『シン・ウルトラマン』

 初日に観る『シン・ウルトラマン』。
 庵野秀明は『シン・エヴァンゲリオン』よりはるかに楽しんでる。たぶん、エヴァウルトラマンとでは当然ながら庵野秀明のスタンスが違う。シンプルにウルトラマンのファンとして楽しんでいると見える。驚いたことに三木聡監督の『大怪獣のあとしまつ』のオマージュが入ってる(としか思えない)。岩松了嶋田久作はほぼ同じ役柄で出ている(ちょっと閣内で移動してるだけ)。それに「怪獣の後始末」というセリフが無意識に紛れ込むとは思えない。けど、どうなのかなぁ?。
 オズワルドのラジオ聞いてると、彼らの世代では「ウルトラマンって何?」ということらしい。だからそういう世代にどう受け取れるかわからないが、メフィラス星人とかゼットンとかゾフィーのエピソードの再解釈がすごく上手くできてた。
 岡田斗司夫と一緒に大学生の頃に撮ったウルトラマン庵野秀明の原点だそうだから、その頃から反芻してきたコンセプトなんだと思う。
 山本耕史メフィラス星人が秀逸。「新撰組!」の土方歳三から定着してきたキャラクターが上手く効いている。『大怪獣のあとしまつ』いじりと言い、そういう既成のイメージを使うシャレっけを庵野秀明が見せたのが意外。けっこう笑えるところも多い。つうか、全編笑おうと思えば笑える。
 庵野秀明が「総監修」で、樋口真嗣はじめいろいろのサブタイトル付きの監督が複数いるのもサークルのノリで楽しい。
 庵野秀明のカメラアングルはすごく独特だと思う。『ラブ&ポップ』と撮影監督が同じなのかなと思ったけど違う人なのでやっぱり庵野秀明監督の感覚なんだと思う。

shin-ultraman.jp

『証言モーヲタ 〜彼らが熱く狂っていた時代』

 映画『あの頃。』は関西のモーヲタだったけど、この本は東京のモーヲタだった人々をほぼ網羅的に取り上げたインタビュー集で、これがこういうインタビュー形式の小説だったとしたら名作と言われたかもしれない。
 個人的にはどんなアイドルにも夢中になったことがない。何ならプロ野球チームでさえ特定のチームを応援するというより選手個人の活躍が気になる方で、テレビで巨人ファンの座談会とか、昔はあったんだけど、見てたら松井秀喜をこきおろしたりしていて、ファンって何なんだろう?と気味が悪かったりする方だ。
 音楽でほんとに熱中したといえるのはビートルズくらいなんだけど、それももちろん同時代的ではない。バナナマンのバナナムーンでオークラさんがビートルズファンを公言しているけれど、たぶんオークラさんもアイドルとしてのビートルズって観点は持ち合わせてないと思う。
 しかし同時代のビートルズは、間違いなくアイドルだったわけで、今でも映像で見ることができるが、あの当時のワーキャーぶりは、オークラさんが同時代人だったらどう思っただろう。
 後追いの私たちは、後追いになればなるほどビートルズをミュージシャンとしてのみ捉えている。あの熱狂は何だったのかは、正直言って彼ら自身も理解できないと思うのだ。
 それに彼らの音楽についての考察、例えば、リンゴ・スターのドラムがいかに素晴らしいかとかに比べると、彼らに熱狂した女の子たちが何者だったのかなんてどうでもいいように思えてしまう。
 話がモーニング娘。ハロプロとなってくるとさらに微妙になってくる。音楽について言えば、日本の80年代、90年代の音楽シーンを代表するのは、今、世界的に評価されているシティ・ポップなのか、それともハロプロなのか、わたしには何も言えないが、モー娘。つんくさんの音楽が再評価されることは十分に起こりうる。しかしそれでも、モーヲタの熱狂が思い起こされることはまずない。現に、この本の中の何人かは自分たちの熱を思い起こすことができない。
 その意味でも夢みたいなもので、見ている間はあんなに怖かったり楽しかったりしたものが覚めるとどうしても思い出せない。わたしたちはわりと簡単に狂ってしまう。
 何かを追い求める気持ちが先にあってそれが対象を見つけるのであってその逆ではない。これは私が言ってるのではなくホッブズがそう言っている。その通りだと思うな。その結末はそれぞれに違う。なんとなく芥川龍之介の「秋山図」を思い出した。
 吉田豪は映画『あの頃。』の登場人物のモデルを全員知ってるのでいい映画なのかどうなのか、全然冷静に見られなかったと言っていた。

