バーナード・リーチ展、平澤熊一展

knockeye2012-07-08

 『文学全集を立ちあげる』という本の中で、丸谷才一が‘柳宗悦で一巻にしてもいい’と言っていたのをなんとなく思い出しながら、日本民藝館バーナード・リーチ展を観にいった。
 バーナード・リーチという英国人陶芸家と日本の陶芸との関係は、たとえば、エッフェル塔三十六景を描いたアンリ・リヴィエールと日本の浮世絵とかの関係とは、まったく違っている。
 幼年時代を日本で過ごしたバーナード・リーチが、長じて再来日するにあたっての胸算用では、エッチングの個人指導で生計を立てるつもりだったらしい。若者らしい無鉄砲さといえるかもしれない。実際に生徒に来たのはふたりだけで、計画は一年で挫折する。しかし、そのふたりの中に里見とんがいて、白樺の同人たちと交流が始まる。
 陶芸はまったく来日してから始めた。ちょっとしたきっかけで魅了され、6代目尾形乾山に入門する。このとき、通訳をつとめたのが富本憲吉で、彼が陶芸を始めたのはリーチの影響だった。
 イギリスに帰国する際、七歳年下の浜田庄司をともなって、セント・アイヴスに窯を作る。おそらく、このときバーナード・リーチ浜田庄司がそこにいなければ、日本の民芸がスリップウエアを発見することはなかっただろうと思う。
 柳宗悦がはじめて朝鮮を訪れるのは1916年だが、1918年にはバーナード・リーチも共に訪れている。ちなみにさいきん公開されている「道〜 白磁の人」という映画は、柳宗悦に朝鮮陶磁の魅力を紹介した浅川伯教・巧兄弟についてのものらしい。
 民芸運動を立体的に考える上ではバーナード・リーチという人は欠くことができないし、また、バーナード・リーチを考えれば、柳宗悦民藝運動が、考古学のような学問でもなく、骨董趣味でもないということがわかる。
 「民藝」という雑誌の、柳宗理追悼号がおいてあったので、ぺらぺらとめくってみていた。柳宗理の歩んだインダストリアルデザインという道は、柳宗悦の民藝と直結しているかどうかわからないが、もし、シャルロット・ペリアンとの出会いがなければ、柳宗理と民藝の関係は今よりもう少し複雑になっていたように思える。これも、しかし、まったく私の印象にすぎないが、宗悦、宗理の父子関係に、このル・コルビュジエのパートナーのフランス女性がもたらした化学作用が、私には美しく見えている。
 柳宗悦という人のまわりをぐるぐる回ってみると、朝鮮陶磁、沖縄、アイヌバーナード・リーチがいて、シャルロット・ペリアンがいて、白樺派の人たちがいる。さきの丸谷才一の本で知ったのだけれど、武者小路実篤ジョルジュ・ルオーに会って、絵を買ったりしている。
 中国のパゴタを文様化した大皿が今回のものの中ではいちばん好きかもしれない。
 でも、バーナード・リーチの陶芸作品には、日本的なものはほとんど感じない。イギリス的な感じ。イギリス的なっていうきわめていい加減な印象は、私の場合、前キリスト教的なということ。イギリスの場合、神なんかより妖精のほうがホントっぽい。
 でも不思議なことに、実物を見ると、今回の展示に限ってなのかも知れないが、同じ黄褐色のものでも、イギリスで焼いたガレナ釉より日本で作陶した鉛釉のもののほうが発色がよいと感じた。バーナード・リーチはセント・アイヴスの登り窯作りにはなかなか苦労したみたいだ。
 セント・アイヴスは芸術家コロニーではあったが、土の面からも、薪の面からも、そして、商業的にも、あまり陶芸に向かない土地だったそうだ。実際、移転を考えたこともあったらしいが、いま、セント・アイヴスがイギリスの陶芸のメッカになっているとすれば、それをなさしめたのはバーナード・リーチだ。
 この日が最終日と言うことで、練馬美術館に平澤熊一展を観にいった。
 ほとんど忘れ去られていた画家で、最近になって再評価が始まっているそうだ。
 絵を観た感じとしては、点数が少ないので何とも言えないが、悪い絵ではない。よい絵だと思う。ただ、再評価は評価する側の都合だろうと思う。
 絵を評価する側に美術にたいする敬意があるなら、評価は画家が生きている間になされるべきだと思う。‘忘れ去られていた’といっても、生涯発表はつづけていたわけで、そこに注目が集まらないのは、よくも悪くも、それだけのことだったろう。それと同じ意味で、没後にいくらかの再評価が獲られるのも、いくばくかのことだろうが。
 大竹伸朗とか、村上隆とか、売れている現代作家には苦々しい顔をする一方で、生前ほとんど黙殺していた画家を、死後しばらくたってから再評価なんて、いったい日本の美術界って何なんだろうという気持になった。