『女ざかり』

夜勤明けの土曜日で、うだうだしたいところだったが、あした出勤になってしまったので、自分に鞭打って、少し早めに出かけた。腹積もりとしてはもう30分か一時間早く出たかったのだけれど、起きられなかった。早く出かけたのは、虫の報せみたいなものだったか、駅を出てしばらく歩くと、とおくに行列が見えてきた。「まさかね」。出光美術館は帝劇ビルの9階という情報だったので、あれは劇場の方に並んでいるのであろうと自分をごまかしてみたが、残念なことに、すぐに美術館の行列だと分かった。美術館の開館は午前10時、遅くなったとはいっても10:30には着いたのである。先行き案じられたのであるが、美術館を出るときの行列は、「早く来ておいてよかった」と思えるものだった。
俵屋宗達尾形光琳酒井抱一、三人の筆になる『風神雷神図屏風』が、一堂に会して展示されているのである。しかも会期は10月1日まで。ある程度は混んでも仕方あるまいか。
国宝、宗達の『風神雷神図屏風』を発見したのは光琳だった。初めて知った。光琳は感動して模写する。抱一は宗達のオリジナルの存在は知らず、光琳の作品としてまた模写する。抱一は、光琳の『風神雷神図屏風』の裏に『夏秋草図』を描き、これも国宝になっている。わたくし実は、表が風神雷神、裏が夏秋草図の屏風が見られるのではないかと期待していたのだが、今は別にされているみたいですね。
風神雷神図にかんしては、やはり宗達のものが一番いい。光琳の模写はまるでトレーシングペーパーでも使ったように姿かたちは相似しているが、屏風の中の位置が少しずれているのと、雷神の視線が違う。これだけでなんとなく画面がギクシャクしてしまう。宗達は二曲一双の屏風全体を扇面にみたてて、逆三角形の構図であれを描いたといわれているが、光琳、抱一のものは、画面から三角形が消えて、風神と雷神が直線的に向き合ってしまっている。しかし、ほんとにほんのちょっとずれているだけなのだが、それだけで画面から迫力がなくなる。
抱一の紅白梅図屏風という銀屏風もよかった。銀は時を経ると錆びて色があせていく。宗達のものには傷みの激しいものも多かった。抱一の銀屏風もいつまで今のままで見られるかわからない。
午後からは渋谷の文化村にモディリアーニを見に行った。リール美術館の所蔵展らしいのでほかにもいろいろあるのだが、わたしとしてはモデイリアーニの裸婦を見に行ったのである。なんといっても色っぽい。量感が違う。裸婦のデッサンもあったが、肩の線とかそれだけで色っぽい。わたしの好きなベルナール・ビュッフェもあったが、裸婦ではちょっと太刀打ちできないと思う。静物によいものがあった。ビュッフェは風景画が断然いいと思う。ニューヨークのシリーズはまた観てみたい。

女ざかり (文春文庫)

女ざかり (文春文庫)

丸谷才一の『女ざかり』を読み終わった。またしても面白い。「ゴシュウ」という言葉が出てくる。耳慣れない言葉で登場人物も「ゴシュウ?」と聞き返す。これはどこかで聞いた言葉だぞと思っていると「互酬」で、先日なくなった阿部謹也氏の著作の重要なキーワードだった。丸谷才一は「互酬」を小説的に展開してくれている。阿部謹也氏の本を読んで、いまいちもやもやしているなぁと思った場合、この本を読んでみるのもよいと思う。とにかくうまい。新聞と議会政治に関する指摘も鋭い。が、鋭いだけでなく小説として面白いのがまたすごい。丸谷才一というひともはずれがない人である。