くじ引き民主主義

 くじ引き民主主義について東浩紀YouTubeで話していた。政治家を選ぶ制度としての選挙が行き詰まっているのは誰の目にも明らかなのに、日本人はいつまでも古い制度を変えられない。フランスではくじ引き民主主義がとっくに実用段階に入っている。日本人は本質的に怠慢なんだと思う。自律的というか、自己発生的な文明の持ち合わせがない、とは言いたくないのだけれども、中国や西洋の文明を第一義としてやってきたので、独力で文明を切り開いていく勇気がない。
 ソクラテスが「悪法も法なり」というと自律的な法治社会に対する知識人の覚悟を示している気がするが、日本人がその口真似をすると、法律は自分たちでは変えられない、お上には逆らえないというニュアンスにしかならない。
 選挙の結果、世襲議員が増殖するだけなら、戦国時代の殺し合いの方がまだ理にかなっていることになる。
 くじ引き民主主義はずいぶん前から話題になっているし、先進国では取り入れられている例も多いわけだが、日本の政治家はそれを俎上にのせることすらしない。日本の政治が既得権益化しているよい証拠だろう。


www.youtube.com



www.youtube.com

モディリアーニ展 大阪中之島美術館

《髪をほどいて横たわる裸婦》アメデオ・モディリアーニ

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/knockeye/20220504/20220504000111_original.jpg

 今年2月に開館した大阪中之島美術館で初の特別展となるモディリアーニ展に行ってきた。中之島美術館所蔵のこの裸婦が撮影可になっていた。
 大阪市がこれを購入した1989年には批判もあったそうだが、当時の落札価格19億円と聞くと、たぶん頭がバカになっているせいだと思うが、安い買い物に聞こえる。ちなみに検索してみると、2015年に競売にかけられたモディリアーニの《横たわる裸婦》は、一億七千四十万ドル(約210億円)、2018年の《横たわる裸婦》は一億五千七百二十万ドル(約173億円)だった。200億円を超える今の価格なら、さすがに買えなかったろう。美術館の所在地が、先物取引発祥の堂島であることを思いあわせると、痛快に思えぬこともない。
 モディリアーニはもともと彫刻家志望だった。病弱だったことと経済上の理由で画家に転身した。そういうわけで、裸婦のボリュームが素晴らしい。
 特徴的な長い首と顔はアフリカ彫刻に影響されただろうと言われている。渡仏したばかりでまだスタイルを確立していなかった頃の藤田嗣治が明らかにモディリアーニ風の肖像をひとつ描いている。
 後に「乳白色」の裸婦を発明する藤田嗣治といい、モイズ・キスリングといい、「真珠母色」と呼ばれたジュール・パスキンといい、エコール・ド・パリの画家たちは個性的な裸婦で艶を競った。
 というのは、ひとつには、日本、ポーランドブルガリアと、仲間にフランス人は一人もいないわけで、彼らにはアカデミズムと共有する価値観がない。エコール・ド・パリという彼らの呼称はフランスの伝統的な美術教育機関であるエコール・デ・ボザールを意識した言葉遊びであるにはちがいないだろう。
 マネの《オランピア》の裸婦が問題になったころを思うと隔世の感がある。ただ、画廊の窓から見える位置にモディリアーニの裸婦があると警察が踏み込んでくることもあったそうだ。
 この展覧会は巡回しないそうなので、大阪を訪ねる機会のある方は足を運ばれてはいかがかと。

