昨日の続き

昨日からまさかの雪だった。全国的に雪なので、わざわざ書くまでもないが、金曜日には4月下旬の暖かさだった。内角高めに放られた後、外角低めぎりぎりの球は、手が出ない。それと同じで、今日はこの冬でいちばん寒く感じた。昨日も仕事だったせいでぐうたらをきめこんでしまった。自分のために北陸に住んでいることがいいのかどうか真剣に考えることがある。
昨日の続きだけど、「まかないメシの方が客に出す料理より実は旨いんだよなぁ」とは、プロとしては言えないのは当然だと思う。だけど、まかないメシの旨さを認めないプロっていうのも、うそくさい。
小林秀雄の本で読んだと思うが、川端康成が自分がこどもの頃書いた日記を読んで、「このころの方が文章がいい」とか思ったりする。前にも書いたことだが、アマチュアに憧れないプロって、偽物だと思っている。それは、立川志の輔の言葉を借りると「調子でしゃべっている」ので、プロの模倣をしているだけだ。こういうプロは、必死で模倣している分、プロ意識だけは異様に高い。振り返ってアマチュアを低く見ることになる。
この傾向が日本に顕著なのは、国を作る段階で、お雇い外国人というプロに頼ったコンプレックスがあるからだと思う。市民というアマチュアの裾野の頂点にプロが生まれたわけではない。それでどうしてもアマチュアリズムを低く見てしまう。
これを書きながら、私が何を思い浮かべているのかというと、去年の高遠菜穂子さんの事件を巡る報道機関の態度だ。私は、あの批判と黙殺の根っ子にゆがんだプロ意識を感じていた。もう忘れられているだろうが、今、ライブドアと競い合っているテレビ局は、バッシングの先頭に立ってなかったでしょうか?「ライブドアには理念がない・・・」みたいな発言をしているようだが、そんなこと言えるタマかよ?
まあ、そういう低レベルなプロは置いといて、「すごいな」と思わせるプロはいる。だけど、それは、すごい人がプロをやっているので、プロだからすごいのではない。
で、まかないメシの話のキモは、そういうプロの「すごい」というところを、我々はどのくらい見ているのか?「立川談志は面白いよ」というけど、実はもっと面白いのではないのか?「古今亭志ん生は名人だよ」というけど、実はもっと名人なので、それを我々は知らないんじゃないか?まかないメシという金の絡まない部分で、つまり、プロでない部分で、一流のプロはもっとすごいはずである。何かに魅力があるとしたら、その部分に魅力があるのでないと、話のつじつまが合わないと思う。