これは観ようと思ってたが遅くなった。最寄りの映画館では、明日で上映終了とあったので、仕事終わりに駆け込んだ。
太平洋戦争末期、日本軍のために核兵器開発に取り組んでいた、京大の研究者たちを主人公にしている。
柳楽優弥、三浦春馬、有村架純、田中裕子というキャストの存在感がすばらしく、シナリオの意図を飛び越えた感があった。
シナリオは、ジブリの『風立ちぬ』の影響をすこし感じさせる。というのは、英語のナレーションがはいるのだけれども、それは、どうもアルバート・アインシュタインの声という設定であるらしく思えた。
『風立ちぬ』では、主人公の堀越二郎が、彼の仮想空間で、カプロー二というイタリアの技術者と架空の会話を交わしていた。
この映画の英語のナレーションは、テーマからも『風立ちぬ』のあの図式を思い起こさせるけれども、実写映画のすごさは、役者さんのお芝居が、そういう図式を突き破ってしまう。
だから、おこがましい言いようだけれども、最後のナレーションあたりは、5分かそのくらいかしらないが、要らなかった気がした。映画が急にシナリオにスケールダウンした気がした。
比叡山の柳楽優弥さんの芝居が最高だったので、その後の全部は、ちょっと説明的に感じた。あの芝居を説明でなぞる必要ないじゃないですか?。
なので、ラストの幾分かは蛇足なように思えて残念。たぶん、シナリオの段階ではあそこまで書いてあった方が収まりが良かったんだと推測する。
だけど、映像と役者さんの存在感があそこまで雄弁なら、シナリオのオリジナルにこだわる必要はなかった気がした。
三浦春馬が戦地から一時帰国して帰ってくる初登場シーンは、不意を突かれて、思わず息を飲んだ。「まるで幽霊でも観ているような」顔を、母親役の田中裕子がするのだけれど、劇場中の観客がそんな顔をしていたのではないか。「ただいま帰りました」って。
ネタバレは、サブジェクトで予告してあるので構わず書くが、弟を特攻志願で失い、広島の惨状を現地調査でつぶさに知り、長崎の次に原爆の標的にされるのは京都だという噂が流れるなか、主人公はかなりとんでもない行動をとる。
科学者として、京都に原爆が落ちる瞬間を観察記録するといって、比叡山に登る。京都大学は京都盆地の東の端にあり、その背後にすぐに比叡山が控えている。比叡山から京都の町を見下ろすという経験は、あのあたりに暮らしていると、わりと日常的な感覚なんだろうと思う。
私自身も視界の開けたあたりから、夜の京都の町を見下ろしたことがある。胸の締め付けられる光景だった。
灯火管制下の町では、夜景は望めないだろう。しかし、原爆が落とされる瞬間を待ち受けている主人公の異様な孤独、指導教授や母親に「原爆が落ちる瞬間を観察する」と告げて、決然と山に登った戦時下ならではの高揚感と狂気を、柳楽優弥は見事に表現していた。
この映画が舞台にとっている1944から1945年、戦争末期の状況で原爆開発など、実はそれ自体が狂気の沙汰だった。その狂気は「神軍」だの「皇軍」だののふざけた呼称にすでに宿っていた。
そういう主人公の狂気に観客もまた巻き込まれていく。その柳楽優弥の演出がすごく上手いと思った。なので、京都の町に落ちるべき原爆を待ち続けるシーンで終わってもよかったと思ったのだ。
田中裕子が握るおむすびの演出もさすがだと思った。イメージですべてを語っていて一切説明しない。
それだけに、あのアインシュタインとの対話は、そこだけコンセプトに流れて肉体化していないと思えた。
もう一点、重箱の隅をつつくようだが、学徒出陣を見送る生徒たちの描写は、ちょっと首をかしげた。旧帝大生たちは、内心で軍部をかなり馬鹿にしていたと聞いたことがある。ましてや京大生ともなると、どうだったろうか。
そういう知的エリートたちですら飲み込まれていく狂気が描かれていただけに惜しい気がした。
主題歌は、長崎出身の福山雅治が歌っている。福山雅治の「福のラジオ」に監督の黒崎博と柳楽優弥がゲストに来て、あのおむすびのシーンの撮影の裏側などを語っていた。興味のある方はどうぞ。