「ある家族の会話」、「持ち重りする薔薇の花」

knockeye2012-07-07

ある家族の会話 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

ある家族の会話 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

 ナタリア・ギンズブルグの『ある家族の会話』を、この訳者、須賀敦子に紹介したのは、夫君のペッピーノだったはずである。たちまち熱中して読み始め、この本に入れあげてしまった須賀敦子
「これは君の本だと思ったよ」
と言ったと記憶している。どの本にあったか思い出せないのだけれど。
 わたしにはこの夫婦の関係が不思議でならない。竹内まりや山下達郎のようでもあるし、渋江抽斎と渋江五百のようでもある。
 渋江抽斎と五百の結婚は、江戸時代の武家の結婚なのだから、そこに本人の意思は働いていないだろうと思うかもしれないが、五百がすこし根回しらしいことをしたのは、森鴎外も書いている。須賀敦子が、コルシア書店に押しかけていく姿と、渋江五百の姿がなんとなくかさなる。
 ペッピーノが急死したあと、「今度の翻訳が受け入れられなかったら、自分の今までの仕事はペッピーノありきだったと思ってすっぱりあきらめよう」と、覚悟する一節がある。これも、どの本だったか忘れたが。ますます不思議な夫婦に思える。
 こうして、ナタリア・ギンズブルグの小説を紹介するのに、翻訳者のサイドストーリーから始めるなんてことがあるべきだろうか?もちろん、あるべきではない。しかし、そもそもこれはブログであって書評でないことに注意を喚起しておきたい。
 ナタリア・ギンズブルグのまえがきにこうある。

 この本に出てくる場所、出来事、人物はすべて現実に存在したものである。架空のものはまったくない。そして、たまたま小説家としての昔からの習慣で私自身の空想を加えてしまうことがあっても、その箇所はたちまちけずりとらずにはいられなかった。
 人名もそのまま用いた。この本を書くにあたり、私は空想の介入をまったく許容できなかった。・・・

 また私は自分が憶えていたことだけしか書かなかった。したがってこの本をひとつの年代記として読む人は、多くの脱落を非難するだろう。だから題材は現実に即してはいても、やはり小説として読んでいただきたい。・・・

 

・・・最後にもうひとつ。私は幼いころ、さらに少女時代を通じて、当時私の周囲で共に暮していた人たちについて本を書きたいと思い続けてきた。部分的にはこの本がそれである。ただしそれは部分的でしかない。というのも記憶は時の経過についにあらがい得ず、しかも現実を土台にした本は、しばしば作者が見聞きしたすべてのことの、ほのかな光、小さな破片でしかないからである。

 たとえば、かりに、こういうまえがきを書きながら、実はすべてが創作、といった小説のありようも可能なわけである。それに、そうであっても、読者にとってはいっこうに差し支えない。ところが、読者としての私は、冒頭から真実として読んでいる。しかも、小説として読んでいる。これは何かなと思うと、結局、人が何かに真実を見るのは、ナタリア・ギンズブルグがまえがきに書いている「ほのかな光、ちいさな破片」が、あるかないかだからではないかとおもう。
 その「ほのかな光、ちいさな破片」に感応するなにか、類するなにか、あるいは、それそのものが、読者のなかにもきっとあるのだろうし、自分の中のそれを信じない生き方は、おぞましい生き方だと思う。いうまでもなく私の価値観ではだが。

持ち重りする薔薇の花

持ち重りする薔薇の花

 丸谷才一のひさしぶりの長編小説。弦楽四重奏団をめぐる小説。音楽にまつわる話なので、先日読んだ村上春樹小澤征爾の対談を思い出した。
 後に財界のトップになる人物が、ふとした偶然から、これも後に世界的な名声を獲る弦楽四重奏団の誕生に立ち会い、彼等と関わるようになる、その問わず語り。
 語る老人、それを聴くジャーナリスト、そして、語られる音楽家たち、のこの立体的な構造がしっかりしていて、その三角形の中に、持ち重りする薔薇の花が盛られている。
 しかも、ラストにちょっとしたトゲのようなものがちらりと見える。ちいさなトゲ。