『夕凪の街 桜の国』、キスリング展

夏空は窓から見るに限る。
ほんとうに梅雨あけしていないのだろうか?
あまり暑いので、昨日は久しぶりにホンイキで、髪にハサミを入れた。
昼勤の土曜日が休めるのは、いつ以来か忘れてしまった。夜勤の土曜日あまり寝ないで出かけると、結局日曜にぐったりしてしまうということを発見したが、昼勤の土曜はもったいなかったか。
今の住まいの窓は東に向いている。不動産屋は欠点みたいな言い方だったが、わたしは朝日だけが入る東の窓を好きだ。聞いた話だと、茶室の窓も東北東に向けて明けるそうだ。
日差しの縞模様が床から消えたあと、ブラインドを上げて、濃さを増していく青空を眺めていた。こういうことを贅沢だと思っている自分がいる。遊びにとっても、げに贅沢は敵である。
昼から、みなとみらいの109シネマにでかけた。『夕凪の街 桜の国』。思い出してみれば、わたしの知り合いにも、原爆を経験した人がいた。そんなに遠い話ではなかったのである。
日本は唯一の被曝国ということになっているが、これについて語ることは、実際そう簡単なことでなかった。
原爆に限らずとも、阪神大震災でも、サリン事件でも、言葉でそれを伝えることは、たとえ当事者であっても難しいことだと思う。
それが物語になるまで、事実は真実にならないのかもしれない。原爆が物語になるまで、60年はまだ短すぎたのかもしれない。
『夕凪の街 桜の国』は、ある被爆者家族の物語だった。
映画を見た後、横浜そごうまで歩いた。
いつも、映画館、美術館、と「点」でしか移動していないので、この二点間を結ぶ土地勘がまったくない。ただ、ジャックモールから、そごうのマークが見えているので、そっちに向けて歩いてみた。
そごう美術館で『キスリング展』をやっている。モディリアーニやレナール・フジタとならんで、エコール・ド・パリの寵児であったそうだ。
わたくしモディリアーニもフジタも好きなので、さて、キスリングってどうよ?と思って観たのだけれど、やっぱりたいしたものですね。
ポーランドからパリに出てきた最初のころは、ほとんどセザンヌ静物そのものだけれど、一年もするともう「お」という感じの色が出ている。それから8年たった1920年の静物は、もうまったくセザンヌではない。フジタが「色では西洋人にかなわない」と言っていたのは、もしかしたらこのことではないかと思うほどだ。
裸婦も何点かあり、素敵だけれど、裸婦に関してはわたしはモディリアーニの方が好みだ。それよりも肖像がすばらしい。「女優エディット・メラの肖像」は、ジョン・シンガー・サージェントの「マダムX」が頭をよぎった。「スウェーデンの少女、イングリット」は手に花を持っている。花の絵はボタニカルアートみたいで、独特な精緻さ。ふつうボタニカルアートは水彩だが、それの油彩みたいな感じ。「イブ」の背景の緑もすばらしい。色と顔で語ることができる画家のようだ。
明日は、選挙だけれど、いこうかどうか迷っている。政治をする人が政治家なのではなくて、政治家の妄想が政治なんだと、最近、気がつき始めている。