二枚舌

knockeye2012-07-13

 小沢新党の旗揚げにあわせるように、野田政権は‘新成長戦略’なるものを発表したが、いまさらいうまでもなく、全編これ官僚の作文である。民主党は‘政治主導’をかかげて政権交代を果たしたはずだったが、‘国家戦略局’に格上げされるはずだった‘国家戦略室’は、‘国家戦略会議’とかいう、いわば、政治家の茶話会か親睦会のような一種のレクリエーションに取って代わられたようだ。
 今にして思えば事業仕分けがまさにそうだったが、いずれにせよ経済財政諮問会議のように、予算編成に口を出せないわけだから、これで、民主党は、政策は官僚に丸投げしていた時代の自民党にもどった。それはいつの時代の自民党なのかと言えば、小泉純一郎橋本龍太郎以前、つまり、小沢一郎時代の自民党に戻った。とんだ茶番に付き合わされたものである。
 茶番つながりというわけではないが、日経に藤巻健史というひとが、

・・・(消費税増税を成し遂げた)野田首相のことを見直した一方、この期に及んで消費税率の引き上げに反対する政治家は「緊縮財政反対」と駄々をこねるギリシャ人よりひどい・・・

と、書いているのだが、その直後に

とは言いながらも、この消費税の10%への上げは財政破綻の時期を遅らせるだけで根本的解決策にはならない。焼け石に水だ。財政破綻というハードランディングは奇跡でも起こらない限り不可避である。

と、続けて

国民が今日から40%とか50%の消費税を受け入れるのならともかく、そんなことはありえないだろうから私は財政破綻近し、と言っている。

と言っている。
 もし、40〜50%にしなければ、消費税では財政再建できないなら、消費税以外の財政再建策を考えるのが正常な論理というものではないか。なぜ、‘消費税率の引き上げに反対する政治家は「緊縮財政反対」と駄々をこねるギリシャ人よりひどい’のか。消費税では財政再建できないことが明白なのに、やみくもに消費税増税する政治家の方が愚かしくないだろうか。消費税増税では「財政破綻近し」といいながら、消費税増税案を通した「野田首相のことを見直した」りしているのは、全くの自己矛盾だ。
 藤巻健史というひとは、フジマキ・ジャパン社長という地位にいる人だから、馬鹿じゃないはずなので、一時的に視野が狭くなっているのではと思う。つまり、「消費税、是か非か」という二者択一の論理に思考が追い込まれてしまって、それ以外の選択肢に考えが向かなくなってしまっている。これは、今までこの国において何度も繰り返されてきた愚行のパターンで、右翼か左翼か、反ソか親ソか、反米か親米か、小泉か反小泉かみたいな、単純きわまりない○×式で、国家の財政再建のような重大な局面にあたっても結局こういう行動パターンにおちいるのを見せつけられると、おきまりの文句であるが「ムラ社会」という言葉が頭に浮かんでしまう。つまり、なにかを決めようとする時、個人に基準がなく、集団に基準があるので、○×で‘ムラを二分する行動’に走ってしまうわけである。
 例を挙げるのに苦労はしないはずである。直近では、河本準一のケースがあげられるだろう。たまたま、ニューズウィークの日本版の巻末コラムにフランス人のコラムニストが「フランスではあり得ない生活保護バッシング」としてこれを取り上げていて、

フランスでは国から金をもらうより子供から金をもらう方が恥ずかしい。

と書いている。
 国家は、国民が運営しているシステムなのだから、必要な時に助けを求めるのは当然だが、日本では、たとえば、イラクでボランティアが人質に取られると、人質に取られた本人だけでなく、その家族までもバッシングにさらされる。‘世間様に迷惑かけた’というわけ。これが集団主義
 ムラ社会つながりというわけではないが、今週、もっとも唖然としたし、また笑ったのは、加藤祐子のJAPANなニュースで取り上げられていた「insularity」(島国根性、閉鎖性)という記事。
 なんと、先般まとめられた福島第一原発事故に関する国会事故調査委員会の報告書、英語版と日本語版で内容が違っているそうなのである。このような深刻な事故の報告書でさえ、集団の内側に言うことと、外側に言うことが別とは。千年に一度の大災害に際し、そういう報告書をまとめる使命を担った個人として、社会に対する責任という思いがあれば、そんな二枚舌を使えるものだろうか。
 この国には人がいないと思うことがある。この国において個人とは、‘集団からの疎外現象として析出される’にすぎないという小熊英二の言葉を思い出す。