『ジャクソンハイツへようこそ in Jackson Heights』

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 マット・ティルナーという人が監督した『ジェイン・ジェイコブズ ニューヨーク都市計画革命』って映画をついこないだ観たばかり。あれは、1960年代、ブルックリンの下町を区画整理しようとする大規模な都市計画を市民が阻止したドキュメンタリーだった。
 で、昨日、フレデリック・ワイズマン監督の『ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ』ってドキュメンタリーを観たら、こっちは、アメリカでの公開が2015年の、今の今ってドキュメンタリーなんだけど、性懲りもないというのか、資本の原理として、不断に監視しておかないと勝手に動き出しちゃうのか、またぞろ、今度はクィーンズ地区、ジャクソンハイツが標的にされて「町殺し」が行われようとしている。
 21世紀に新たに登場したまやかしの呪文は「gentrification(ジェントリフィケーション)」だ。これが厄介なのは、1960年代、ジェイン・ジェイコブズが立ち上がった頃は、ロバート・モーゼスという具体的な敵役がいて、彼とその周囲にカネが集まっていく構図が誰の目にもわかっていたが、gentrificationは、もっと巧妙に、住民たちが気づかないうちに、資本のメカニズムが、まるで、自然の摂理であるかのように、彼らの住む場所や働く場所を奪っていくように仕組まれていることだ。
 1960年代は、ロバート・モーゼスが描いた図面が、目に見える形としてあり、そして、少なくとも、ロバート・モーゼスには彼なりのビジョンがあった。だから、そこには言葉が介入する余地があった。ところがgentrificationは、modernizationとかglobalizationとかdepopulationのように、誰が主体かわからない自然現象みたいな感じがして、誰に向かってNOというべきなのかわかりづらいのがおそろしい。
 しかし、何が起こっているかを知って、それがもたらす結果を考えて、はっきりと意思を示さないと、

こういう感じの町が

こういう感じになっちゃう。
 そして、その末路として、

60年代、ロバート・モーゼスが再開発したデトロイトやその他の町が、ゴーストタウン化した姿を現にもう見ているにもかかわらず、今またgentrificationと呼び名を変えて同じことが繰り返されようとしている。

 古い町を壊して新しい町を作りたいという欲望にとりつかれるのは、心の病いみたいなものなのだ。人の命は短いから、放っておけば、町はだんだん変わっていく。どうして、自分の手で、町を作り変えたいのか?。誰も望んでないのに?。
 その子供じみた願望を笑える人は案外少ないと思う。工業化社会の変化の速さが、人を子供にとどまらせ続ける。変化の早い世界では、子供の方が親より情報に長けるから、子供は親の世界を上書きせざるえないのだ。上書きしても大して変わりばえしなかったと気づいた頃には、自分の世界もすぐに書き換えられるのだが。
 カメラはそういうgentrificationを食い止めようとするmake the road NEW YORKの活動にも向けられている。make the roadの活動はあまりにも小さなともしびに見える。消えかかっているようにさえ見える。おそらくは、その小ささがフレデリック・ワイズマンにこの映画を撮らせているのだろう。5年後と言わず、来年にはなくなっているかもしれない小さな希望。
 ジャクソンハイツはまたpride parade でも知られているそうだ。pride parade は、LGBTへの差別反対を訴えるデモ行進でpride marchともいうようだ。ジャクソンハイツのはQueen's prideと呼ばれる。1993年にフリオ・リベラという人がゲイであるというだけのことで殴り殺された事件をきっかけに始まった。

