『ぐるりのこと。』4Kリマスター版 ネタバレ

 橋口亮輔監督の代表作といってよいだろう2作品『ハッシュ!』と『ぐるりのこと。』が4Kリマスター版としてリバイバル上映されている。
 『ハッシュ!』を観逃しているので、この機会を逃さないつもりなのでけれども、上映日の都合で『ぐるりのこと。』が先になった。
 2008年公開のこの映画には感動した証拠には、今でも色々と思い出せるシーンが多いつもりだったけれど、実際に観なおしてみると、最初に観た時よりもさらに味わいが深く感じられた。
 特に、木村多江の演じた翔子に、橋口亮輔監督の自己がいかに色濃く投影されていたかについて、当時も監督自身の鬱経験が翔子のキャラクターに生かされていると、インタビューなどで知っていたにもかかわらず、そこに作家の影を、というか、この映画全体の重心がそこにある重さについて、あまり感じ取れていなかったと気付かされた。
 ひとつには、リリー・フランキーに目を奪われたせいもあった。鮮烈な映画デビューだった。厳密にはまったく演技初体験というわけではなかったそうだが、事実上はズブの素人と言ってよかったはずだ。
 それだけではなく、リリー・フランキーは、2006年に発表した初の長編小説『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』が、200万部を超えるミリオンセラーになり、過密スケジュールに忙殺されていた。
 実は、リリー・フランキーと橋口亮輔が出会ったのは、監督の前作『ハッシュ!』に、リリー・フランキーがレビューを書いたのがきっかけだったそうだ。
 リリー・フランキーは『ぐるりのこと。』に出演することに、だいぶ長いあいだ躊躇していたそうだ。というのも『ハッシュ!』に感銘を受けていたからで、ほぼ演技経験のない自分が『ハッシュ!』の橋口亮輔監督の次回作に出る?、は当時のリリー・フランキーにしてみれば冗談じゃないと思ったのも無理はなかった。
 しかも、木村多江のスケジュールが倉本聰に半年間抑えられてしまって、リスケジュールしなければならなくなった。再度の出演を頼みにゆくとき、リリー・フランキーが出演を渋っていたことも、小説のヒットで忙殺されていることも知っていた橋口亮輔は半ば断られる覚悟で訪ねたそうだ。
 「いや、その時期はリリーはロンドンで・・・」と言いかけたマネージャーを制して、「橋口かんが気持ちよく撮ってもらえるのが僕の望みだから」とリリー・フランキーが言った時に、橋口亮輔は「だから翔子はカナオ(リリー・フランキー)を選んだんだ」と確信したそうだ。
 以下のYouTubeで監督自身が語っている。映画の面白いところは、作家が書いたものを演者がさらに深めてくれるところだろう。こういうことがいつも起こるとはかぎらないが、これがある映画はまず間違いなく高みに上ることになる。

 そして、『ぐるりのこと。』を今観る意味のひとつは、演者のラインナップのすごみ。
 リリー・フランキーがデビューした記念的作品であるだけでなく、今は、この人が出てるなら観たいと思う役者さんがいっぱい出てる。さすがに、八嶋智人、寺島進、光石研は当時から有名だったと思うが、兄嫁役をやってる安藤玉恵、引越しの手伝いに来る佐藤二郎と内田 慈、法廷にいた古舘寛治、下の階に住んでる江口のりこなどなどは当時の私にはまったく馴染みがなかった。今回驚いたのは黒田大輔が出てたこと。この人は『恋人たち』のワークショップから参加した人だと思ってた。『恋人たち』は2015年なのでだいぶ面持ちが変わっていた。
 それともうひとつ良かったのは、新井浩文が出てる映画は根こそぎ上映禁止みたいな一時期の風潮がなくなったらしいこと。
 あの事件も叩きやすいところを叩いただけだってことは、TBSの山口敬之が証明したと思う。
 ほんとにいい役者さんだったから残念だった。


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フェミニストにとってペニスとは何か?、AIに聞いてみた

ファッロ
フアッロ

フェミニストにとってペニスとは何か ?

 フェミニストにとってペニスとは、単なる男性の身体的性器を超え、社会的な権力、支配、あるいはジェンダー秩序や欲望の象徴(ファルス)として捉えられるものです。フェミニズムの立場や文脈により、身体の部位としての認識から権力構造の批判まで、多角的な議論がなされています。

  • 身体的特徴としての性器

人間の持つ多様な身体の一部である。
性別やジェンダーを決定づける絶対的な基準ではないとされる。
生物学的な差異として中立的に存在する。

  • 権力と支配の象徴(ファルス)としての見方

家父長制社会において、男性中心主義や権力を支える比喩として批判的に扱われる。
「ペニスを持つこと」が特権や優位性と結びつけられてきた社会構造を問題視する。
精神分析(フロイト理論など)における「男根一元論」や「ペニス羨望」といった、男性を標準・優位とする見方に対する異議申し立てがなされてきた。

  • 性暴力やポルノグラフィをめぐる議論

性的支配や暴力の手段・象徴として描かれる表現(暴力的なポルノなど)が、女性に対する不均衡な力関係を再生産していないかが議論される。

ペニスがファルスとなるメカニズムは ?

ペニスが「ファルス( phallus / 権力や特権の象徴)」へと変換されるメカニズムは、主に家父長制の社会構造と、フランスの精神分析医ジャック・ラカンなどの精神分析理論によって説明されます。

単なる肉体の一部が、社会的な支配のシンボルになるプロセスは以下の通りです。

1.身体構造への「意味」の付与(社会的構築)

 生物学的な差異(ペニスの有無)に、社会が「強さ」「優位性」という価値を後付けする。

 家父長制社会が、男性器を持つ者に相続権や決定権などの特権を集中させる。

 その結果、ペニスという肉体が、目に見える「特権の証明書」として機能し始める。

2. 言語と法への組み込み(ラカン理論)

 乳幼児は最初、母親と一体の感覚(母子密着)の中にいる。

 そこに父親(の法、社会のルール)が介入し、母子関係を引き離す。

 この父親の介入(「父親の名」)によって、子どもは社会の言語システム(象徴界)に入る。

 このとき、母親を引き離す「圧倒的なルール・権力」の象徴として、父親の身体的特徴であるペニスが「ファルス(象徴)」へ格上げされる。

3. 欠如の隠蔽と「所有」の幻想

 ラカンによれば、人間は誰しも完璧ではなく、常に満たされない「欠如」を抱えている。

 しかし社会は、「ファルスを持つ者(男性)は完璧で、権力があり、すべてを満たせる」という幻想を作り出す。

 物理的なペニスを持つ男性が「自分はファルス(特権)を持っている」と錯覚し、持たない女性を「欠如した存在」と定義することで、支配関係が固定化される。

4. 文化・メディアによる再生産

 神話、宗教、芸術、現代のメディアにいたるまで、男性器を模した造形やイメージが「豊穣」「権威」「力」の象徴として繰り返し描かれる。

 日常的な視覚表現や言説を通じて、「ペニス=力=ファルス」という結びつきが人々の無意識に刷り込まれ続ける。

このように、物理的な器官(ペニス)に、社会制度や言語システムが「特権・権力」という記号を過剰に書き込むことによって、ファルスへと変貌するメカニズムが成り立っています。

ヴァギナが崇められてきた社会との比較は ?

 ヴァギナ(女性器)が崇拝されてきた社会や歴史的文脈との比較は、「ペニス=ファルス(権力・言語の法)」という近現代の男性中心主義的な構造を、別の視点から相対化する上で非常に重要な議論です。歴史的・人類学的にヴァギナや女性の身体が崇められてきた社会(母神信仰や地母神崇拝など)と、ペニスがファルス化する社会には、「生命創出への畏怖」と「社会的・言語的権力の誇示」という根本的な性質の違いがあります。

1. 象徴するものの違い:生命の源泉 vs 社会的支配

 ヴァギナ(生殖・豊穣の象徴) :

 多くの古代社会や原始宗教において、女性器(ヨニなど)は「無から生命を生み出す神秘の門」や「大地そのもの」として崇められました。ここでの崇拝は、自然のサイクル、生命の誕生、死と再生、作物の豊穣といった、人間のコントロールを超えた大いなる力への「畏怖(恐れと敬意)」に基づいています。

 ペニス(ファルス=社会・法の象徴) :

 家父長制におけるファルスは、自然の力ではなく、社会的な秩序、法律、言語、階級、所有権といった「人間(男性)が作り出した人工的な権力構造」を象徴します。

2. 崇拝の質のプロセスの比較

 ヴァギナの神聖化(内在的な神秘) :

 ヴァギナの崇拝は、子どもが生まれるという「目に見える奇跡・事実」に直結しています。肉体が持つ内在的な機能そのものが神聖視されるため、高度な抽象論理を必要としません。

 ペニスのファルス化(超越的な記号化) :

