秩序を愛する人

わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。

わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。

私の聖書の知識はすべて小説経由である。上のマタイ伝の一節は、『アンナ・カレーニナ』。愛妻家のレービンは気にかけていたようだ。
トルストイ自身は、もちろんこの解釈に悩むほど若くなかったはずだと思う。論理的に解釈してしまうと、簡単すぎて面白くないが、「神」が「来た」場所には、それまで「神」がいなかったわけだから、そこにどんな秩序が存在しようとも、そこに真実がもたらされれば「敵対」が起こる。
秩序は真実のないところでも、簡単に築かれる。というよりも、なまじ真実などないほうが秩序は築かれやすい。で、そういう秩序を愛する人たちは少なくない。
しかし、秩序を真実に優先させるこれらの人たちは、私には不気味である。
彼らは秩序に愛されていると信じ、愛されなくなるのではと気を揉み、ときには、秩序の代弁者となって他人を弾劾する。
しかし、もともと「真理」が無視されているわけだから、彼らの秩序のよりどころは、じつは何もない。だから「文化」とかいう言葉を発明するわけだけれど、それははじめに神とともにあった言葉ではないのである。こういうと丸でキリスト教徒みたいだけれど、要するに支離滅裂な言葉は言葉とは認めるつもりはないということ。
抽象的なことを書いているけれど、具体的な事件や人を思い描きながら書いている。もし読んでいる奇特な人がいたら、具体的なことをいろいろ当てはめていただけると少しは楽しんでいただけると思う。
最初に引用した聖書の言葉は、『天皇の逝く国で』を読んでいるときに頭に浮かんだのだった。引用ついでに同書からも引用しておきたい。

・・・護国神社の神主は日本人の宗教的寛容を「日常生活の知恵」と表現したが、この知恵なるものの陳腐さは意図的である。それは、学校の子ども、母親、夫、父親たちに強いられ、通常はよろこんで受け入れられてもいる管理体制を、言いあらわす言葉にもなりうるだろう。場合によっては、「生活の知恵」が若者を死地へ送り、女たちに彼らを激励させもする。