『異人たち』ネタバレ

 『異人たちとの夏』、山田太一原作、大林宣彦監督。出演、片岡鶴太郎秋吉久美子風間杜夫名取裕子、永島敏行。なんでこんなに憶えているかというと、この度の『異人たち』の公開に合わせてYouTubeで無料公開していたのを観たばかりなのだ。
 いい映画だけど、1988年のこの日本映画をなぜまた今ごろイギリスでリメイクを?、と、不思議に思うのは私だけじゃないと思うのだ。これはさすがにTPPとは関係なさそう。
 しかし、観てみてなるほどと思った。たぶん、監督の個人史を刺激する部分があったのだと思う。
 『異人たちとの夏』では名取裕子の立ち位置がちょっと弱いと思う。名取裕子の孤独を納得するには観客に歩み寄る必要がなかったろうか。風間杜夫にはミッドライフクライシスのリアリティがあったが、名取裕子の孤独にドラマトゥルギーが欠けていた。『異人たちとの夏』では、主人公の両親と主人公の恋人名取裕子はほぼ何の関係もない。といって悪ければ、主人公に取り憑こうとする悪霊と守ろうとする守護霊と言った、伝統的な怪談の構造だろう。ただ、両親と恋人とどちらが主人公に取り憑こうとしているのか最後までわからない。そこにドラマの推進力があった。
 『異人たちとの夏』は、伝統的な怪異譚にことよせつつミッドライフクライシスを描いていた。これに対して『異人たち』は主人公をゲイに設定することで、主人公の孤独をまったく別ものに変換した。両親と主人公の関係と主人公と恋人の関係を対比構造にすることができた。そこに、この映画がよくある日本映画のリメイクではなく、アンドリュー・ヘイ監督の作家性が刻印されている。
 12歳のときに失った両親との再会は、ゲイの主人公にとっては、『異人たちとの夏』とはまったく別の重みを持ってくる。もはや原作からも飛び出している。
 主人公が最初に隣人を拒むのは共通していても、『異人たち』のそれは、かつての両親と主人公の断絶に重なる。主人公の孤独とボーイフレンドの孤独は共鳴し合う。たぶんそれがアンドリュー・ヘイ監督が36年前の日本映画を敢えてリメイクした意味なのだろうと思った。原作を超えているかもと思わせる。
 
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