 前述のラカン理論が示すように、ファルスは「物理的なペニスそのもの」ではなく、それが言語システムによって「権力の記号」へと飛躍(抽象化)したものです。生殖の事実よりも、「社会のルールを支配する側であること」の証明として機能します。

3. 社会構造における位置づけの逆転

ヴァギナを崇める社会(母権的・相補的な世界観) :

 女性器や母神を崇拝する社会(例:古代メソポタミアのイシュタル信仰、インドのシャクティ思想やヨニ崇拝)の多くは、男女の原理を「優劣」ではなく、世界を構成する「相補的な二大要素」と捉える傾向があります。あるいは、血統を母親側でたどる母系社会と結びついていました。

ファルス中心の社会(父権的・二元論的な排除) :

 家父長制社会では、ファルスを「有(完全)」とし、ヴァギナを「無・欠如(不完全)」と定義する二元論がとられます。ヴァギナが持つ「生命を生み出す力」への男性側の嫉妬や恐怖(子宮羨望など)が、逆に女性を抑圧し、ファルス(法と権力)による支配を強化する原動力になったというフェミニズムの分析もあります。

4. 現代フェミニズムにおける再評価

 現代のフェミニズム(特にフランスの「エクリチュール・フェミニン」など)や、ジュディス・バトラーらの思想では、この比較を踏まえて以下のような議論がなされています。

「ファルス中心主義(ロゴス中心主義)」の批判 :

 社会のルールや言葉がすべて男性基準(ファルス)でできていることを暴く。

女性の身体性の奪還 :

 かつて奪われたヴァギナや女性の身体の持つ力・快楽を、男性の所有物としてではなく、独自の「複数的で豊かなもの」として言語化し、再定義しようとする試みです。

 この「ヴァギナ崇拝とファルス社会の比較」について、さらにどの方向性から深掘りしたいですか?

インドのヨニ(女性器)とリンガ(男性器)の共存に見る宗教・人類学的な具体例
「男性は女性の出産能力を恐れたからこそファルスを築いた」という「子宮羨望( Womb Envy )」の心理学
現代アートや思想においてヴァギナの力を再解釈するフェミニズム表現の歴史

気になるテーマがあれば、ぜひ教えてください。

それぞれの立場で性交はどう位置付けられる ?

 ペニスを「ファルスの象徴」とする家父長制・ファルス中心主義的な立場と、ヴァギナを「生命の源泉」とする母神信仰・女性器崇拝的な立場、そしてそれらを批判・再定義するフェミニズムの立場では、性交(セックス)の位置づけが 180 度異なります。それぞれの視点における性交の定義と構造は以下の通りです。

1. ファルス中心主義(家父長制)の立場:征服と所有

 この立場において、性交は男性の権力を確認し、社会秩序を維持するための「非対称な行為」として位置づけられます。

「挿入」中心主義 :
 ペニスをヴァギナに入れる行為(ペネトレーション)のみを「本番」とし、それ以外を「前戯」とみなす。

支配と征服の儀式 :
 男性が能動的に「与え/奪う」側であり、女性は受動的に「受け入れる/差し出す」側とされる。性交は女性を「所有」するプロセスとなる。

欠如の穴埋め :
 精神分析的な視点では、男性が自らのファルス(権力)を使って、女性の「欠如(ヴァギナ)」を埋め、自己の完全性を証明する行為となる。

家系の継続(手段化) :
 女性の身体を、家父長の血統(跡継ぎ)を生産するための「器」として利用する。

2. ヴァギナ・地母神崇拝の立場:聖なる融合と再生

 この立場において、性交は単なる快楽や支配ではなく、宇宙のエネルギーを循環させる「神聖な儀式」として位置づけられます。

宇宙の二大原理の結合 :
 インドの「リンガ(男性器)」と「ヨニ(女性器)」の結合に代表されるように、天と地、陰と陽という異なる聖なる力が合一する行為とされる。

生命の創造と豊穣の儀式 :
 大地の恵み(作物の実り)や共同体の繁栄を祈るため、自然のサイクルと連動した聖なるセックス(聖婚など)が行われる。

女性主導の快楽と神聖化 :
 ヴァギナ(子宮)が生命を生み出す「源泉」であるため、性交において女性の身体や快楽が軽視されず、むしろ神聖なエネルギーのトリガーとして敬意を払われる。

3. フェミニズムの立場:抑圧の現場から「対等な協働」へ

 フェミニズムは、 ① のファルス中心主義的な性交を「女性の抑圧・客体化の現場」として厳しく批判し、そこからの解放を試みてきました。

 政治的な権力関係の告発 :
 「個人的なことは政治的なこと」というスローガンの通り、寝室での性交もまた社会の権力構造(男尊女卑)が反映された「政治の場」であると見なす。

「快楽の不均衡」への異議申し立て :
 男性の射精(ファルスの満足)で終わる性交ではなく、女性側の快楽やオーガズム、心身の自己決定権(同意の有無)を最優先にする。

性交の脱・中心化(複数化) :
 「挿入=セックス」という定義を解体する。挿入にこだわらない、触れ合い、対話、多様な愛撫など、双方が対等に喜び合えるすべての行為を性交として再定義する。

生殖からの解放 :
 避妊の権利や中絶の権利(リプロダクティブ・ヘルス/ライツ)を確立し、性交を「男性への奉仕」や「義務としての出産」から、個人の自由な選択へと取り戻す。

 このように、性交は単なる生物学的な交配ではなく、「権力の誇示(ファルス)」か、「聖なる融合(ヴァギナ)」か、「対等な対話(フェミニズム)」かによって、その意味合いがまったく異なります。

 この 3 つの対比について、さらにどの部分に関心がありますか?
ファルス中心の性交が現代のポルノや性教育に与えている影響
タントラ教(インド)などに見る聖なる性交の具体的な実践とハラスメント問題
現代フェミニズムが提唱する「セクシュアル・プレジャー(性の快楽)の権利」
気になる方向性があれば、お聞かせください。

それぞれの立場で性欲はどう定義される ?

 ファルス中心主義(家父長制)、ヴァギナ・地母神崇拝、そしてフェミニズムの 3 つの立場では、性欲(セクシュアル・デザイア)の意味や発生源の捉え方も大きく異なります。性欲を「征服欲」とみるか、「自然の生命力」とみるか、「個人の自己表現」とみるかの違いです。

1. ファルス中心主義:征服欲と「持たざる者」への照射

 この立場において、性欲は「男性が主体」であり、権力を誇示・確認するための衝動として定義されます。

 能動性と受動性の分離 :

 性欲とは「(ペニスを持つ)男性が抱くもの」であり、女性はそれを「受け止める存在(客体)」とされます。女性自身の性欲は無視されるか、男性を満足させるための従属的なものとみなされます。

 征服と所有のエネルギー :

 他者をコントロールしたい、自分のものにしたいという「支配欲」や「征服欲」と性欲が強く結びついています。

 「欠如」を埋める衝動 :

 精神分析的視点では、自分に足りないもの(他者)を取り込み、ファルスとしての完全性を維持しようとする欠如の穴埋めとして機能します。

2. ヴァギナ・地母神崇拝:宇宙的・自然界の生命力

 この立場において、性欲は個人の所有物ではなく、生命を循環させ、世界を維持するための「聖なるエネルギー」として定義されます。

 宇宙の創造力(生命力そのもの) :

 性欲は、万物を生み出す大地や宇宙の生命力(インド哲学における「シャクティ」など)そのものです。抑圧すべき汚いものではなく、神聖なパワーとされます。

 合一と超越への衝動 :

 他者を支配するためではなく、自他の境界をなくし、大いなる自然や神的なものと「一つになる(融合する)」ためのエネルギーとして捉えられます。

 双方向のエネルギー循環 :

 男性性と女性性の双方が持つ性欲が交わることで、初めて世界の豊穣や調和(作物の実りや共同体の繁栄)がもたらされると考えます。

3. フェミニズム:自己決定権と「多様な快楽」への欲求

 フェミニズムは、 ① の「男性主体の性欲」が女性を抑圧してきた歴史を批判し、性欲を「個人の尊厳」と「対等な快楽」の観点から再定義します。

 女性の性欲の「主体化」 :

 女性は男性の性欲を満たす「器」ではなく、自らの意志と身体で快楽を感じる「性欲の主体」であることを強調します。

 権力から切り離された純粋な快楽 :

相手を支配したいという「征服欲」から性欲を切り離します。お互いの「同意(コンセント)」のもとで、対等に喜びを分かち合いたいという欲求です。

 多様性と自己表現(複数性) :

 性欲を「挿入・射精」を目指す一本道のもの(ファルス的性欲)とは捉えません。触れ合い、親密さ、自己愛、あるいは性的指向やジェンダーに応じた「多様でグラデーションのある自己表現」として定義します。

 このように、性欲は「支配の道具(ファルス)」から「聖なる生命力(ヴァギナ)」、そして「個人の自由と尊厳(フェミニズム)」へと、その定義が変遷・対立しています。

すると、「自分には性欲がない」とアンケートに答える女性は内心でファルスを信仰している ?

