マジックアワー

『マジックアワー』は、キングコングを映画館から駆逐した『the有頂天ホテル』の次回作であるわけだから、三谷幸喜にはプレッシャーがあるはずだった。しかし、すでに三谷ワールドは堂に入ったもので、観客はクオリティの高いところで好悪の判断をするだけでいい。期待を裏切られることはないのだ。
思い出してみると「マジックアワー」という言葉は、私の語彙の中にもあった。映画版の『奥様は魔女』をDVDで観たとき、監督のノーラ・エフロンが、副音声メニューでそれについて語っていた。
ニコール・キッドマンとウィル・フェレルが海岸でデートをするシーン。夕日が沈み、夜の帳が下りるまでのわずかなひと時、それをマジックアワーと名付けたのは、ノーラ・エフロンかと思っていた。
そのときの彼女の
「映画監督は、映画制作というパーティーのホスト役だと思う」
という言葉は今でも印象に残っている。
三谷幸喜の映画にもその彼女の言葉を思い出させるものがある。話題になっている「守加護(すかご)」という港町のセットにも、三谷幸喜が念を入れて準備したパーティー会場の面持ちがある。
ほぼ日刊イトイ新聞に連載中の対談で、三谷幸喜

つまり、監督というのは、 ぜんぶを決めなきゃいけないんです。 単にアングルを決めるとか 芝居をつけるとかっていうことだけではなく、 映っているもの、全部。
役者さんの髪型から衣装から、 腰掛ける位置の深さまで。 そういうところこそがセンスというか、 監督に求められるものなんだなって。

糸井重里

そういうことを、三谷さんは、 「脚本ということばの中においては」 すでに散々やってきたはずだと思うんです。 たとえば、ある人物がしゃべるセリフの助詞が 「なぜ『が』じゃなくて『は』なのか」 というようなことは、 その古い映画の中の子どもの背の高さのように、 もう、当たり前に、選んできた。

そうですね。そういう意味では、 舞台と映画比べてると、 映画のほうがはるかに多弁なんですよね。
だから、 決めなきゃいけないことがたくさんあるぶん、 間違いやすいというか 間違う選択肢もたくさんある。 でも、その意味では、今回の映画で、 ちょっと自分を信じられるようになった というのはありますね。

その手ごたえを観客も共有できるだろう。
この対談の今日の更新分では、糸井重里三谷幸喜の意見が対立している。三谷幸喜の言っているのは、物を作るときに隅々まで理屈を通したいということだが、私は三谷の言っていることが正論だと思う。
糸井重里は、理屈で詰められない部分に楽しみがあるのではないかというけれど、それはあくまで副産物で、それを当てにしては多分まずいと思う。
これは、糸井自身も

あの、これは、 僕がなにかをつくるときの考えというか 個人的な好みになりますけど、 自分でも「わからない」という状態で、 それをそのまま投げ出して 「みんなに任せます」っていう手法は、 僕はあまり好きじゃない。 これはまず、たしかなんです。

と付け加えて語弊を避けている。

脚本を書いた人間が演出もやってる場合に いちばんよくないことは、 もうそこに答えがあることなんですよ。

つまり、三谷幸喜

でも、100パーセント計算したうえで そうなっているかというとそうじゃなくて、 それが、ちょっと怖いことなんですよね。

と言っている「不安」は、自分の網から漏れてしまっている部分に気がつきにくくなってしまうということなのだろう。
ここより、少しネタバレゾーンに入る。まだ映画を見ていない人は読んじゃダメ。





マジックアワーは、去りゆく一日と訪れる夜が邂逅する。黄昏ゆく日の光を西田敏行演じる没落する田舎やくざだとすれば、訪れる夜は、役者として再起しようとする佐藤浩市であり、深津絵理はその二人の間で揺れければならなかったのではないか。
そういう風にテーマを定めてみると、没落するやくざと偽物の殺し屋vs新興やくざとホンモノの殺し屋という対立軸は描ききれていなかったか、それが言いすぎだとすれば、やや図式的だった。
たぶん、当初は佐藤浩市演ずる売れない俳優の再起のドラマであったものが、進行するうちに西田敏行の側のドラマが予想外に育ってきてしまったということなんだろうと思う。西田敏行演ずる親分の失脚は、ドラマ全体の構造をいびつにしたのではないかとも思う。
これは、例によって高望みの難癖にすぎない。首位打者をとった選手に打点が少ないといって文句を言うファンに似ているだろう。