マン・レイ展

今、オルセー美術館展が新国立美術館でやっている。名画が一堂に会した美術展だけれど、はなから観るのをあきらめている。混むに決まってるもん。
マン・レイ展は、その同じ美術館だったけれど、案の定、オルセー美術館展の行列は、ここで行列に並ぶより、羽田からオルセー美術館に行ったほうが早いのではないか(?)と思わせるものすさまじさだった。
マン・レイは、絵筆を捨てて銀塩フィルムをとった。ふつうそういう人はカメラマンになるのだけれど、マン・レイは、逆にその時点で画家になった。
デジカメの登場で、銀塩フィルムの暗室作業の技術が急速に失われていくだろうが、マン・レイは、絵筆の技術のかわりに、暗室の技術をきわめた銀塩の達人だったろうと思う。
今回はじめて展示されるカラー写真などは、フィルムの裏側に、マン・レイ自身がなにか特殊な薬品を塗布して発色をよくしていたそうだ。
ソラリゼーションにしても、レンズを通過した被写体の像が、フィルムを経て印画紙に定着する、その過程に作家が介入する部分にオリジナリティーを見出していたという意味で、マン・レイが自分をカメラマンより画家に近いと考えていたのは当然だろうと思う。
面白いと思ったのは、マン・レイは自身の作品の複製を多く作っているのだけれど、そのとき、わざわざオリジナルを破棄さえしていたそうだ。複製の方にこそむしろ作家の意図がよく現れると信じていた。
絵筆を使う画家にはちょっと考えられない発想だろうと思う。
マン・レイの自画像を見て、完全にゲームを支配している顔だと思った。こっちが見えていないものが見えている人の顔だ。晩年になるほどその自由さがきわだってくる。晩年を寄り添ったジュリエットもいい顔をしている。
マン・レイの死後、残されたスタジオを、篠山紀信が撮影している。その写真の中にジュリエットの写真もあって、それがすごくよかった。