modi2022.jp

日本語脳、養老孟司、『愛なのに』の更なるネタバレ

 養老孟司が日本語脳について話しているYouTubeを見た。
 ひとつの文字にふたつ以上の訓みが存在する言語は世界に例がないと、言われてみれば確かにそうかもしれない。そのために日本人の言語脳には独特のクセができたという。
 それで思い当たったんだけど、あの「天皇の赤子(せきし)」って言葉。いつ思い返しても背中に怖気が走る。あの言葉の気持ち悪さは確かに日本語の特殊性に依っている。
 「天皇の赤子(あかご)」と訓んでいれば誰でも「んなわけないだろっ!」と突っ込んで終わりなのだ。その「赤子(あかご)」を「赤子(せきし)」と読み替えるだけで、何か別の回路が働いて、まともなことを言っている気がしてしまうおそろしさ。そういう子供だましを許す構造が脳のクセにあったとしたらやはり恐ろしい。
 他にも、正岡子規が故郷を離れて上京するという時に、学友を前に打った弁舌に「国会」を「黒塊」になぞらえたというのがあった。それを聞いて皆涙したという。
 詩人らしいとも言えるが、時代の変革期に若者が民主主義について語る弁舌としては余りにも中身がない。この言語をめぐるクセが、日本に政治を根付かせていない可能性はある。
 堀田善衛ギリシャの郵便局に並んでいると、おばさんが来て「ultima?」と尋いてきた。堀田善衛の頭の中では「ultima」は哲学用語なので面食らったが、おばさんは「あんたが列の最後尾か?」と尋ねただけだった。当たり前のことだけど、ギリシャの哲学者たちは自分達の日常の言葉で哲学していた。そのことに今さらショックを受ける日本人が異常なのだ。

 『愛なのに』の主人公に求婚する女子高生が、「これで最後にするから手紙に返事をくれ」といって白紙の便箋を手渡す。そこで主人公は自分の曖昧な気持ちを言語化する必要に迫られる。
 と同時に、長年の片思いの相手と、愛のない肉体関係を結ぶことになる。観念的だった主人公の恋愛が突然に肉体化する。
 書き上げた手紙を女子高生の両親が見つけて乗り込んでくる。両親はその手紙を「キモい」としか言わない。手紙の中身をまともに受け止められないのだ。たぶんこの両親は思いを言語化したことがない。そのため、思いを言語化できる他者を「キモい」と感じる。
 父親を殴ってしまった主人公に翌日また女子高生が手紙を持ってくる。何か言いかける主人公に「(両親のことが)私たちに何か関係あります?」と言う。思いを言語化しない両親が娘とコミュニケーションを失っていることがわかる。
 確かに、思いを完全な形で言語化することはできない。しかしそれを恐れて思いを言語化しない人は、無個性な言語(たとえば「キモい」、たとえば「天皇の赤子(せきし)」)に自己表現を明け渡すことになる。無個性であるからそれは集団化しがちで、それがいじめにつながる。
 思いを言語化しないかぎり、人は自分自身でいられない。ひとつの文字に複数の訓みがある言語のおかげで、私たちの言語は日常の地平から浮き上がってしまう。「直す」を「改善」と言い換え、さらに「innovation」と言い換えることで、何かを言った気持ちになる。そして言葉が個人から離れ、集団化し、非人間的な残虐行為も許してしまうことになる。いったん「皇軍」と名付けられると何でも許される気がする。
 単に「思考停止」というより、思いを言語化しなければならない時に、訓読みから音読みへの変換に逃げてしまうのだ。中国や西洋という先進の文化に依存してしまうならまだしも、言語の二重性の中に誤魔化してしまうのだ。
 トランプとともに発生したかに見えた「alternative fact」は、実は、日本語に古くから根付いた宿痾だったことになる。


