「我、かつて罪なくて生きたりしが、掟(おきて)来たりし時に我は死に、罪は生きたり」*1
アンドレ・ジッドの『田園交響楽』の巻頭辞。聖書なんて読んだこともないけど、小説の内容とあまりに響き合いすぎて記憶に残る。私にとっては、アンドレ・ジッドの『田園交響楽』を思い出すってことは、この聖書の一節を思い出すってことと同じである。
ヨン・サンホ監督の『顔-かお-』を観て、アンドレ・ジッドの『田園交響楽』を思い出すのは、思い出してみた後でじわじわ考えてゆくと、正鵠を得ているとまでは言えない。
主人公が盲目であることと、一面では盲目が生んだ悲劇であること、そして、罪と愛について深く取り止めのない思索に誘われるところが共通しているだけなのかもしれない。
観終わった直後の感想としては、原作は小説なんだろうと思った。劇中ずっと顔を見せないチョン・ヨンヒ(シン・ヒョンビン)の顔写真が最後に見つかり、ドンファン(パク・ジョンミン)は40年前に亡くなった母の顔をそこで初めて見ることになる。
その時、その顔写真を観客にも見せるべきか、それともドンファンが見るシーンだけにとどめるべきかは議論の分かれるところなのかもしれない。
なぜなら、作中ずっとヨンヒは「化け物みたいに醜かった」と言われ続けているので、彼女がホントに醜かったのか、醜いとしてもどの程度なのか、あるいは実は美しかったのか、美しいとしてどんな美しさだったのか、あるいは、美しくも醜くもない平凡な顔だったのか、平凡な顔としてもどんな印象の顔だったのか、これをたった一枚の写真のワンカットで、映画的に処理するのは不可能に近い。
だから、いっそのこと最後まで見せないって選択は、作り手の頭をよぎると思う。ヨンヒが最後に「醜い」と言われていた亡母の写真を見て涙する。観客には見せないで想像させるという選択。
小説なら例えば
「ドンファンは、入り乱れた感情が彼を制御する前に、機械的に封筒を破って、その写真を引き出した。化け物、醜い、ブサイクと聞かされ続けた母の、その娘の頃の顔は、拍子抜けするほど平凡な、彼が子供の頃にはどこででも見かけた、田舎娘の垢抜けない顔にすぎなかった。
ドラマでよく見るような、母を懐かしむ思いなど抱きようもなかった。この娘を周囲の誰もが、醜い、ブサイクと言い続けて、目の見えない父と結婚させて面白がったのか。そして、40年後にようやくあいまみえた我が子は、自分を母とさえ思えない。
もはやどんなに理由を探しても出るはずのない涙が、流れるべきでないドンファンの顔を伝い落ちていた。父に似ていると言われたその顔の頬を。」
といった感じで締めくくれる。だから、原作は小説だと思ったのだが、原作は監督自身の手になるグラフィックノベルだそうだ。グラフィックの部分がどう表現されていたのか気になる。
この写真を視覚的に処理するのは、どんな顔を持ってきても難しいと思う。しかし、オープン・エンディングで観客の想像に任せてはテーマがブレる。美しくも醜くもない平凡な顔写真を敢えて持ってきた作り手の意思には拍手を送りたい。
アンドレ・ジッドの『田園交響楽』とこの映画が似ているかどうか、ジッドのあの小説が好きな人はこの映画を観て比較するのも面白いだろう。
視覚は人間にとって最も比重の大きい感覚なので、目が見えると見えないではそこに圧倒的な非対称性が生まれる。その非対称性を強弱と言っても、貧富と言ってもいいのかもしれないし、善悪、賢愚とされることもあるかもしれない。
そして、その非対称性をお互いが無意識に受け入れているあいだは、そこに罪は生じない。しかし、もし美が譲れない価値として厳然としてあるならどうだろうか。イム・ヨンギュ(クォン・ヘヒョ)は、盲目でありながら、美しい字を彫ることで「韓国の奇跡」と言われた篆刻師だった。
盲目でありながら美に囚われていた。盲目であるからこそ彼にとっての「美」は、視覚の確かな人よりはるかに観念だった。だから「醜さ」もまた彼にとっては個人の属性ではあり得なかった。
多くの人にとって美が絶対的な価値を持つことなどまずない。美しい女が好みの女とはかぎらない。しかし、盲目でありながら必死で美を掴み取ろうと生きてきたヨンギュにとって美はもはや実体なのである。彼は美を指先の感覚だけで実体化してきた。だから醜さもまた彼にとっては実際にそこにあるブツなのだ。
ヨンギュは盲目なだけではなく美に囚われている。これは『田園交響楽』のジェルトリュードに似てると言えるのかもしれない。彼女は目の手術で視力を回復するとともに、罪を知ることになるが、ヨンギュは罪を知らぬまま。息子のドンファンが代わりに罪を知ることになる。
誰もドンファンを責めることはできない。父の殺人はとっくに時効をすぎている。一緒に調査を進めたプロデューサーはスクープをものにしたかっただけ。ドンファンを男で一つで育ててくれたのは父であり、ドンファンには母の記憶すらない。
しかし、母の写真が父のではなくドンファンの心の罪を生き返らせる。「掟来たりし時に我は死に、罪は生きたり」。
アンドレ・ジッドが自己を投影したのはおそらく牧師の方であったろう。妻子がありながら同性愛の情欲に苛まれていた。しかし、聖書の言葉をなぞらえたのはどう考えてもジェルトリュードの方だった。牧師は最後まで「罪なくて生き」続ける。では、ジェルトリュードの罪とは何なのか。愛が罪だと言えるか?。
たぶん愛は罪に違いないと思うが、重要なことはその罪は「生きたり」と言われていることだ。「我は死に」という時、その言葉の主体が現に死んだとしたら罪もまた死ぬはずだから、「罪は生きたり」というかぎり、死んだ我は、そののちに罪として生きていなければならない。
つまり聖書のこの一節は「その罪を生きよ」と言っていることになるだろう。その罪ある愛を生きよ、とは絶対書いてないが、罪は生きる。
結局、キリスト教がユダヤ教を超えてゆく地点はいつもこうしてロゴスを超えてゆく地点だと思う。アンドレ・ジッドはジェルトリュードを殺してしまうが、エピグラフのパウロの言葉は「その罪を生きよ」と語る。その罪をイエスに委ねて生き続けよと。
ヨンギュが篆刻師なのも深読みすれば、言葉に囚われるロゴス中心主義を示唆しているととれるかもしれない。ホン・サンスの映画の常連クォン・ヘヒョの重厚な演技が見られるのも楽しい。
*1:新約聖書「ローマ人の手紙」第七章9節