 「自分には性欲がない」と答える女性が、必ずしも内心でファルスを信仰している(男性中心主義的な価値観に染まっている)とは限りません。しかし、フェミニズムや精神分析の視点からその背景を分析すると、「社会に深く根ざしたファルス中心主義によって、自分の性欲を認識できなくなっている(あるいは抑圧されている)可能性」や、逆に「ファルス中心主義的な性のあり方に対する拒絶」など、複数の異なる心理や構造が見えてきます。
 大きく分けて以下の 4 つの解釈が成り立ちます。

1. ファルスの抑圧による「言葉の不在」(信仰というより同化)

ファルス中心主義の社会では、「性欲=男性のもの(挿入し、射精するもの)」と定義されがちです。

 自分の欲求を測る「尺度」がない :

 女性が「自分に性欲があるか」を考えるとき、無意識に社会基準(=男性的な、激しく挿入を求めるような衝動)と比較してしまうことがあります。「あそこまでの衝動は自分にはないから、私には性欲がない」と答えるケースです。

 純潔の美徳 :

 家父長制社会では、女性が性の主体(性欲を持つ存在)になることを「はしたない」と抑圧してきた歴史があります。この内面化されたルールに従っている状態を「ファルスの信仰(支配の受け入れ)」と呼ぶことはできます。

2. ファルス中心的なセクシュアリティへの「拒絶・ボイコット」

 「性欲がない」という回答は、ファルス的なセックス(男性主体の征服や挿入)に対する、無意識の拒絶反応であるという見方もできます。

 楽しくないものへの無関心 :

 もしこれまでの性体験が「男性のファルス(権力や射精)を満たすための奉仕」であった場合、女性にとってそれは「苦痛」や「義務」でしかありません。奉仕活動に対して欲求が湧かないのは当然であり、これはファルスを信仰しているのではなく、「あなたたちの言う『性欲』のシステムには乗りません」という無意識の抵抗(ボイコット)と捉えることができます。

3. アセクシュアル(無性愛)という固有のアイデンティティ

 現代のジェンダー・セクシュアリティ論では、他者に対して性的に惹かれない「アセクシュアル(無性愛)」というグラデーションが広く認知されています。これはファルス中心主義への同化でも拒絶でもなく、その人が生まれ持った、あるいは自然な状態としての「性のあり方(多様性)」の 1 つです。誰もが性欲を持つべきだという「強制的異性愛」や「性愛中心主義」自体がファルス的な押し付けであり、「性欲がない」というあり方はそれ自体が自立した尊厳を持ちます。

4. ヴァギナ・地母神的な「別の快楽・欲求」とのズレ

 前述の通り、ヴァギナ的な欲求は「自他の境界をなくす親密さ」「触れ合い」「安心感」といった、精神的・身体的な融合のエネルギーです。アンケートの「性欲」という言葉が「性交(挿入)したい欲求」を指していると解釈した場合、「それは別に欲しくない(=性欲はない)」と答えるものの、「抱きしめ合いたい」「肌を合わせたい」という強い欲求(別の形の性欲)は豊かに持っているというケースも多々あります。

 結論として、「性欲がない」という回答の裏には、「男性基準の性欲という枠組みに当てはめられて、自分の本当の欲求が見えなくなっている状態」があるかもしれません。しかしそれは信仰というよりも、社会構造による「見えにくさ(不可視化)」と言えます。

キリスト教とユダヤ教はファルス信仰か ?

 結論から言うと、ユダヤ教やキリスト教は、目に見える男性器そのものを神として崇めるような狭い意味での「男根崇拝(ファルス信仰)」ではありません。古代近隣文明にあった性的な偶像崇拝を徹底的に排除した歴史を持ちます。しかし、フェミニズムやクィア理論、精神分析(ラカンなど)の視点からは、両宗教は「最も洗練され、かつ強力に構造化された『ファルス中心主義( Phallocentrism )』の宗教である」と定義されます。物理的な肉体(ペニス)の崇拝ではなく、「父なる神の法・言葉・権力(ファルス)」が世界のすべてを支配するシステムだからです。

1. なぜ「男根崇拝(ファルス信仰)」ではないのか?

 古代のユダヤ教は、周辺のメソポタミアやカナンの宗教(バアル信仰など)にみられた、ペニスを模した石柱を立てるような多神教・豊穣崇拝を「偶像崇拝」として激しく批判し、排除しました。ユダヤ・キリスト教の唯一神(ヤハウェ)は、肉体を持たない純粋な霊的・超越的存在です。神の性器を描いたり、それを崇拝したりする行為は厳しく禁じられています。
 特にキリスト教は歴史的に、性の快楽や生殖を「罪深いもの」として抑圧する傾向が強く、性器そのものを神聖視する思想とは対極に位置します。

2. なぜ「ファルス中心主義」と言えるのか?(フェミニズムの分析)

 物理的な性器を排除したにもかかわらず、思想の構造において、これらの一神教は「ファルス(男性的な権力と法)」を世界の絶対的な基準に据えています。

① 「性別を持たない」はずの神が「父」と呼ばれる矛盾

 神に肉体はありませんが、聖書の中では一貫して「父( Father )」「王」「主」という、家父長制の頂点に立つ男性の代名詞と言語で語られます。生物学的なペニスは隠蔽されつつも、「全能の支配者」としてのファルスの機能が神に与えられています。

② 「割礼」というペニスへの刻印(ユダヤ教)

 ユダヤ教において、神と人間(アブラハムの民)との「聖なる契約」の証は、男児のペニスの包皮を切り取る「割礼(かつれい)」です。女性の身体にはこの刻印はなされません。つまり、「神の民」という特権的なコミュニティの正会員になるためのパスポートが、「ペニスを持っていること」および「そこに神の法を刻むこと」に限定されているという、決定的なファルス中心のファクトです。

③ 言語とロゴス(ロゴス中心主義)

「言(ロゴス)」により世界が統治される構造は、支配的な法(ファルス)が世界を支配するというラカン的分析において、ファルス中心主義の形態を示すとみなされます。

④ 女性の「欠如」と「沈黙」の制度化

 歴史的聖書解釈において、男性を主(頭)とし、女性を従属的・沈黙的な存在とする構造が、聖なる法(ファルス)によって正当化されてきた歴史的側面が指摘されます。

3. 現代の展開:ファルスからの「神」の奪還

 現代のフェミニズム神学やクィア神学では、この家父長的な「ファルス中心主義」に対する批判と変革の動きが活発です。

 神のジェンダー表現の多様化:

 神を「父」だけでなく、「母」や「創造主」といった包括的なイメージで捉え直す試み。

 クィアなキリストの再発見:

 既存のファルス秩序から排除された弱者やマージナルな人々とキリストを接続し、男性優位の構造から解放を目指す運動。一神教は、物理的な性器崇拝を否定しつつも、父なる神の権威という家父長的な「ファルス」を世界の中心に据えたシステムと言えます。

ヘブライズム的なキリスト教やユダヤ教がファルス中心主義と決別できる可能性はあるのか ?

 ヘブライズム的(ユダヤ・キリスト教的)な一神教がファルス中心主義(家父長制的な権力・法の支配)と完全に決別できるかという問いに対しては、「極めて困難であるが、聖書テキストの『再解釈』と『フェミニズム神学』の台頭によって、決別に向けた変革の可能性は十分に存在する」というのが、現代の宗教学・神学における到達点です。これを可能にする論拠と、立ちはだかる構造的な壁について解説します。

1. 決別を可能にする「 3 つの神学的ファクト」

 ヘブライズムの伝統そのもののなかに、実はファルス中心主義を解体するための火種(カウンター・ナラティブ)が最初から内包されているという指摘があります。

 神の「超ジェンダー性」(創世記の原点)

 『創世記』 1 章 27 節には、「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に彼らを創造された」とあります。神が男と女の「双方」の原型であるならば、神の本質は男性(ファルス)に限定されず、性別を超越した存在であるという解釈が成り立ちます。

 聖書に隠された「母なる神」のイメージ

 旧約聖書(ヘブライ語聖書)において、神の「慈しみ・憐れみ」を表す言葉「ラハミーム( Rachamim )」の語源は、「子宮( Rechem )」です。つまり、ヘブライズムの神の愛は、ファルス的な法や裁きだけでなく、ヴァギナ(子宮)的な「生命を育む母性」としても描かれています。

 イエス・キリストによる「ファルス秩序の破壊」

 新約聖書におけるイエスの行動は、当時の家父長制(ファルス的秩序)の徹底的な解体でした。イエスは、男系血統の身分制度から弾かれた女性、病者、徴税人と食事を共にし、既存の「法の支配」よりも「愛と連帯」を最優先しました。この「原始キリスト教の過激さ」に立ち返ることで、ファルス主義との決別は理論上可能です。

