『てんやわんや』

knockeye2015-02-21

てんやわんや (ちくま文庫)

てんやわんや (ちくま文庫)

九年前の祈り

九年前の祈り

 寒いと出掛けるのがおっくうになる。雨の日はもちろん、晴れたら晴れたで、明るい部屋から出たくなくなる。それで先週末は読書して過ごした。
 芥川賞を受賞した「九年前の祈り」という、小野正嗣というひとの小説を文藝春秋で読んだ。例によって、選評とともに読む。そういう読み方は、ニコニコ動画をコメント付きで見るのと同じ気分なのかもと考えてみると、芥川賞受賞作に対する自分の期待度は、いつのころからかそんなに高くなくなってるんだなと思いもする。スター誕生みたいな華々しさは、芥川賞にはもうなくて、受賞作を読むときも、地味だけどいい小説みたいなのを求める気分でいる気がする。本来、そういう賞だったのかもしれないけれど、賞の主催者、受賞者、読者のそれぞれの間に微妙なミスマッチが生まれている気がしないでもない。
 「九年前の祈り」はいいと思うけれど、そんなことより、この作者の小野正嗣という人のほうに興味を持った。大分の産で、お父さんもおにいさんも地元で建設作業をしていて、大学に行ったのはこの人だけ、それも東京大学東京大学って金持ちの世襲みたいなイメージあるけど、こういう人ももちろんいるにはちがいない。それで、フランスに8年間留学してる間に、イギリスの大学を出てパリでフランス語の勉強をしていた大阪の女性と結婚した。そういう人から出てきた小説と知って読むと、これは味わい深い。
 経歴が奇妙な具合に浮世離れしているって感じてしまうんだけれど、反省してしまったのは、「浮き世」っていうその感覚が、今はたぶんにマスコミ製で、世の中、右傾化してるとか、格差が広がってるとか、信じても信じなくても、とりあえずそれを「浮き世」と受け入れてしまっている。しかし、自分のまわりを見回して、子供の頃から較べて、右傾化しているとも、格差が広がっているとも思わないんだよね。ヘイトスピーチの現場とかにでかけてみたら、そう思うか?。イヤイヤ、バカは昔からいる。めずらしがることはない。
 「右傾化」とか「格差」とかは、二次的な情報にすぎなくて、事実そのものではないということを、常に確認しておくことは重要だなと思った。というのは、事実はすくなくとも‘なにものか’だけれど、二次情報の方は何でもなくて、どうせ時代が変われば、上書きされる。たとえば、5年後くらいでも、今の「右傾化」とか「格差」とかをマスコミが言い続けているかどうか微妙だと思う。なかったことにしてる可能性もかなりある。
 「九年前の祈り」は短編なので、そのあと、獅子文六の『てんやわんや』を読んだ。フランス帰りという意味では、小野正嗣といっしょだ。
 終戦直後、愛媛の架空の町を舞台にした小説なんだけれど、とにかく面白かった。こういう小説を読んだ方が戦後が分かる。映画化もされているらしい。ヒロインの淡島千景扇千景ではないよ)は、これが映画デビュー作だった。
 ところで、前の日の記事に「報国婦人会」とか書いたのは、これを読んでいたせいだったらしい。軍国少女があっさり変身する、その感じを読んで、ふと思ったのは、今、リベラルを自称して、慰安婦云々いってるおばさんたち、もしかしたら、軍国少女だった可能性あるかなと思っちゃって、そう思うと可笑しくなってね。
 「浮き世」の先頭に立って騒ぎたい人たちって、いつも一定の割合でいるよね。「慰安婦問題」は、韓国のナショナリズムという一面(私はそれがすべてだと思うけれど)があることは否定できないはずなのに、そのファクターはあえて無視しちゃうのは、そこに目配りすると、騒げないからだと思うんだ。
 バランスの取れた視点を欠いているのだから、騒ぎたいという欲動が先で、理屈は後と言われても仕方ないと思うけど、どうだろう。騒ぎたい欲動の根源にあるのは、慰安婦の事実よりも、その個人のトラウマだったりすると思う。
 慰安婦の事実が悲惨であったには違いない。しかし、あの戦争全部が悲惨だったのだし、しかも、70年前に無条件降伏で終わった戦争で、関係者は縛り首になってるのに、そこだけとりあげて、しかも、今、現在の日韓関係にまで破綻を来すという朴槿惠の態度は、父親と日本人の関係を見ていた少女時代のトラウマにあるだろうと考えるのは、「慰安婦問題は人権問題だ」という意見より、よほど現実的だと思うのは、たぶん、多くの人が思っていることだが、リアルすぎて口にできないだけだろう。それに、日本にバカみたいな差別主義者がいることも厳然とした事実なんだし、こいつらを勢いづかせるのも困りものだし。
 厄介で滑稽なのは、先の戦争を引き起こした‘皇軍’の軍人たちにも、似たような西洋コンプレックスがあっただろう(‘皇軍’って名乗ってるその心理がすでに)ということで、だから今の朴槿惠の態度は、二重に滑稽なんだけど、そういうコンプレックスやトラウマと言った心理的要素が、とんでもない方向に政治を導いてしまうことが、現にあるわけだから、これは迂闊に笑えないわけ。
 これを書いているのは実は、「九年前の祈り」が掲載されていた文藝春秋に、鹿島茂と森千香子の「パリ風刺画テロの背後にイスラム移民」という対談がのっていた中に、鹿島茂エマニュエル・トッドの説を引いて、
「彼は、国民性は家族形態から生まれてくると論じました。人間の集団は家族を無意識に発展させた。だから、親子関係を縦軸、兄弟姉妹の関係を横軸にしてみれば、世界のたいがいの民族は分類できると考えました。そして、それぞれの国の国籍に関する法律は、この分類と一致するのです。」
として、図にしていた世界各国の国民性がすごく説得力があって、そのすこし後に、

