『大日本人』

今日も明日も仕事。
朝のニュースを見ていたら、幸田来未の失言報道。コンテキストがわからないので、個人的な感想はないが、ただ、昨夜、偶然見ていた番組に彼女が出ていて、キューティーハニーの主題歌のオファーがあったときのことを「見てる人は見てくれてんねんな」と思ったと語っていた。
一夜明けて、この失言報道。たしかに、見ている人は見ている、敵も味方も。
新聞の映画欄に、いまさら松本人志の『大日本人』が、その評論氏の昨年のワーストだったという記事。
私は観ていないが、別に異論はない。以前、ムーヴィーウォーカーの観客による五段階評価で5と1にまっぷたつに割れていることにふれた。
大日本人』はヒーローものである。「ごっつええ感じ」の傑作コント、「ゴレンジャイ」もヒーローものだった。
松本人志が映画を作ろうとしたとき、ヒーローものになってしまうのは、彼にテーマがないからではないかと疑っている。センスはあるがテーマがない。だから、センスを求める人は高い評価を下すが、テーマを求める人は評価が低い。そういうことではないか。
転換点は、「一人ごっつ」だったと感じている。あの番組はすごく面白かったが、ただ、スタッフの笑い声が不快で見続けられなかった。つまり、スタッフが松本人志の笑いのレベルについて来れなかった。
あの時点まで、彼には笑いの追及というテーマがあったと思う。しかし、スタッフがそれについて来れなければ、テレビ番組としての形を成さない。テレビでの笑いに限界を感じたと思う。
ごっつええ感じ』というテレビ番組の評価は、いまさら言うまでもないはずだが、ただ、コントとゲームという番組のフォーマット自体は、たぶんテレビの物心がついたころからあった古い枠組みだった。
そういう、視聴者と安心して共有できるイレモノがあったからこそ、松本人志は稀代のセンスを発揮できた。
しかし、新しいフォーマットを作ろうとしたとき、スタッフがついてこなかったのである。その時、彼はテーマを失ったと思う。
ダウンタウンの出現から、新しい笑いの誕生を見続けてきたという自覚のある観客は、たぶん、映画『大日本人』に隠された意図を見つけることが出来ると思う。それは『ごっつええ感じ」の延長上にはなく、『一人ごっつ』の先にある笑いであるはずだ。
すべて推測なのは、映画を観ていないせいだが、いまのところ、今後も観るつもりはない。松本人志の笑いが求めているのが、映画というフォーマットであるかどうか疑問に思っているからだ。そこで、彼が何か掴んだのであれば、次があるだろうし、違うと思ったのなら、別の試みに移るだろう。
コント55号解散直後の萩本欽一氏のように、しばらく試行錯誤が続くと思う。
ただ一つ私が思っていることは、この先に何もなくとも、これまでの活動だけで、私としては充分に笑わせてもらった。
ダウンタウンはそれほど大きな存在だった。不世出の漫才師だと思う。