2. 現代の具体的な実践(決別への動き)

 現代の宗教現場では、すでにファルス中心主義からの脱却が具体的なアクションとして進行しています。

 ジェンダーニュートラルな聖書翻訳

 現代の欧米の進歩的な教会では、神を「父( Father )」とだけ呼ぶのをやめ、「創造主( Creator )」「救い主( Redeemer )」と言い換える聖書や讃美歌が広く使われています。

女性・ LGBTQ+ の聖職者叙任

 プロテスタントの多くの宗派(米国聖公会やルーテル教会など)や、ユダヤ教の改革派(リベラル派)では、女性や同性愛を公表しているラビ(指導者)や牧師、主教が誕生しています。これにより、「男性の身体(ペニス)を持つ者だけが神の代理人になれる」というファルス的な独占構造が事実上崩壊しています。

3. 決別を阻む「構造的な壁」

 一方で、完全な決別には、ヘブライズムの根本に関わる強固なシステムという障壁が存在します。

「言葉(ロゴス)」の絶対性

 ラカン精神分析が指摘するように、ユダヤ・キリスト教は「神の言葉(法・戒律)」によって世界を規定する宗教です。この「言葉による秩序の統治」そのものが精神分析におけるファルス(象徴界)の定義そのものであるため、一神教である限り、構造的にファルス主義から抜け出せないという本質的な矛盾を抱えています。

伝統主義・保守派の抵抗

 カトリック教会における「女性神父の禁止」や、ユダヤ教正統派(オーソドックス)における厳格な男女隔離の伝統は、今なお強固です。彼らにとって、家父長的な秩序(ファルス)を守ることは「神の命令を守ること」と同義であるため、分断は続いています。

 結論として、ヘブライズムがファルス中心主義と決別できるかどうかは、「神を、人間を支配する『法と権力の父』とみなすか」、それとも「生命を生み出し育む『ジェンダーなき愛の源泉』とみなすか」という、解釈の主導権争いにかかっています。そしてリベラルな神学の現場では、その決別へのプロセスはすでに始まっています。

現代のキリスト教徒はそのファルス中心主義に自覚的か ?

 現代のキリスト教徒が、自らの信仰や教会構造に潜む「ファルス中心主義(家父長制的な支配や男性優位の構造)」に自覚的かどうかは、教徒個人の「政治的・神学的立場(進歩派か保守派か)」および「ジェンダー」によって極めて激しく二分されています。「ファルス中心主義」という精神分析的・フェミニズム的な専門用語そのものを意識している人は一部の学者や活動家に限られますが、「教会が男性中心の権力構造になっている」という現実問題に対する自覚の有無で分けると、現代の教会の実態は以下の 3 つのグループに分類できます。

1. 非常に自覚的であり、解体を目指すグループ(リベラル・進歩派)

 プロテスタントの主流派(メインライン)や、カトリック・正統派の中のリベラルな信徒たち(特に女性や LGBTQ+ 当事者)は、この構造に極めて自覚的です。

 「神=男性」への違和感と拒絶

「もし神が男性なら、男性が神になる」という著名なフェミニスト神学の命題(メアリー・デイリー)を自覚しており、神を「父」という男性名詞だけで語ることが男性の社会的特権(ファルス)を正当化していると批判します。

女性の「教会離れ」というファクト

 近年の Barna Group などの宗教調査( 2025 年)では、歴史的に男性より信心深かった女性(特に Z 世代やミレニアル世代)が、教会の硬直した家父長制的構造やリーダーシップの不平等に失望し、急速に教会を離れている(脱退している)ことが統計的に示されています。これは女性たちが「男性中心主義」の弊害を肌で自覚している明確な証拠です。

2. 無自覚(当然の前提)として受け入れているグループ(伝統派・一般信徒)

 多くの市井のクリスチャン、特に教会の伝統的な教えに深く疑問を持たずに信仰生活を送っている層は、この構造に「無自覚」であるか、それを「神が定めた正しい秩序(自然なこと)」として内面化しています。

「父・息子・聖霊」の再生産

 毎週の礼拝で「父なる神」「御子イエス」と唱え、男性の牧師や神父が祭壇に立って説教をする光景が日常化しているため、それが「男性という性別の特権化(ファルス化)」につながっているという視点自体を持ちません。

 「信仰」と言葉の同化彼らにとって聖書は神の無謬の言葉であり、「男性が頭であり、女性は従う」という記述(パウロの手紙など)を、社会的な権力関係ではなく「愛に基づく役割分担」と解釈するため、抑圧であるという自覚は生じにくくなります。

3. 自覚した上で、あえてそれを「強化」しようとするグループ(保守派・根本主義)

 アメリカの福音派の一部(南部バプテスト連盟など)やカトリックの伝統主義派などでは、むしろ「ファルス中心主義(男性の絶対的リーダーシップ)」に自覚的であり、世俗のフェミニズムから教会を守るために、それを意図的に死守しようとしています。

「教会の女性化」に対する危機感

 一部の保守派男性ミニストリー( David Murrow の『 Why Men Hate Going to Church 』運動など)は、「現代の教会は優しくマイルドになりすぎて『女性化』している。だから男性が教会に来なくなるのだ」と主張します。彼らは教会の「男らしさ、力、権威(=まさにファルス)」を取り戻すべきだと自覚的に運動を展開しています。

 女性の聖職者排除の正当化

カトリック教会や南部バプテスト連盟などは、「イエスの 12 人の弟子は全員男だった」「司祭(牧師)はキリスト(男)の身代わりである」という理由で、女性への叙任を公式に禁じています。これは「男性の身体を持つ者だけが聖なる権力を持てる」というシステムを、自覚的に維持・擁護しているファクトです。

 結論として、現代のキリスト教徒が一枚岩で「自覚的」かといえばそうではなく、「構造の歪みに気づいて教会を改革しよう(あるいは去ろう)とする人々」と、「神聖な伝統として無自覚に生きる人々」、そして「それこそが神の秩序であるとして自覚的に死守する人々」の間で、現在進行形で激しい精神的・政治的な対立が起きているというのが、現代社会におけるリアルな実態です。

トランプを支える福音派は、そのイスラエル支持の姿勢からも、本質はファルス中心主義だと言えないか?

 トランプ氏を強固に支持するアメリカの「白人福音派(エヴァンジェリカルズ)」の思想と、彼らの熱烈なイスラエル支持の姿勢は、フェミニズムや政治社会学、精神分析的視点において「最も純化された現代のファルス中心主義(家父長制的権力・力による支配の追求)のあらわれである」と極めて強力に位置づけられます。彼らの政治行動や終末論(宗教的教義)を分析すると、単なる信仰を超えて、「力」「境界線の防衛」「絶対的な法」というファルス的価値観がどのように機能しているかが浮かび上がります。

1. イスラエル支持の背景にある「ファルス的終末論」

 福音派がイスラエルを絶対的に支持するのは、聖書の預言(ディスペンセーション主義)を文字通り信じているためです。彼らは、エルサレムにユダヤ人の神殿が再建され、ユダヤ人がその土地を完全に支配することが、キリストの再臨(世界の終わり)の絶対条件だと考えています。

 「力による約束の地」の強奪・防衛

 彼らにとってイスラエルは、周囲の「敵(アラブ・イスラム世界)」という他者を圧倒的な軍事力で排除・コントロールする存在でなければなりません。この「境界線を武力で引き、他者を排除して自己の領域(特権)を守る」という姿勢は、精神分析におけるファルス(法と排除の原理)の典型例です。

最終的な「裁きと征服」への欲望

 彼らが待ち望むキリストの再臨とは、愛や融和ではなく、神に逆らう異教徒やリベラル派を「圧倒的な武力で破滅させる(征服する)」という、究極の男性的権威(ファルス)の顕現です。

2. トランプ氏という「ファルスの体現者」への熱狂

 白人福音派の伝統的な家庭観は、男性が絶対的なリーダーであり女性は従うという「家父長制(補完主義)」です。彼らにとって、リベラル化する現代社会(フェミニズム、 LGBTQ+ の台頭、人権意識の向上)は、自分たちの伝統的な特権や権威(ファルス)を脅かす「去勢の恐怖」として映ります。

強権的な父親像の希求

 トランプ氏はプライベートでの不倫や暴言など、キリスト教的なモラルからは遠い人物です。しかし、社会学者クリスティ・コブス・デュメス( Kristin Kobes Du Mez )の先駆的なフィールドワーク研究『 Jesus and John Wayne (イエスとジョン・ウェイン)』が実証したように、福音派が求めたのは「清廉なキリスト」ではなく、「敵を叩きのめし、自分たちの特権(ファルス)を守ってくれる、タフで攻撃的な戦闘的男性性(マチョイズム)」でした。