鹿島 ・・・イスラム系移民の場合、砂漠の中にいたときは、父がどっしりと構えていたものが、都市の中ではタクシーの運転手など人に使われる立場になってしまう。それによって権威が崩壊するのです

森 確かに、父が不在であったり、父がいかに侮辱されたの見ていて、どれだけ屈辱感をおぼえたかという話を移民の方から何度も聞いたことがあります。・・・

 タクシー運転手がていねいな接客をするのは別に侮辱でも何でもないし、客に侮辱されても彼の価値は減じない。問題は、それを見る子の視点にあるし、その親子関係は彼が属する社会のイメージから逃れられない。朴槿惠の世代を考えると、今の彼女の態度は、このイスラム教徒の親子に重なってしまう。
 金大中の世代をタクシー運転手の世代になぞらえてみよう。彼自身のプライドは何も傷ついていない。むしろ、彼は立派で尊敬されている。大統領でも、タクシー運転手でもだ。しかし、子はそうは思わない、タクシー運転手でも大統領でも。それは、韓国も日本と同じく、親子関係が権威主義的で兄弟姉妹も不平等という似た構造の社会だからなのかもしれない。日本で慰安婦問題が盛り上がるのも。
 私自身は、スタンスが少し違うなと感じるのは、浄土真宗門徒だからだろうと思う。でも、浄土真宗は、日本最大規模の信者数を抱えている宗教のひとつだし、浄土真宗以外の宗教の信者であっても、韓国のようにもろに儒教的である人は少ないと思う。日本の歴史の複雑さはこれで、儒教神道、仏教、の要素を誰もが少しずつ抱えている。うちのじいさんなんかは、門徒総代と氏子総代をかけもちしていた。
 しかし、日本も昔からそうだったわけではない。聖徳太子あたりの時代に遡れば、宗教戦争も起こっている。白洲正子によれば「本地垂迹」は神道と仏教の対立を克服する思想だった。本地垂迹は賞味期限が切れていると思うけれど、すくなくとも、排他的な伝統は日本にはないと断言できるだろう。日本に根付かなかった宗教は、信長時代のキリスト教だ。彼らは排他的だったから。
 今の排他主義者もたぶん消えていくだろう。というか、そもそもたいした存在だと思わない。それよりも問題なのは、鹿島茂の対談でも触れられている、移民に対する政治のスタンスの確立で、教育とか、税とか、政治参加とか、どちらかというと地方政治で対応すべきことが多いと思うので、その意味からも、これから地方の重要性が増していく気がする。