『マンゾーニ家の人々』

knockeye2014-01-17

マンゾーニ家の人々(上) (白水Uブックス177)

マンゾーニ家の人々(上) (白水Uブックス177)

マンゾーニ家の人々(下) (白水Uブックス178)

マンゾーニ家の人々(下) (白水Uブックス178)

 ナタリア・ギンズブルグの『マンゾーニ家の人々』を須賀敦子の訳で、途中で微妙に人間関係がわからなくなりながらも読み終えた。
 アレッサンドロ・マンゾーニてふ、イタリアにおける国民的作家を、とにかく全く知らないので、‘もしかしたら評伝のふりして実は全部創作じゃないだろうな’とか、そんな疑いが頭をよぎった、マンゾーニその人とその家族、友人たちが交わした、膨大な手紙のやりとりを基にした‘大河’小説。日本のものでいうと、森鴎外の『渋江抽斎』とか、北杜夫の『楡家の人々」とか、そんな味わい。
 それにしても、昔の人はよくこんなに細やかな手紙を書いたものだ。いま、このマンゾーニ家の人々のような長文のメールを送ったりもらったりしたら、かなり浮いた感じになるだろう。
 わたしはメールのやりとりとか全然しなくなってしまったのだけれど、聞くところによると、もらってから何秒後とかに返信しないと失礼に当たるとか。おそらくそれは文章の体をなしているはずはないし、その必要もないはずで、要求されるのは間合いとセンスだけだろう。でも、たとえば、いつ止めりゃいいの?。
 わたしはfacebookすらしないので、SNS疲れなどにも無縁なのだが、LINEのスタンプてのは、その意味でありがたい発明だったんだろうな。文章でないどころか、文字ですらない。コミュニケーションが記号で事足りるっていう時代。とにかく笑っとけみたいなことでしょ?。
 しかし、手紙のほうが内容が深かった、とかは全然思わせないのが、この小説がすごいところなんだろう。手紙の時代には手紙の時代の‘作法’があった。手紙、手紙の洪水の向こうに、それを読んだり書いたりしている人の横顔が垣間見える。
 主人公のアレッサンドロ・マンゾーニはまだ筆無精の方だろう。それは文章を書くのが仕事なのだから、ある意味では、仕方がないという気もする。筆無精の上に出不精。
 わたしが一番興味をそそられた人は、フォリエルという、アレッサンドロとエンリケッタ夫妻がまだ若い頃に家族同然のつきあいをしていたフランス人なんだけれど、この人が全く手紙を書かない。それですーっとフェードアウトしちゃう。すっごく親しくしていたし、別に仲違いしたわけでもないのだけれど。
 この小説がおもしろいのは、このフォリエルって人の気持ちが、なんとなくわかる気がするところ。作家はそれについてなんにも書いていないんだけど。だから、その時点で、こっちは小説の世界にはまってるわけ、いつもながらよい小説というのは。
 須賀敦子とナタリア・ギンズブルグの間にも、いわず語らずの共感があった気がする。須賀敦子はこの小説をイタリア語で読んで、ミラノのあのあたりの風景がなつかしいなと思ったそうだ。
 そういう極私的な感覚はやっぱり大事なんだと思う。