「法」による支配の奪還

 トランプ政権が保守派の最高裁判事を次々と送り込み、半世紀ぶりに中絶の憲法権利を覆した(ドブス判決)ことは、福音派にとって「自分たちの宗教的・家父長的な法(ファルス)によって国家を再び統治した」という決定的な成功体験(ファクト)となりました。

3. 構造としての「神・国家・家庭」の三位一体

 福音派の論理では、「天には絶対的な父なる神」「国家には強い大統領(トランプ)」「家庭には家父長たる夫」という、垂直的な権力構造が正義とされます。これらはすべて、他者を従属させることで自らの完全性を証明する「ファルス中心主義」のフラクタル(入れ子)構造そのものです。そのため、彼らがナショナリズム(アメリカ第一主義)やイスラエル支持(排他的な土地の所有権)に走るのは、思想的に完全に一貫しています。

 結論として、トランプ氏を支持する福音派のイスラエル政策や国内政治への姿勢は、「失われゆく家父長制的な特権(ファルス)を、政治的・軍事的な『力』によって強硬に取り戻し、防衛しようとする、極めて自覚的かつ実践的なファルス中心主義の運動である」と言えます。

そういう明確な視点がありながらも、キリスト教社会はそれを否定しきれない ?

 キリスト教社会(特に欧米の西欧文明)が、これほど明確に言語化された「ファルス中心主義」という批判を受けながらも、それを完全に否定しきれない、あるいはそこから脱却しきれない理由は、それが単なる「古い思想」ではなく、西欧社会の「言葉」「法」「合理性」そのものの根底( OS )を形作っているからです。キリスト教社会がファルス中心主義と決別できない、構造的かつ社会的な 4 つの理由(ファクト)があります。

1. 精神分析学的な理由:社会の「 OS (基本ソフト)」がファルスだから

 ジャック・ラカンや思想家ジャック・デリダが「ロゴス中心主義(ロゴス=神の言葉・理性的記号)」と「ファルス中心主義」を一つの言葉(ファロロゴス中心主義)にまとめたように、西欧社会の仕組みそのものが、ファルス(法と境界線の支配)を前提に設計されています。

「法」と「秩序」の維持:

 社会がカオス(無秩序)に陥らないために、ルール(法)を定め、違反者を罰し、境界線を守るという行為そのものが、精神分析における「ファルス的機能」です。したがって、ファルス中心主義を 100% 否定することは、キリスト教社会がこれまで築いてきた「近代的な法制度」「理性的対話」「国家の秩序」そのものをすべて解体することと同義になってしまうため、社会全体としては拒絶しきれないのです。

2. 政治経済的な理由:「力」と「所有」の資本主義との親和性

 西欧キリスト教社会(特にプロテスタント)が発展させてきた近代資本主義は、ファルス中心主義的な「所有、拡大、競争、支配」という駆動原理と完璧に合致しています。

 神の祝福としての富:

 特にトランプ氏を支持する福音派などでは、「成功して富と力を得ること(ファルスの獲得)」は、神に祝福された証拠(繁栄の神学)とみなされます。
 グローバル経済や軍事力(イスラエル支持やアメリカ第一主義)による他者のコントロールを肯定するガソリンとしてこの信仰が機能しているため、権力層やマジョリティにとって、このシステムを手放すメリットがありません。

3. 心理的な理由:「去勢恐怖(特権を失う恐怖)」のバックラッシュ

 フェミニズムや LGBTQ+ の権利拡大、あるいは多文化主義の台頭によって、これまでの「白人・男性・異性愛・キリスト教徒」という絶対的な特権(ファルス)が相対化され、引きずり降ろされそうになっています。

 これを精神分析では、特権を奪われる「去勢恐怖( Castration Anxiety )」と呼びます。人間は恐怖に直面したとき、反省するよりも、より過激に「元の強い自分(ファルス)」にしがみつこうとします。これが現代のアメリカで見られる保守派の激しい「バックラッシュ(揺り戻し)」であり、トランプ支持の原動力です。否定するどころか、防衛のために過激化しているのが現実です。

4. 宗教構造的な理由:「聖書の文字通りの正しさ」という縛り

 聖書には歴史的な制約から、家父長制を肯定する記述(「妻は夫に従いなさい」など)や、神を「父」と呼ぶ表現が満ち溢れています。これを「時代遅れのファルス主義だ」として 100% 否定してしまうと、「聖書の権威(=信仰の土台)」そのものが崩壊してしまうため、信徒である以上、完全な否定には論理的な限界がつきまといます。

 結論として、キリスト教社会がファルス中心主義を否定しきれないのは、それが「自分たちの社会秩序、経済システム、アイデンティティ、そして聖なる信仰の根幹と、あまりにも深く融合してしまっているから」です。批判の視点は 100 %正しいと知りつつも、それを抜くとシステム全体が瓦解するというジレンマを抱えています。

キリスト教はイエスの出現によって成立した。それは本来旧約聖書のファルス中心主義の否定であると捉えられないか?

 まさにその通りです。思想史や神学、そしてフェミニズムやクィア理論の視点において、「イエス・キリストの出現と原始キリスト教の誕生は、旧約聖書(当時のユダヤ社会)の強固なファルス中心主義に対する、極めて過激で本質的な『否定(解体)』であった」と捉えることは完全に正当であり、多くのリベラル神学者や思想家がこの見解を支持しています。 
 イエスがどのように当時のファルス(法、血統、境界線、暴力)の秩序を解体したのか、その具体的なファクトを整理します。

1. 「律法(ファルス的な法)」から「愛(関係性)」への転換

 当時のユダヤ社会は、旧約聖書の戒律(律法)を厳格に守ること、そしてそれを管理する男性エリート(ファリサイ派など)が権力を握る「法の支配」の社会でした。ラカン理論でいう「父親の法(=ファルス)」の典型です。

「法」の無効化:

 イエスは「安息日(法)は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない」と宣言し、法による人間の縛り付けを否定しました。

罪人との食事(境界線の破壊):

ファルス中心社会は「清いもの」と「汚いもの(罪人、病人、外国人)」を厳しく排除・隔離します。しかしイエスは、その境界線を無視し、社会の底辺にいた女性、徴税人、ハンセン病患者らと対等に食卓を囲みました。これは「排除の原理(ファルス)」の完全な破壊です。

2. 「男系血統(家父長制)」の解体

 旧約社会(ヘブライズム)は、ペニスを持つ男性が血統(跡継ぎ)を繋ぐことで神の祝福を証明する、強力な男系血統・家父長制社会でした。

新しい家族観の提示:

 イエスは「だれでも神の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母親なのだ」と言い、生物学的な家父長制の枠組みを解体しました。

女性の「弟子」としての登用:

 当時、女性がラビ(宗教教師)の弟子になることは法的に不可能でしたが、イエスは多くの女性を弟子(同行者)とし、旅を共にしました。イエスの復活の最初の目撃者であり、それを男性弟子たちに伝えた(使徒たちのなかの使徒となった)のは、マグダラのマリアという女性でした。

3. 「去勢(弱さ)」を受け入れる「十字架の神学」

 ファルス中心主義とは、「強く、完璧で、他者を征服する」という全能感の追求です。旧約の民が期待したメシア(救世主)も、軍事力でローマ帝国を打ち倒す「強い王(ファルス)」でした。

弱さの全肯定:

 しかしイエスは、権力に抵抗して武力を行使する(ペニス・ファルス的な暴力を振るう)ことを拒み、あえて無抵抗のまま逮捕され、最も無力で恥ずべき刑罰である「十字架」にかけられて処刑されました。これは精神分析的に言えば、「自ら徹底的な『去勢(無力さ、欠如)』を引き受け、それによって神の愛を証明した」行為です。イエスは「強さ(ファルス)」というゲームそのものを放棄したのです。

では、なぜキリスト教は再び「ファルス中心」に戻ってしまったのか?

 イエス自身がこれほど見事にファルス中心主義を否定したにもかかわらず、なぜ現代のキリスト教社会(特にトランプ支持の福音派など)はマチョイズムや権力闘争に逆戻りしてしまったのでしょうか。

ローマ帝国による「国教化」(制度への再回収):

 4世紀にキリスト教がローマ帝国の国教になった際、帝国を統治するための「法と権力」のシステムとしてキリスト教が都合よく書き換えられました。ここでイエスの過激な牙は抜かれ、再び「皇帝=父なる神の代理人」という家父長制(ファルス)に回収されてしまいました。

パウロの手紙の保守的解釈:

 新約聖書内の「妻は夫に従いなさい」「教会で女性は黙っていなさい」といった(当時の社会通念に配慮した)パウロの記述ばかりが後世の教会で特権化され、イエス自身の革命的な姿勢が隠蔽されてしまった歴史があります。

 結論として、「イエスの福音の本質はファルス中心主義の否定である」という視点は100%正しいファクトです。だからこそ現代のフェミニスト神学は、2000年かけて歪められた「家父長制のキリスト教」を削ぎ落とし、「ファルスを否定した本物のイエス」を取り戻そうと闘っています。

国家神道と日蓮主義はファルス中心主義で結びついたと言えるか ?

