れてなんかいないぞ」と叫ぶ時点で、汚れてると思ってるってことなので、亡くなって何十年も経ってまだその穢れの感覚が拭い去れないのは、あまりにも救いがない。
 というわけで、美しい映像、役者の存在感、に比して、シナリオが噛み合っていないって感じがした。

ichikoe.com

『コット、はじまりの夏』

 今年観た映画の中では今のところこれが最良。
 個人的には小さい女の子が主役の映画はどうも合わないのだけれど(例えば『秘密の森の、その向こう』とか、セリーヌ・シアマ監督では名作だった前作『燃ゆる女の肖像』と同じくらい評価が高いのが、わたしはよくわからなかった)、この映画は、キャサリン・クリンチ演じるコットもさることながら、実は、コットがひと夏をすごすアイリーン(キャリー・クロウリー)とショーン(アンドリュー・ベネット)夫婦との家族の物語が実はメイン。
 それで、わたしがなぜ女の子の話が苦手なのかわかった気がした。わたしが苦手なのは「いや、それ言われても…」っていう少女マンガ風ミーズムっていうか、わかっていただけるかどうか、何で泣いてるかわかんない女の子のまわりを女の子が取り囲んでこっちを睨んでる感じの女の子のストーリーが苦手だったみたい。この映画は主人公が男の子でも全然成立する。
 監督・脚本のコルム・バレードの語り口も見事。初長編というから驚かされる。西川美和とか令和ロマンとかそんな感じ。新星が現れましたって誰にもわかる。奇を衒わない日常的なテーマでこれだけ新鮮な感動を描いて見せたのも素晴らしい。
 キャストも監督もほぼアイルランド人で固めて、英語よりもアイルランド語の方が多用されているのも土着の感じがあってよかった。
 前にも書いたけど、エマニュエル・トッドの分類では、日本人とアイルランド人は家族の型が同じだそうだ。権威主義型というのだけれど、地政学的には全く違うのに、日本人とアイルランド人は感覚がすごく似てる。リチャード・ギアが日本贔屓で、忠犬ハチ公を映画化してしまったなんてことも起きる。
 この映画は世界中の映画祭で賞レースを席巻しつつあるみたいだけど、実は日本人にいちばんハマる映画なんじゃないかと思っている。

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『ファースト・カウ』『ダム・マネー ウォール街を狙え!』

 この2つの映画はつまり「ファースト・カウ」と「レイテスト・カウ」。
 アメリカ人(にかぎらず、だろうが)は、ずっと貧しさから抜け出そうともがいてきたって話なんだけど、「ファースト・カウ」のWEBには「おいしい話にご用心」とキャッチコピーがあってがっかりくる。この話のどこが「おいしい」?。中国系のキング・ルーなんて文字通り裸一貫で逃げてきてるんだし。
 キング・ルーにだけついて言えば、彼を破滅に導いたのは、彼の欲望だったか、彼の優しさだったか議論の分かれるところだろう。金を持ち逃げしようと思えばできたのに、結局、クッキーを待った。多分、裏切るって選択は、この人にはハナからない。そもそもの最初が友人の仇を撃ち殺して逃げてきたんだし。徹底的に男性原理を信じて生きている。仁義に殉じているともいえる。
 でも、この監督の描きたかったのは河なんじゃないかと思った。冒頭に映される河は何の説明もなくても現代の河だとわかる。むしろ、西部開拓時代の河のあのロケーションはどこから探してきたのか知りたい。
 『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』のリリー・グラッドストーンが出てるのも嬉しい。この映画の方が先なんだと思う。
 『ダム・マネー ウォール街を狙え!』は、ほぼ実話らしい。原作はベン・メズリックの『The Antisocial Network』(2021)でまだ邦訳されていない。ちなみにベン・メズリックは映画『ソーシャル・ネットワーク』の原作『facebook 世界最大のSNSビル・ゲイツに迫る男』を書いた人。
 監督のクレイグ・ギレスピーは『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』を撮った人でもある。
 WEBサイトの監督メッセージには
「この題材について確実に言えること。それは、もし私が当時24歳の息子と一緒に暮らしていなかったら、私のレーダーに引っかかっていなかったということです。
 ゲームストップ騒動は、単なる株取引の話ではありません。当時は、この国における新型コロナ、孤立感、社会不安が深刻な問題になっていました。そこに現れたのが “ローリング・キティ”です。
 息子は早い段階でゲームストップ株へ投資していたので、私は息子を通して、ゲームストップの物語のスリルや興奮、フラストレーションや恐怖を味わえました。そのおかげで、作品を監督する際にはいつも出発点としている、感情のレベル、人間的なレベルでこの作品に取り組むことができました。」
 コロナ禍の孤立感が背景にある中で、WallStreetBetsという掲示板型ウェブサイト、レディット内のフォーラムで繋がった人たちが、世界の富を独占する1%のヘッジファンドに一泡を吹かせる。大逆転とはいかないけれど痛快。
 こういうことが日本では起こりにくいと思ってしまうのが本当のところなんじゃないか。陰謀論の拡散はアメリカ並みに起こるのに、こういう前向きな個人の連帯はなかなか起こらない。日本人は個人と個人の結びつきが起こりにくい。他人を信用しないからこその礼儀正しさが日本人の根底にある気がする。迷惑をかけないことが日本人の信条ではないか。他人に迷惑をかけられることが社会の本質と刷り込まれているキリスト教社会の美点をここには感じる。
 日本にもそもそもは喜捨の思想があり、それが福祉を支えていたのだけれど、日本の近代化は同時に欧米化であったので、近代化の根底に宗教の否定がある。日本社会は日本人自身の評価とは違い、むしろ、欧米よりはるかに個人的で社会性が欠落している。その分、個人の行儀よさに頼って社会秩序が保たれていると言える。
 聞くところによると、この映画は、一ヶ月そこそこで撮られたそうだ。スピルバーグの『ペンタゴン・ペーパーズ』が50日で撮了したと話題になったが、こういう反射神経の良さ、速報性にも、アメリカの心意気を感じる。


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