パラダイムシフト

徳川十五代を列挙すると、家康、秀忠、家光、家綱、綱吉、家宣、家継、吉宗、家重、家治、家斉、家慶、家定、家茂、慶喜である。
だいたい三代目までは誰でもいえる。五代目もおおかた知っているはずで、そのおかげで四代目の‘綱’の字がでてくる。しかし、6と7は忘れがち。それにたいして、八代将軍吉宗を知らない人はめずらしい。9、10がまた忘れがちで、11代の家斉がちょっと有名だが、慶喜までの三人はまず憶えられない。
徳川将軍の名前は‘家’系に統一したかったはずだが、‘非家’系にはそれぞれの事情がある。秀忠は、当時まだ豊臣家に遠慮しなければならなかったため、慶喜は幕末の動乱で‘家’系に改名するどころではなかったため、綱吉は家綱急逝によるピンチヒッターで、御三家に遠慮しなければならなかったためである。
では、吉宗はなぜ‘家’系を名乗らなかったのか。
三田村鳶魚によれば、吉宗の‘吉’は綱吉にもらったもので、吉宗は綱吉への敬意を生涯持ち続けた。‘犬公方’綱吉を‘名君’吉宗が敬していたというのは奇妙なようだが、綱吉暗君説には彼が御三家の出身でないことも加味してみないといけない。
それだけが取り上げられることの多い生類憐みの令にしても、江戸の急速な都市化を背景として考えれば、当時の江戸市中は、ああいう法令を出さざるえない状況であったとも考えられる。
吉宗は改革の継承者として、自身の名前に‘吉’の字を残すことで、世間の感情的な批判にひそかな抗議を示したと思われる。
奇しくも吉宗が紀州より抜擢して江戸の幕臣に加えた家臣団である田沼家の出身、田沼意次も後世には悪徳政治家の汚名を着せられることになるが果たして実体はどうだったろうか?
世間はあてにならない。人はひとりの人として、よって立てる価値観を持つべきだと思う。
なぜこんなことを考えたかというと、新年一回目の小林信彦のコラムに、また「小泉=竹中が・・・」というくだりが出てきたからである。
『日本の喜劇人』以来のこの人のファンで、週刊文春を購読するのもこコラムを読みたいがためだけれども、この‘小泉=竹中批判’だけにはうんざりする。先週の深みのある森繁久彌評とは雲泥の差だ。ああいうスタンスで小泉純一郎竹中平蔵を書けないものかなぁ。ファンとしてはそれが無理なのがわかって言っているのだけれども。
以前、同じコラムで映画「ヤッターマン」を評していたときのことだが、深田恭子演ずるドロンジョの妄想の中で、アルマイトの鍋を抱えて豆腐を買うおなかの大きなドロンジョが、夕日を背にして坂道を降りてくる桜井翔に手をふるシーンを誉めていた。
昭和ヒトケタ世代に属する小林信彦の人生はぴったり高度成長と重なっている。あの時代にノスタルジーを感じるなという方が無理だと思う。しかし、その時代の只中にいるときは、小林信彦も高度成長の申し子というべき政治家田中角栄を批判していたはずである。
小泉構造改革を批判する人たちにはいくつかのタイプがあるようだ。
ひとつは、改革によって既得権益を奪われる官僚や利益団体のひとたち。これはわかりやすい。それに、案外変わり身が早いのではないか。いつまでも批判していても利益にならないからである。
これに対して、いつまでもうじうじ批判し続けるタイプは、政治家や学者たちで、この人たちの心理は、また別の意味でわかりやすい。嫉妬である。カネも女も振り捨ててただただ名誉がほしいこの職種の人たちは、裏返せば一般人にくらべてきわめて嫉妬深い。中曽根康弘以後の政治家で後世に評価されるのは小泉=竹中だけであろうことをいちばん知っているのは彼らだろう事を思えば、その批判の意味はあまりにもよくわかる。
小林信彦はどちらとも違って、高度成長をスタンダードだと考えてしまっている人たちに属するのではないかと思う。
日本の高度成長はあまりにもうまくいった。そして長続きした。しかし、そのために解決せずに先送りにしてきた問題も多くあった。それは当時から指摘されてきたことだ。憶えている人もいるはずだ。政財官癒着の問題、地方自治の問題、etc.いつか、つけを払わされるときが来るぞと当時から言っていたそのときが今来たというだけなのである。
それを小泉=竹中のせいにするのは全くの倒錯にすぎない。
高度成長というだけでなく、明治以来の西欧近代化の流れが終わったともいえるので、今という時代は100年に一度のパラダイムシフトの時代なのである。こんな時代に世間の流れに身を任せていてもたぶんどこにも辿りつかない。