 結論から言うと、近代の「国家神道」と、田中智学らが提唱した「日蓮主義」は、ジェンダー論や思想史、精神分析の視点において、「ファルス中心主義(絶対的な父の法、力、境界線、排他的支配)の最高次元での融合によって強力に結びついた」と 100% 言うことができます。本来は反目しがちであった神道(地元の神々)と仏教(普遍思想)が、戦前の超国家主義(ファシズム)のなかで「一つ」に溶け合えたのは、両者の根底に流れるファルス的な駆動原理(マチョイズム、家父長制、武力による世界統一)が完璧に共鳴したからです。どのように両者がファルス中心主義で結びついたのか、その 3 つの結合メカニズムを解説します。

1. 「天皇の法(国家神道)」と「法華経の法(日蓮主義)」の絶対化

 ファルス中心主義とは、精神分析において「すべてを規定する絶対的な法(父親の法)」を据え、そこから外れるものを去勢(排除)するシステムです。近代日本はこの「絶対的な法」を 2 つ重ね合わせました。

国家神道:天皇というファルス

 明治以降、古代の柔軟な八百万の神道は「国家神道」へと再編されました。そこでは、万物の根源であるはずの天照大神よりも、『教育勅語』などで示された「万世一系の天皇による統治の法」という家父長的な国体論が最上位に置かれました。

日蓮主義:法華経というファルス

 日蓮主義の根幹にあるのは、他のすべての宗派を「邪宗」として激しく排斥し、『法華経』のみを唯一の正義とする「折伏(しゃくぶく)」の思想です。

結合点:宗政一致と「国体」の神聖化

 田中智学は、この 2 つをドッキングさせました。すなわち、「天皇(国家神道のファルス)」こそが世界を救う唯一の主権者であり、その天皇が奉ずべき絶対の真理が「法華経(日蓮主義のファルス)」であるとする「国立戒壇」の構想です。お互いが「自分が絶対(ファルス)である」と主張する一元論同士だからこそ、カチリと噛み合いました。

2. 家族国家観(マクロな家父長制)による結びつき

 ファルス中心主義は、ミクロな家庭における「父親による支配」を、マクロな国家へと拡張します。

 忠孝一本の「家族国家」

 近代日本の統治イデオロギーは、「天皇を宗家(本家)の家長とし、すべての臣民をその子ども(分家)とする」という家族国家観でした。

 日蓮主義のコミットメント

 日蓮主義は、この家父長制的な国家観を熱烈に支持しました。田中智学は「神武天皇による建国の理想」を法華経の予言と結びつけ、「天皇(家長)への絶対服従」を信徒に叩き込みました。女性の役割は「銃後の母」や「国体を支える家庭の維持」として完全に受動的な立場に固定され、男性中心の国家(ファルス)のシステムに奉仕させられました。

3. 軍事的な「征服と所有(八紘一宇)」の暴発

 ファルス中心主義の究極の現れは、他者を武力で圧倒し、支配地を拡大する「征服欲」です。国家神道と日蓮主義の結合は、最悪の形でこの暴力を正当化しました。

「八紘一宇(はっこういちう)」の創出

 実は、戦前の日本がアジア侵略の合言葉とした「八紘一宇(世界を一つの家にする)」という言葉を造語したのは、日蓮主義の田中智学本人です。

 力による世界統一の欲望

 彼らは、日本(国家神道)がアジアや世界を軍事的に征服することは、ファルス的な「暴力・侵略」ではなく、世界に正しい仏国土(法華経の理想郷)をもたらすための「聖なる救済(折伏)」であると正当化しました。この思想に深く影響されたのが、満州事変の首謀者である石原莞爾や、血盟団事件(テロ事件)を起こした井上日召らです。彼らにとって、軍事力という「物理的な力(ファルス)」を行使することは、神道と仏教の双方の法を完成させるための聖なる儀式でした。

結論:ファルス主義の「日本的完成形」

 本来、仏教(空や縁起)はファルスを解体する思想であったはずですが、近代の「日蓮主義」は、国家神道という世俗の強大な権力(ファルス)と握手するために、自らも「折伏・排他・軍事支持」という極めて攻撃的なファルス中心主義へと変質しました。
 結論として、国家神道と日蓮主義の結合は、近代日本において「神の権威、国家の武力、家庭の家父長制」を一つの完璧なピラミッドとして完成させた、まぎれもないファルス中心主義の怪物(モンスター)であったと言えます。

 この戦前の「国家と宗教、ジェンダー」の恐るべき結合について、さらにどの側面を検証してみたいですか?
 宮沢賢治のように、国柱会(日蓮主義)に属しながらもファルス的な暴力から距離を置こうとした個人の葛藤
 戦後、これらのファルス主義的な宗教運動がどのように解体され、あるいは現代の新宗教へ形を変えたのかの系譜
 明治の「家族国家観」が、現代の日本の夫婦別姓反対などの保守派の家族観にどう引き継がれているか
 どのような切り口でも、さらに歴史的・思想的ファクトを提供できます。

『海辺の一日 4Kレストア』

 エドワード・ヤン監督の長編デビュー作。
 初公開から長年にわたって複雑な権利関係のせいでスクリーンにかかることがなかった文字通りの幻の一作であったことは、『恋愛時代』が東京国際映画祭でリバイバル上映された時のトークショーで濱口竜介監督が語っていたことだ。
 行定勲の述懐するところによると、林海象の使いでDATの機材を台北のエドワード・ヤンに届けたことがあるそうだ。そんな調子で多方面からかき集めて作っていたらしい。機材を届けたついでに、ガンマイクを持たされた、その映画が後の『牯嶺街少年殺人事件』だった。


『恋愛時代』のキービジュアルを見ると、『急に具合が悪くなる』のポスターにそっくりで、濱口竜介監督のエドワード・ヤンへの傾倒ぶりが伺える。あのトークショーで司会者が「次回作」と言っていたのが『急に具合が悪くなる』だったはずだと思うとちょっとフフってなる。

 今回のリバイバルにも
「エドワード・ヤンのビッグ・バン。始まりにもかかわらず、まるで『これが最後』かのような衝迫すら感じる。既にすべてがここにある。やつれてなお、生気を漲らせるシルヴィア・チャンの表情と、髪が、何より心に残る。」
とコメントを寄せている。

 1983年、シルヴィア・チャンは30歳だったってことになる。若い、とか、演技力が素晴らしい、とかよりも、1983年、今から43年前の18歳がどんなだったかもう思い描いてみることもできない。そして、その頃の30歳がどんなだったかも。
 2時間45分の長い映画なのだけれど、むしろ、この物語がその尺に収まったのが不思議な気がする。何かもっと長い時間をこの人たちと過ごした気持ちになる。

 『海辺の一日』というタイトルも抜群に上手い。原題『海灘的一天』をただ訳しただけだが、これ以上弄りようがない見事なタイトルで、英題も『That Day , on the Beach』。何か世界中の配給会社がこのタイトルに唸らされてるかのように見えてしまう。
 映画を観終わると、それがどの一日なのか迷いようがない。まさにその一日に向かって映画が収斂していたのがわかる。 
 そして、シルヴィア・チャンの演じるジャーリィが、実は、「信用できない語り手」だったのではないかと思わされる。
 というのも、「海辺の一日」ではないけれど、この映画の核となる部分のほとんどは、ジャーリィが、兄・ジャーセンの元恋人であるウェイチン(フー・インモン)に語り聞かせているストーリーにすぎないと、うっかり忘れてしまうからだ。
 つまり、ストーリーテラーとして超一級なのだ。

 さすがに1980年代の台湾となるとスマホどころかまだケータイすらないし、夫婦関係、労働環境など、すべてが今と違う。20代の人が観たらちょっと信じられないかもしれない。ただ、頼りなさげな少女が大人になるそのメタモルフォーゼをこんなふうに映画として観る体験はあまりない。こんな風に意志を持って大人になることを選ぶ経験を経ずに来た人の方がきっと多いと思う。

