濱田庄司展


 先月、世田谷美術館濱田庄司展を訪ねた時の写真。見ていただいて分かるとおり、おそろしく暑い日だった。
 濱田庄司の名前は、柳宗悦とか、バーナード・リーチとか、棟方志功とかの名前とともに思い出す名前だと思う。柳宗悦の「民藝」という問いかけは、わかったつもりで実はむずかしい。
 濱田庄司は「私の陶器の仕事は、京都で道を見つけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った。」と書いているそうだ。

無盡蔵 (講談社文芸文庫)

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 「京都で道を見つけ」というのは、東京工業大学の前身、東京高等工業学校の窯業科を出た後、京都市立陶磁器試験場に勤めていたことで、そのころ、バーナード・リーチの作品展をキッカケに、バーナード・リーチ柳宗悦と知り合った。バーナード・リーチは、日本人にとって興味深い人で、この人はまた七代目尾形乾山なのである。ちなみに濱田庄司は、東京高等工業学校では板谷波山に学んでいた。

 濱田庄司は、バーナード・リーチがセント・アイヴスに窯を築くのを手伝うために渡英し、彼の地で3年を暮らした。
 京都でも、東京でもなく、英国で始まったっていう感覚は、バーナード・リーチの作品もあるが、それよりも、イギリスの古い陶器であるスリップウェアが、むしろ、濱田庄司の原点にあったのではないかとそう強く思った。


 
 この日も西洋の人たちが訪れていた。バーナード・リーチに資金を提供したフランシス・ホーン夫人は、セント・アイヴスにアーツ・アンド・クラフツのギルドを主催していた人で、セント・アイヴスは、その時すでに芸術家のコロニーを成していたのだけれども、それは、たとえば、パリにおけるモンパルナスなんかとは意味が違って、ウイリアム・モリスに発するアーツ・アンド・クラフツ運動の流れを引いていた。

 「彼等は美しい田舎の村に住んでいますけど、又楽しんで仕事していますけど、卑怯に資本と機械とから逃げているのでもなく、徒らに昔へ還るのでもありません、勿論ジレッタントではありません、ペザントアートが一度死ぬべき事も承知しています、そこに生み出す新しい道を知っています、仕事が生活で、生活が仕事です、アーチストでないと表明しています、此の訪問のお蔭で、趣味と仕事と生活との長い板挟みから救われた気がします。」

 「彼等」とは、エセル・メーレとエリック・ギル。バーナード・リーチ濱田庄司の仕事ぶりを、「散歩がてら」訪ねた女性が、濱田庄司が日本で読んでいた『植物染色』の著者であるエセル・メーレと親しいってことがわかり、それから何度かディッチリングに彼等を訪ねるようになった。上の文章は、河井寛次郎に宛てた手紙だが、29歳の濱田庄司の問題意識がうかがえる。

 初めてエセル・メーレ夫人を訪ねた時、エドウィン・ビア・フィッシュリーという陶工のスリップウェア一式でふるまわれた夕食も「忘れがたい思い出」だと書いている。陶工としてつい器に目がいってしまいがちだが、その日の夕食は、食事も含めて満点に近かったとも書いている。

 「民藝」は、柳宗悦にとっては、たぶん禅とか茶などに対する省察に根っこがあるんだと思う。それに比べると、濱田庄司の「民藝」は、イギリスのアーツ・アンド・クラフツに近いものだった気がする。

 これは以前に書いたが、1929年に濱田庄司柳宗悦が渡欧したときには、300点にものぼるウィンザーチェアを爆買いして帰った。ウィンザーチェアやスリップウェアを発見したのは、間違いなく最初の英国時代だったはずである。ただ、スリップウェアの存在自体は、それ以前、丸善で購入したチャールズ・J・ロマックスの著書『Quaint Old English Pottery』で、知っていたそうだ。

 濱田庄司がセント・アイヴスの畑を掘り返すと、よくスリップウェアが出てきたそうで、おそらく陶土を探していたのだと思うが、それはやはり感動的だったのではないかと思う。


 
 掛け流しの大皿ももちろんすばらしいが、個人的に今回目を奪われたのは、沖縄の焼き物を参考にしたという素地の白と唐黍文の赤の微妙な色合いへのこだわり。この白と赤はたまたま出る色じゃない。この違いに気が付くか通り過ぎるかだが、ともかくも、私はこの色の前で立ち止まってしまう。