 映画の時間軸があるとしたら、むしろ、Queen's prideがその中心にあると言ってもいいかもしれない。祭りの準備のちょっとワクワクする時間。その時間軸に希望と不安がもつれあって流れていく。
 walls and bridgesは、1974年のジョン・レノンのアルバムのタイトルだけれど、今でも、NYの町には、目に見えない壁と目に見えない橋が交差していると感じられる。
 アメリカの市民権を得ようとする人たちを支援する活動を写した場面があった。どうしてアメリカの市民になりたいのかと聞かれたら投票をしたいからと答えればいい、そうすれば、民主主義を理解していることになるから、と教える講師の人に対して、「宗教の自由と言論の自由が欲しい」と言いたいと主張する、たぶん、インドの女性ではないかと思ったが、アメリカを自由の国だと思ってやってくる、こういう人たちがアメリカを自由の国にするのだと思った。
 idnycについては初めて知った。ニューヨーク市が発行するIDで、ニューヨークに住所がありさえすれば、誰でも手に入れることができる。トランプが国境に壁を作ろうとする一方で、その壁を越えて来た人たちにニューヨーク市がIDを発行するのだ。
 日本でも、地方分権が言われた頃もあるし、田中康夫長野県知事になったり、橋下徹大阪府知事になったりした頃は、こういう地方自治のあり方を期待したものだったが、小池百合子もそうだが、中途半端に国政に手を出したことでグダグダになってしまったのは残念だった。
 pbsのサイトに予告編があった。
http://www.pbs.org/wgbh/jackson-heights/home/

『ボヘミアン・ラプソディ』

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ボヘミアン・ラプソディ

 宮藤官九郎が『ボヘミアン・ラプソディ』を観て、「今年のベストは『スリー・ビルボード』で決まりと思ってたけど、あやしくなった」って、マジか?、だってあの時は、アカデミー賞を獲った『シェイプ・オブ・ウォーター』より上ってベタ惚れだったのに。ってことで、結局、観にいくことにした。
 この映画を見くびってたのは予告編のせいだ、日本版の。猫がピアノを歩いてるところ、ロジャーが鶏にちょっかい出してるところ、それから、フレディが下ネタ言ってるところ、って。どうやったらあんな予告編になるのか知りたい。実際、1週目より2週目、2週目より3週目と、週を追うごとに、興行収入が伸びる、異例の事態なんだそうだが(日本では)、それはあの予告編のせいに違いない。
 ブライアン・メイのインタビュー(まだ公開前の)を見かけたけど、「とにかく脚本がいい」と、この時点でまだ公開にこぎつけるかどうかわからない状況だったみたいで、公開できればいいけどなぁというニュアンスを匂わせていた。実際、企画が動き始めてからだいぶかかったみたい。
 ROLLING STONEのインタビューだった。「映画について何か動きがありますか?」と訊かれてこう答えている。
「あるね。映画が実現したということがニュースだろう。僕らは12年間取り組んできたが、もう間もなくFOXがゴーサインを出し、正式にアナウンスされるだろう。本当にもう間もなくだと思う。」
 ブライアン・メイロジャー・テイラーの2人が音楽監修だけでなく制作に関わったことがこの成功に貢献した。
「この12年間、僕らの知るフレディの本当の姿が伝記映画の中で描かれるように取り組んできた。」と語っている。細かな事実との違いはいろいろあるみたいだけど、コアのところでブレてない。
 ボヘミアンラプソディーを聴いてたころはガキだったんだなと我ながら呆れた。あの難解な歌詞の深刻な内容とかか、考えてもみなかったのか?、俺は。とびっくりする。だいたい、フレディ・マーキュリーをたんにイギリス人と思ってただけだった。髪が黒いのは見りゃわかるけど、17歳までイギリス人じゃなかったとは考えてもみなかった。
 フレディを演じたラミ・マレックもエジプトからの移民だそうだ。アイデンティティに悩む男の物語として表現したと語っていた。
 ゲイやエイズに対する世間の意識は今とは比べものにならなかった。もちろん、移民についてもそうだろう。自分とは何かという問いと、自分が自分であり続けてよいのかという問いに、死に至る病が期限を突きつける状況を考えれば、ボヘミアンラプソディーの歌詞もライブ・エイドのパフォーマンスもその切実さがわかる。この脚本はそこをよく読み込んでいる。
 当時は、フレディ・マーキュリーの個人のものだった苦悩が、今では社会全体に突きつけられている。そういう状況が、このヒットの裏付けとしてある。実在のロックグループを扱いながら、ありがちな音楽映画にとどまらず、時代を写す骨太な作品になっている。そりゃクドカンが褒めるのも納得。