www.youtube.com

『愛なのに』、『猫は逃げた』、『白い牛のバラッド』ネタバレあり

 『街の上で』の今泉力哉監督と『アルプススタンドのはしの方』の城定秀夫監督が互いの脚本を交換して監督した2作。
 『愛なのに』が今泉力哉が脚本、城定秀夫監督、『猫は逃げた』が城定秀夫脚本、今泉力哉監督。気をつけてないとどっちがどっちかわからなくなる。
 『愛なのに』も『猫は逃げた』もベッドシーンがありR15指定になっている。同日に『白い牛のバラッド』というイラン映画を観た。イランは『別離』のアスガー・ファルハディ監督が抜群によいし、他にもジャファール・パナヒ、アッバス・キヤロスタミなど映画文化の豊かな国だ。奇しくも今回の『白い牛のバラッド』も『愛なのに』、『猫は逃げた』と同じく婚姻関係のない男女の恋愛を扱っているが、ことセックスの表現においては、日本映画の方が圧倒的だった。改めて、オープンであることの価値について考えさせられた。
 『愛なのに』の瀬戸康史さとうほなみのベッドシーンも、中島歩と向里祐香のベッドシーンも、AVのベッドシーンとはまるで違う。AVで言うところの「抜けない」というのを超えて、笑っちゃったり、何なら物悲しかったりさえする。ベッドシーンにも千差万別の個性がありうるわけ。
 『白い牛のバラッド』には、イスラム教国の映画なので(なのかな?)そもそもベッドシーンなどはなく、そういう関係を示唆するシーンがあるだけ。そういう思わせぶりがばかばかしく見えてしまう。もし、日本でも性表現に厳密な規制があったとしたら、今回みたいな笑えるベッドシーンは撮れなかったと思う。観る側、撮る側、演じる側、すべての意識が違っていたと思う。
 貞節や純潔の価値はそもそも財産分与のためのもので、それ以上でもそれ以下でもない。DNA鑑定などがない時代は、わが子を証明する唯一の証拠といえば純潔と貞節しかなかった。つまり、純潔や貞節は、女を産む道具とする価値観にすぎない。
 にもかかわらず、なぜか宗教も倫理も純潔という価値を無批判に受け入れてきた。セックスを脇に置いて、まるでなかったことのように扱ってきた。親鸞聖人が仏教を大衆化したという意味は、親鸞聖人自身が肉食妻帯したにつきる。その一点において、やはり浄土真宗は他の宗派とはまったく違う。植木等が歌ったように「わかっちゃいるけどやめられない」のだ。
 『愛なのに』の主役が瀬戸康史だったのにはいい面と悪い面がありそうだ。いい面はもちろん瀬戸康史がいい役者さんだということ。そして悪い面は、瀬戸康史はこの主人公にはイケメンすぎないかという点。さとうほなみとのベッドシーンは、たとえば誰だろうな、空気階段の水川かたまり(イケメンではあるが)とか、三四郎小宮浩信とか、中島歩とのコントラストがもっと効いていたほうがよかった気がする。
 瀬戸康史ほどイケメンだと、女子高生の両親が乗り込んできた時のパンチにも欠ける気がする。イケメンだと、母親の「キモいんですけど!」というセリフがいまいち効かない。シャワーを浴びながら「最悪だ」と呟くシーンももっとブサイクの方が切実に響くと思う。
 こういうの「ルッキズム」と言われてしまうのかな。でも、30代の古本屋の亭主が女子高生に告白されるというシチュエーションも、瀬戸康史だと「そりゃそうでしょ」ってなっちゃう。三四郎小宮浩信なら、そこでひと笑いとれる。
 その意味では中島歩は文句のつけようがないキャスティング。濱口竜介監督の『偶然と想像』よりいいぐらい。セックスの下手なモテ男って実際にいるらしく、昔、YOUさんがトリンドル玲奈大橋未歩とやってた深夜番組で、「100人斬りとか言ってる人で「えっ、これだけ」って人いるよね」とか大人な発言をしていた。人数に走っちゃうって案外そういうことなのかもしれない。ただそういうモチーフの扱い方が、今泉力哉脚本さすが。愛とセックスの上手い下手を天秤にかけて見せる。
 『猫は逃げた』の主演の毎熊克哉は『愛なのに』にも出てた。何なら瀬戸康史も『猫は逃げた』に出てる、声の出演ではあるが。猫もおんなじ猫が出てる。
 瀬戸康史の声のところめちゃくちゃ可笑しかった。あれは映画監督役のオズワルド伊藤がやったセリフそのまま瀬戸康史の声にしたそうだ。図らずも(たぶん)オズワルド伊藤の演じた映画監督がタイムリーな役柄になった。
 いや、だから、「こんな映画監督がいたらいやだ」って大喜利の答えみたいな、園子温がそんな映画監督だったってありうるんだろうか?。確かに奥さんの神楽坂幸恵さんは『ひそひそ星』の主演女優だけど、それを言い出したらそれはいっぱいいるわけで。周防正行しかり、石井裕也しかり。
 石井裕也で思い出したけど、毎熊克哉は『生きちゃった』にも出てた。あっちでは寝とる方だったけど。『生きちゃった』に比べても『愛なのに』に比べても『猫は逃げた』はぐっとソープオペラっぽいかもしれない。「泥棒ネコの上にネコ泥棒じゃない?!」っていうパンチラインは、もしかしてそれが言いたかっただけ?ってくらい効いているので、反射的に笑っちゃった。
 お互いの脚本をどれくらい変えたのか知りたい気もする。
cinemore.jp