植木等

植木等はもう80歳だった。米朝師匠とさほど変わらなかったのだ。老いない人はいないし、死なない人もいない。しかし、私がそこに属すと信じている時代から、人が消えていくのは悲しい。桂吉朝のように、最盛期に突然逝ってしまうのとは、また違う悲しさだ。もちろん、その時代は、自分自身にとっても十分すぎるほどに過去なのだけれど。
わたしは、大滝詠一が編集した『クレージーキャッツデラックス』を持っています。これはちょっと自慢なのだけれど、どうして自慢になるのかはよく分からない。1986年に発売されたCDで、大滝詠一のライナーノーツが泣かせる。
たとえば「スーダラ節」

この曲に関してはもう何もいうことはない。ただ、私にとっては「ハウンド・ドッグ」、「抱きしめたい」に匹敵する曲で、植木等の歌声はエルビス、ジョン・レノンと同じ種類の解放感を与えてくれたことだけを付け加えておきたい。

またこんなことも書いている。

これまでの、日本の唄は、歌われる内容が決まっていて型があった。そこへクレイジー・ソング(作詞:青島幸男)は本音をそのまま歌にした。これは日本音楽史上、初めてのことでまさに<革命>であった。
(略)
時同じくして、ビートルズから影響されてGSが雨後のタケノコのように現れたが、その中でどれくらいのグループが自分達の気分をストレートに歌っただろうか。
(略)
こういう時代にクレイジーは非常に独特な存在(世界的に見ても)で、この時代の音楽の中心的な存在だったビートルズと精神性に共通したものがみられることは、どう考えても不思議である。

今日の暖かさで、さがみ野の桜が一気にほころんだ。コンビニまでの夜道、桜並木を見上げながら歩いた。3〜5分咲きというところだろうか。この桜たちは、幹に瘤ができていたり、枝が房状になっていたり、健康な状態とはとてもいえない。「桜の樹の下には死体が埋まっている」と梶井基次郎が書いたけれど、悲しいことに、ソメイヨシノは人と同じくらいの寿命しかない。人の精を吸い尽くして生きる妖しさは見せ掛けに過ぎない、寂しげな花である。