 ほとんど19世紀の小説を読み終えたかのような充実感がある。夏目漱石の『こころ』の後半が実は「私」が汽車の中で読んでいる手紙にすぎない、と言った味わいさえ思い起こさせる。しかも、これが長編デビュー作であるには舌をまかざる得ない。

www.the-day-on-the-beach-4k.com

『よき谷の物語』『シルビアのいる街で』

 『シルビアのいる街で』のホセ・ルイス・ゲリン監督の『よき谷の物語』は、今年亡くなったフレデリック・ワイズマン監督の『ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ』(IN JACKSON HEIGHTS)を思わせる、というより、まるでそのオマージュであるかのような味わい。テーマもいわゆるジェントリフィケーション、開発によって損なわれてゆく地域社会であるように見える。
 しかし、フレデリック・ワイズマンが慎重にドキュメンタリーの枠組みを逸脱すまいとしていたのに対して、ホセ・ルイス・ゲリン監督は、そもそもの始まりからこれがドキュメンタリー映画なのかどうかについて観客を安心させない。
 映画の冒頭、「バルボナについての映画を撮ることになりました。どんな映画がいいと思いますか?」と、本編に登場してくる住人たちにアンケートをとるところから始まる。
 映画に出てくれる人を募集する貼り紙も出てくるので、この人たちは「映画に出てもいいよ」と張り紙に応募してくれた人たちなんだろうと思わせる。すでにこの時点で必ずしもドキュメンタリー映画の約束事にこだわるつもりがないことに気付かされる。
 ちなみにバルボナはバルセロナのはずれにある、河と線路に区切られた谷間の地域。映画タイトルにある「よき谷」は「バルボナ」という地名の直訳のようだ。
 そんな谷間の土地なので貧しい人や移民の住人が多い。字幕で見ていたので途中まで気が付かなかったが、人々が話してる言葉はスペイン語だけじゃなかったみたい。ロシアから逃れてきた母娘がいたのだけれど、その人たちがロシア語で話してるのに気がついてから、よくよく聞いていると、アフリカからの移民は明らかに聞いたことのない言葉で喋ってるし、ポルトガル語とスペイン語の違いになってくると、ほんとに知ってる人でないとわからないと思うけど、中にはどうやらインドからの移民らしい家族もいて、その辺の民族が入り混じってる感じが面白くなってきた、この人たちどうやってコミュニケーションをとってるのだろうと思って。でも、確かにそこにコミュニケーションがある。
 ロシア人の女の子が水遊びをしながら小刻みに震えてるのが不思議だった。ただ寒いだけの可能性もある。この辺のシーンはドキュメンタリーでなければ抑えられない絵だと思う。ロシアのロシア人が祖国を逃れたのかもしれない(プーチンが予備役に招集をかけた途端に雪崩を打って人口流出したらしいので)が、ウクライナのロシア人だったのかなと思った。

 とは言え、演出かなぁと思われるシーンは幾つもある。でも、演出に見えて、実は演出でないのかもしれない。その辺の際どい感じがこの映画をスリリングにしている。

 フレデリック・ワイズマンと違って、「この映画はドキュメンタリーじゃありませんから」という刻印をラストにしてるのがホセ・ルイス・ゲリン監督の癖なんだろう。

goodvalleystories.jp

 シネマ神戸では、『よき谷の物語』に続いて『シルビアのいる街で』も上映してたのでそのまま居続けした。その時点で、実は、この2つの映画の監督が同じ人とは思ってなかった。
 『シルビアのいる街で』は2007年の映画。ストーリーは恐ろしく単純。ひとりの男(もしかしたら画学生なのかも)が、6年ぶりに訪れたストラスブールで、ひとりのきれいな女性を昔の知り合いと思ってつけ回すけど人違いだったって話。
 逆に言えば、こんなプロットともつかないプロットで一本の映画を成立させてるのがすごい。だんだん、もしかしたらストラスブールの観光映画なのかと思えてくる段階を過ぎると、さすがに、実験的という言葉が頭をよぎる。 
 街のざわめき、通りすぎる足音、反復してすれ違う通行人の佇まいなど、ほとんどこれだけで映画を成立させてるそのオブセッションは、確かにこのストーカーまがいの主人公を描くのによく似合っている。

 東京国際映画祭で『ミツバチのささやき』の巨匠ビクトル・エリセ監督が強く推奨したという。推測するに、おそらくこの映像の象徴性、というか、象徴的な描写に惹かれたのではないかと思う。

 あるかなきかのプロットにあれこれ言うのも野暮なんだけど、ピラール・ロペス・デ・アジャラの演じた女性がシルビアなのかシルビアじゃないのか曖昧であってもよかった気がする。もしくは、シルビアなんて初めから存在したのかしなかったのか。
 だって、グザヴィエ・ラフィットの演じる男はカフェの一角に座って、目についた女のデッサンを繰り返している。それがまた、いくら映画とは言え、全員モデル並みのいい女。その中のとびきりの上玉の跡をつけたとしか見えない。
 グザヴィエ・ラフィット自身がイケメンだから許されるのであって、佐藤二郎だったらハラスメントで訴えられる。結局、人違いでしたってなった夜に、他のと寝てるし。溜まってただけちゃうん?。
 その翌日には、シルビア(と間違えた女)と別れたトラムの停留所でじっと待ち続けてる。2007年には大丈夫だったか知らんけど、今だったら確実に通報される。
 ぐんぴぃを主人公にリメークして欲しい。水川かたまりとか(そういえば似てた気もする)。


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涙ハラスメント

 アメバの『しくじり先生』、たくろうがゲストの回を見てたら、アイドルの子が途中から泣き出して、若林正恭が「いったん止めるか!?」って場面があった。
 もちろん、全体として笑いにできてて問題ないと思うんだけど、あの子が何で泣いてたか、論理的に説明できる人いないと思う。
 経験的に、とにかくなんかわからんけど女は突然泣くのだ。正直言って、これは暴力同然だと思う。少なくとも迷惑行為に違いないが、タバコみたいに条例で禁止するわけにもいかない。
 
 これはこれで別に何とも思ってないが、もはや古い話になるかもしれない、佐藤二郎のハラスメントの話なんだけど、フジテレビの声明を読む限り、あれって要するに、佐藤二郎と橋本愛が楽屋で話してる最中に、橋本愛が泣いたってだけのことなのである。
 よく読めばわかる通り、橋本愛本人はそれについて何にも言ってない。橋本愛の事務所とフジテレビが騒ぎ立てただけなのだ。
 佐藤二郎の口調が激しかったことになってるんだけど、それは現場にいたのは当事者2人とスタッフが1人だけなので、橋本愛が泣いたって事実から逆算して佐藤二郎の口調が激しかったことになってるだけだろうと思う。
 だいたい口調の強弱に基準があるのか?。メーターでも設置されてたのか?。
 今回の場合、橋本愛個人から何か訴えがあったわけじゃない、と、少なくともフジテレビの声明にはそうなっている。
 にもかかわらず、フジテレビが勝手に重大視して佐藤二郎を断罪して話が大きくなった。と、フジテレビの声明からは読める。

 個人的にフジテレビにアドバイスするなら、女が泣いた時はほっとけ。それで問題なることはまずない。

 もうひとつこの話題をもう一度取り上げる気になったのは、YouTubeにひどいのがあって(まあそれは常住坐臥、常にあるのだが)、一応、ポリタスtvってまともだと思ってたサイトに毎朝テレビのワイドショーに出てる人がむちゃくちゃ言ってるので唖然とした。
 逆にこれはフェミニズムの現在地を知る良い指標になると思うので紹介したい。
 まず、この3人は誰も佐藤二郎にもフジテレビにも橋本愛にも彼らの所属する事務所にも全然取材してない。だけでなく、「足で書く」なんてことすらハラスメントのひとつだと言っている。
 それについてあれこれ言うとブレるので今はほっとく。とにかく、誰にも取材してなくて、ただ文春の記事とフジテレビの発表を見ただけなので、ヤフコメとかとスタンスは変わらない。
 それはそれで、だからと言って何かを言ってはならないわけではないが、まったくの二次情報で述べてるだけってことを頭に置いておいて、以下のような内容なのだ。

 橋本愛を「知的な方」「すごく聡明」と評す一方で、佐藤二郎を「野放しにしちゃいけないタイプ(橋本愛は「方」なのに、佐藤二郎は「タイプ」)、「自分の勝ちパターンしか知らないまま年食った」と評している。
 改めていうけど、このお3人は佐藤二郎にも橋本愛にも面識すらないのだ。私の理解ではこういうことをルッキズムというんだと思っていた。にもかかわらず、「イケメンならいいのかとかお門違い」とか発言してるんだけど、それはそのままお返ししたいのだけれど。ただ、ホントに驚いている。全体として「取り乱してる」と評するしかない。あらゆる論理的な破綻が凝縮されてる。こんなツッコミどころ満載な展開って他にまず見ない。
 ついでに言うと「灰皿なげたとかが武勇伝とされた時代」とか言ってるけど、それは蜷川幸雄のことで、つかこうへいの時代でももはやギャグ扱いだったと思う。佐藤二郎は1969年生まれ。『熱海殺人事件』の初演が1973年。佐藤二郎はまだ4歳。『蜷川・マクベス』の初演は1980年。佐藤二郎は小学五年生。全然世代が違う。

