『戦後詩史論』

knockeye2012-07-09

戦後詩史論 (思潮ライブラリー 名著名詩選復刊)

戦後詩史論 (思潮ライブラリー 名著名詩選復刊)

五百万円の持参金付の女房をもらったとて
貧乏人の僕がどうなるものか
ピアノを買ってお酒を飲んで
カーテンの陰で接吻して
それだけのことではないか
美しくそう明で貞淑な奥さんをもらったとて
飲んだくれの僕がどうなるものか
新しいシルクハットのようにそいつを手に持って
持てあます
それだけのことではないか


ああ
そのとき
この世がしんとしずかになったのだった
その白いビルディングの二階で
僕は見たのである
馬鹿さ加減が
ちょうど僕と同じ位で
貧乏でお天気屋で
強情で
胸のボタンにはヤコブセンのバラ
ふたつの眼には不信心な悲しみ
ブドウの種を吐き出すように
毒舌を吐き散らす
唇の両側に深いえくぼ
僕は見たのである
ひとりの少女を
一世一代の勝負をするために
僕はそこで何を賭ければよかったのか
ポケットをひっくりかえし
持参金付の縁談や
詩人の月桂冠や未払の勘定書
ちぎれたボタン
ありとあらゆるものを
つまみ出し
さて
財布をさかさにふったって
賭けるものが何もないのである
僕は
僕の破滅を賭けた


 『ひとりの女に』 黒田三郎 より 「賭け」

 吉本隆明の『戦後詩史論』についてなにか書こうというとき、上の黒田三郎の詩から始めるのは、非常にばかげている。
 『共同幻想論』について書いた時も、『最後の親鸞』について書いた時も、まったくピンぼけなことを書いているはずだが、私としては、吉本隆明の本についてなにかが書けるとは、はじめから思っていないのでお気楽だ。
 この新版には、初版が出版された当時、1978年ごろの書評集が小冊子として付録しているが、まともに歯が立っているものはひとつもない。とくに第3章の「修辞的な現在」について、ほとんどの書評が、詩の現状に対する苦言であるかのように取ってしまっている。
 その中に、吉本隆明自身のインタビューがあり、「修辞的な現在」について

自分の思想論と現在の詩の評価とを、とにかく言語というものを介して融合させる視点はあるのかというモチーフで書いた

と語っている。
 詩を手段にした思想論にならず、また、詩の解説の羅列にならない視点をみつけだすのにもっとも苦心したが、

ぼく自身はそれはある程度成功したと思っている

と。
 1978年といえば、ベトナム戦争後、バブル前、ジョン・レノンがまだ生きていて、サザンオールスターズは「いとしのエリー」を発表していない。そんな時代にこんな本を書いていた人がいたことが私には驚き。
 このところ、ずっと吉田健一にかかずらわっているが、この戦後詩史論は、ちょうどそれと重なる時代、昭和初年代から説き起こしている。その点でも私には示唆的だった。
 その頃の日本、都市生活者が生まれ、吉本隆明の言う「不定職インテリゲンチャ」が放浪していたころ、そして、そのあと、戦争によってそれらすべてが根こそぎにされ、「飲みたくない水を飲まされ」た詩が戦後を迎える。
 上の黒田三郎の詩は、そうした時期の詩なのである。
 こうして、詩の背後に、言葉の背後に、思想史がたしかにあるというあたりまえのことを、きちんと論じられるところが、吉本隆明のすごみなんだろうと思う。
 たとえば、上の黒田三郎の詩をとりあげて、こういうことはできる。‘このように恋愛を選びとれる、美しい勇気が今も存在するだろうか’と。しかし、そういってしまうと、詩も思想もどこかに消えてしまう。
 吉本隆明のすごみは、上のような美しい詩を、言葉全体のダイナミズムの中に捉えることができる視野、あるいは視座ではないかと思う。