 つまり、この3人の意見もグチャグチャな上に、ファクトの裏付けもない。

 で、これまたごくごく日常的な光景の記憶を言わせてもらうと、さっき言ったように、女がなぜ泣くかはほとんど誰にもわからん。しかし、ひとり女が泣くと、3人くらい関係ない女が集まってきて騒ぎ始める。そこに理性や知性があったかどうか。
 で、結局、フェミニズムの正体ってこれだろ?。

 女が泣くのは生理現象にすぎず、それで気が済むなら勝手に泣けばいいし、こっちも別にそれに苦情を言ったりしないのに、どういうわけでまわりがそれをハラスメントだ何だと騒ぎ立てたんだ?。って話。

 

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後日追記

 フェミニストの定義を思いついた。「フェミニストとは、フェミニズムについて語るとき理性を保てない者を言う」。

『トロフィー』

 今年は特に観たい映画をすぐに観られる状況にはないので、どうしようかなぁと迷う感じだと見逃す場合が多い。

 『トロフィー』の監督、脚本の孫明雅は、分福の一員なので、是枝裕和のチームで映画を撮っている、つまり、デビュー作とはいえ、西川美和とか砂田麻美とか、あの水準の映画になる可能性は高い。
 でも、個人的に去年 、2021年のヤン・ヨンヒ監督『スープとイデオロギー』を配信で観たばかり。2012年の『かぞくのくに』を序章に燦然と輝いていて、かえって背景を共有している映画に手を出しにくい。井浦新がキャストで被ってるのもハレーション。
 それと、結局これがいちばん大きかったかもしれない、少女が主人公の映画をハズした時のおじさんの居心地の悪さは半端ない。もれ伝わるところによると、BTSのコンサートのためにお父さんの勲章を売るっつうじゃないですか?。いくら少女とは言え、あるかなぁ?その跳躍に乗れるかどうかの勇気が湧かなかった。
 
 というわけで、7月10日の公開からだいぶ経過してからの鑑賞になったのだけれど、映画の日とはいえほぼ満席。空いてるところはないかと他の劇場も覗いたがそちらは売りきれていた。大ヒットでしょう。アニメやハリウッドの娯楽作品でもないのにこの大ヒットは信用できそう。それでやっと胸を撫で下ろした。

 心配していた勲章を売るくだりも、「父親の勲章を売る」との文字情報が喚起する不自然さは、大人の側にこびりついた常識ってだけなことに思えてくる。もちろんその常識が社会なわけだから、大人の常識が映画の都合に置き換わるだけなら意味がないが、シナリオが十分に練られていて、在日4世の少女の目を通してみる世界の、少女自身が気が付かないほどの真実さえ見えてくる気がした。

 デビュー作らしく監督自身の実体験に裏打ちされている部分も多いのだろう。それなしにあのシナリオが書けるとは到底思えない。監督インタビューによると、西川美和に「あなたの中には爆弾がある。その爆弾を作品にしてみたら?」と言われたそうだ。まさにそういう映画になっている。

 キャストは分福だったから可能だったんだろうと思わせる豪華な布陣。井浦新の佇まいはあらまほしいピースだったし、YOUときたろうのふたりはいつ見ても彼ら自身にしか見えないのにいつ見ても自然なのは改めて感心させられる。たぶん笑いの現場に身を置いている人はこれができないとスタートラインにすら立てないんだろう。

 差別について語られている映画ではないと思う。それに確かに日本会議や神社本庁がむき出しの差別発言を振り回していたころに比べれば今はマシになったと思う。
 逆にこういうときだから差別とは何かを考えやすいかもしれない。
 若い頃は、日本人の集合意識のようなものとしてアジア全体に対する罪悪感があった気がする。しかし、長じて、たぶん20代の半ば頃か、「あれ、待てよ、俺、差別したことあったっけ?」と思ったら、さすがに違うかってなった。それは抜け出せてよかったと思っている。
 個人と民族、あるいは祖国の問題は複雑だけど、その2つがあまりにべったり重なり合っている人には何かしら欺瞞を感じる。民族、あるいは祖国は個人の属性にすぎない。個人が祖国や民族に属しているわけではない。ちょっと考えればわかるが、個人は具体的だが、祖国や民族は概念にすぎないから、考える人に考えが属するのであって、考えに考える人が属するなんてありえない。
 
 なので、祖国は人それぞれに違う。一例を挙げれば、私にとっての日本と日本会議の日本とは似ても似つかないはずだ。にもかかわらず、祖国という概念が差別の契機になりうることはある。

 差別感情なんていくらあっても構わないんだと思っている。何なら差別発言すら構わないのかもしれない。ただ、差別を行動に移してはいけない。とそんなふうに考えているが、この映画は、そんな複雑なエネルギーが渦巻いている海の中を、静かな海面を通して覗き込むような味わい深い映画だった。

 上映後に映画館内で拍手が起こった。これは日本にはない文化だ。私もどんなによい映画を見ても拍手なんかしない。舞台挨拶で誰かが登壇するならともかく、スクリーンに拍手してもしょうがなくない?。でも、これ誰に言われたわけでもなく何となくこうなっている。確かに民族性はあるってこと。

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『残響のメロディ 魂の放浪者ニコ、最後の旅路』

 「ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの歌姫」ニコ・ペフゲン、と言われても、もはやヴェルヴェット・アンダーグラウンドそのものを知らない人の方が多数派かもしれない。
 と言いつつ、私もそんな詳しくはない。ただ、

 このアルバム・ジャケットを知らない人は却ってそうはいないのかもしれない。これが、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのデビュー・アルバムで、これを仕掛けたアンディー・ウォーホルにヴォーカルとして引っ張ってこられたのがニコだった。

 ヴェルヴェット・アンダーグラウンドに「華がない」と考えたアンディー・ウォーホルが当時ファクトリーに出入りしていた(アンディー・ウォーホルの実験映画に出ていたらしい)ニコをバンドのメンバーにねじ込んだ。ルー・リードらバンドのオリジナル・メンバーは相当に反発したらしい。結局、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド&ニコというゲスト・ヴォーカル扱いで、歌ったのもこのアルバムの3ナンバーだけで、その後バンドを去った。

 ただ、アンディー・ウォーホルが目をつけたのが単にルックスだけだったかというと、そうでもなさそうで、独特の低い声に魅力があったらしい。
 そもそもアンディー・ウォーホルにニコを紹介したのはボブ・ディラン。1964年のヨーロッパ・ツアー中に立ち寄ったパリで、ファッション・モデルをしていたニコと出会いそのまま欧州旅行に同行。そのとき、ボブ・ディランがニコに捧げた曲が「I'll Keep It With Mine」。後に、ニコのソロアルバムにカバーされているし、映画の中でも主演のトリーヌ・ディルホムによって歌われている。
 ヴェルヴェット・アンダーグラウンド以前に、実はニコは歌手としてソロデビューしていた。1965年、ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズのバックアップで「イミディエイト・レコード」から『I'm Not Sayin』をリリース。この時も、ブライアン・ジョーンズを惹きつけたのは彼女の声だったようだ。

 この映画は、ニコが1988年に49歳で亡くなるまでの2年間を描いている。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの名声が彼女の活動を支えていたのは間違いないと思うが、それがまた彼女自身の音楽の評価にバイアスをかけていたのも事実だろう。しかし、この映画のクライマックスとも言える東西冷戦下のプラハでの地下ライブは、純粋に音楽として胸を熱くさせる。

 プラハでの地下ライブは当局にかぎつけられて強制的に終了させられるが、チェコ第二の都市ブルノで敢行されたゲリラライブは滞りなく、その音源は今でも聴くことができる。
 映画では、しかし、その音源を使うことなくトリーヌ・ディホルム自身の歌で表現している。映画としては口パクにしなくてよかったと思うし、賛辞を贈る声の方が多いようだ。

 ただ、トリーヌ・ディホルムは親しみの持てる健康的な容貌なので、アラン・ドロン、ボブ・ディラン、ブライアン・ジョーンズと浮き名を流した美貌が晩年に持ち崩した感じは出てなかった、という声もあるらしい。

 トリーヌ・ディホルムもたぶん若い頃は美しかったに違いない。個人的には『あの胸にもう一度』でアラン・ドロンと共演したマリアンヌ・フェイスフルの方に似ていると思った。
 マリアンヌ・フェイスフルは峰不二子のモデルになったと言われている、ミック・ジャガーの元カノだけど、ニコと経歴が微妙に重なりながらも、ルックスはベビーフェイス。
 ほぼ還暦という年に『やわらかい手』に主演して話題になった、あの感じを思い出した。
 ニコのルックスは確かにもっとダークな感じだと思う。『名もなき者』のティモシー・シャラメくらい寄せられたら良かったには違いない。
 ただ、歌はトリーヌ・ディホルム自身シンガーだってこともありパワフルだった。

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